〒771-1202
徳島県板野郡藍住町奥野字猪熊96

 (藍住南小学校すぐ北)
 
高野山真言宗 觀音院 
    駐車場は裏の信号角
TEL/FAX 
088-692-2393
http://wwwi.netwave.or.jp/~sanbougu/


三寶大荒神王本宮

奈良朝の開創と伝う
本宮情報

     
  
  

6月23日㈰ 大般若転読夏祈祷会

         

          御祈祷は寺内々にて厳修致します
          御祈祷希望の方は、前もってお申込みください。

       
觀音院情報


           本年度は検討中   
          小学生 7月24日日帰り
 詳細は、觀音院へ







1 草創

  霊峰高野山は、お大師さま(弘法大師空海)が弘仁7年(816)嵯峨天皇に願い出て下賜され、真言密教の根本寺院
 である金剛峯寺を開創したことに始まります。
  当時は高野山全域を金剛峯寺と称し、「わが山は破壊することのない最上最尊の峯 」という大吉祥なる命名をさ 
 れたのです。
  真言密教道場に相応しい伽藍の建立を創案し、西に伽藍道場(胎蔵界)を東に奥の院 (金剛界)を建立して、山上に
 両部曼荼羅を立体化したのでした。
  まず大師の修法される持佛堂(御影堂)諸弟子の僧房を建立しました。
  人里はなれた人跡未踏の地での事業、十方有縁による基金の調達は、困苦・難渋のことであったと想像されます。

  翌年下賜された高野山七里四方を結界し伽藍道場で地鎮祭の儀を行ないました。

2 伽藍建立
   弘仁10年、人法を守護し、伽藍を護持する為に、鎮守三社明神を建立しました。
   大師御在世の建物は、根本大塔・講堂(金堂)・僧房で、未完の伽藍は、高野山第二世の真然大徳の想像を絶す 
  る努力により開創以来70年を経て、全ての壮大なる密教伽藍が完成しました。 
   現在の諸堂は、高野山の気候条件により度重なる雷火により再建が繰り返された建造物です。


3 再興 観賢僧正
  高野山僧における密教修行が本格化したにもかかわらず、開創100年後、4代目の無空の時代に、大師が唐
  より御請来した真言密教の奥義を書いた「三十帖策子」の帰属をめぐり東寺と高野山が争い混乱、衰亡の時期が
  おとずれました。大師相承の法宝をかかげ、護持してゆくことの難しさがあらわれています。
   この危機に観賢僧正が座主を務められ、この高野山の危機を救い、お大師さまの入定信仰や聖域高野山という
  観念を一般に定着させる基をつくったのでした。
   観賢僧正は、東寺の長者も兼ね、座主と執行職を別に立て高野山内の運営を安定化させ、後に仁和寺の別当、
  醍醐の長者になるなど英傑僧でありました。
   「高野山結ぶ庵に袖朽ちて苔の下にぞ有明の月」
   延喜21年(921)醍醐天皇は、夢枕に立たれたお大師さまの御姿があまりにもお気の毒で、「弘法大師」と
  いう大師の諡号を贈り、桧皮色の御衣を下賜致しました。
   以来お大師さまが入定された正御影供3月21日には御更衣の式を行っています。

4 中興 祈親上人
  正歴5年(994)落雷によって御影堂のみを残して伽藍壇場悉く灰となりました。
   紀伊の守の山領の押妨は、経済的な大打撃となり再興は遅々として進まず、またもや廃亡の100年間をむか
  えることとなりました。
   長和5年(1016)長谷寺の観世音の霊告をうけた祈親上人は、高野山の興隆を誓願して奥の院御廟に貧女の
  一灯(祈親灯)をともしました。
   献灯はお大師さまが高野山で最初に営まれた「万燈万華会」の意志に適うものでありました。
   「智慧の光明をかかげて、生死の闇を照らす」
   祈親上人は南部興福寺の勧進僧でありましたが、高野山の教学中院流を再興するため、流祖明算阿闍梨を養
  育しました。


5 全国的な高野山浄土信仰
  祈親上人と同じく高野山の復興に携わった教懐上人は、高野山聖(ひじり)集団をつくって活動したことから浄
  土信仰が全国的に定着しました。
   藤原道長は、(1023)高野山に参詣し法要や供養を修行し、御廟前に埋経して弥勒浄土往生を祈願しました。
  続いて白河上皇・鳥羽上皇・藤原頼道等貴族が参詣、堂塔や子院の建立が行われました。
   西行法師も入山して庵室を構え30年間高野山の為に尽くしています。
   真言念仏を旨とする覚鑁も入山しました。
   新別所という念仏別所も、東大寺大勧進職重源により設けられました。
   活況を得た高野山は、2度目の伽藍落雷焼失(1149)には平忠盛・清盛に再建奉行が命ぜられ間髪を得ずし
  て復興がなされました。
   平安末期には、本来の密教の聖山から今日奥の院に見られるような多様な宗教信仰が重なりあう天下の霊場
  高野山となっていきました。


6 鎌倉武士の安住地
  平家が壇ノ浦で敗れるや(1148)多数の公卿や武士が出家して高野山に登りました。
   鎌倉幕府になると、北条政子が頼朝や実朝の菩提を弔うために寺院を建立し、金剛三昧院を中心に幕府は、高
  野山の宗教文化活動に大きく貢献しました。
   力強い武士の好む仏教美術もこの時代に花開き、学問奨励の高野版印刷、参詣道の町石の設置の発願もあり
  ました。
   政変の度に高野山に隠棲するものは増え興隆は続きました。
   南北朝時代の政治波乱な時にあっても中立をまもり愈々20万石ともいわれる高野山領を保持するに至りまし
  た。

7 戦国大名との檀縁地関係
  室町幕府の勢力が衰え、戦国時代にはいると高野山寺領(荘園)は影響を受け困窮期をむかえました。
   その対応策として、安養院と足利氏、蓮華院と松平氏のように有力戦国大名と高野山の子院が檀緑地関係を結
  び寺領の維持がはかられました。
   教学の面では、不二門と而二門の二派がおおいに論じあうこととなりました
   宥快上人は当時の密教の曲解誤認の解釈を悉く正して、両派は融合調和して教学の黄金時代となりました。
   伽藍山王院では「竪精論議」が今も行われています。
   高野山では、学侶(教学の研究をする者で、各種法要の伝統護持)行人(寺院・諸堂の経営管理雑務をするもの)
  聖(念仏行者で諸国をめぐって、高野山と各地の高野尊信の連絡)が、それぞれに祖山護持の為に実力行使をし
  てでも危急存亡の戦国時代を超えてゆきました。


8 信長の高野攻めにも屈せず
  戦乱の時代に高野山領を守るために、高野山徒は山麓の2か所に砦を築いたことに発する信長の怒りは、天正
  9年の聖の大虐殺に始まりました。
   13万の兵が高野山麓を焼き払い、周りを包囲してあわや高野攻めとなりかけましたが、明智光秀の本能寺の
  変により危機を脱しました。
   山内では、3万の兵が7つの登山口を閉ざして、5壇構えの大祈祷を修しこれを迎えうったのでした。
   こうして高野山領はひとまず守られました。


9 秀吉に従わず
  
君主信長の遺志を継いだ秀吉の帰順勧告に従わなかった根來山(覚鑁上人開基)を全山焼き払いま した。
   高野山では、秀吉の「三カ条の朱印状」の受け入れについて高野山衆徒の評議の結果、無条件で 寺領を手放
  すこととしました。
   またもや高野山は没落の危機に立ったのでした。

10 木喰応其上人の立て直し
  秀吉は、交渉にあたった応其上人の手腕や人徳を認めて帰依し、高野山の再興を支援することとなりました。
  秀吉は、学僧の為に興福寺を、実母の追善の為に青巌寺を建立しました。
   後に金剛峰寺と呼ばれる本山の寺の起こりであります。
   応其上人の高野山再興や全国の社会事業、寺院、社殿の建立は、秀吉の政治力と経済力の擁護によって大き
  な功績として残っています。
   秀吉は伏見城で没しましたが、応其上人は葬儀の万端を采配しました。
   応其の次代の勢誉は、関ヶ原の合戦後徳川家の為に祈願したので、寺領は保全されましたが、一部の高野山
  子院に対しても大名並みの参勤交代を命ずるなど、厳しい幕藩体制の中に組み入れられました。

11 徳川家に始まる宿坊制度
  室町時代に機縁した徳川家は、高野山の檀縁関係により高野山蓮華院を菩提寺としました。
   江戸時代の300の諸大名はこれに並って子院と檀縁関係を結び、領民の高野山宿泊も大名の菩提寺に限定し
  て所縁坊という宿坊制度ができました。
   奥の院墓域に立ち並ぶ諸大名の五輪塔群は檀縁関係の歴史的な遺産であります。
   庶民の参詣も活発となり、山内は参詣者相手の店舗も増えていきました。
   参勤交代によって江戸番所が設けられ京都や高野山ばかりでなく江戸でも学問僧が多く輩出しました。
   徳川3代家光は祖父家康と父秀忠の為に「徳川家霊台」を建立して、恩顧に報いました。
   江戸時代には、徳川家の庇護を受けて高野山は興隆しましたが、度重なる天災に対しても復興が繰り返されま
  した。


12 明治維新政策によって
  慶応3年(1867)徳川幕府は大政奉還を行ない、250年間の江戸時代は終わりをつげました。
   明治新政府による政策によって寺領と寺有林の全ての返上が命ぜられ、高野山は経済的基盤を失うこととなり
  ました。
   高僧たちは一山をあげて協議をして、自立存属する為に680の塔頭寺院を130ヶ院に纏め護持していくこと
  としました。


13 宇宙の教え
  現在では、高野山真言宗金剛峯寺を中心に、117ヶ寺の塔頭の寺院を有しています。
   高野山を取り巻く八葉の蓮臺は、1000年余りも俗界から聖域を護り、山上は奥の院と伽藍の間に町並みが
  広がり、商店や民家、寺院が甍を並べて門前町を形成しています。
   高野山は、お大師さま修禅の道場で日本人の祖霊を供養する道場として、地球上の全世界を取り巻くどのよう
  な社会情勢のなかにあっても、時の高僧たちや帰依する篤信者によって、お大師さまのご遺志を守り継承し、あ
  らゆる人々の心の拠り所となってきました。
   また、世界遺産に登録された高野山は、現代社会の合理主義を旨としてきた国の内外の人々が、山の静寂の
  中でじぶんを見つめなおす空間としても山上は賑わっています。

14 開創1200年の高野山
  平成27年は、お大師さまが高野山を開創してから1200年になります。
   いま日本は度重なる自然災害にも屈せず「絆」を合言葉に頑張っています。
   お大師さまの生涯の教えは、私たち個々に聖なる仏の内在を示し、その仏のエネルギーはそれを超えた生命を
  大自然の中に生かされているという安心を与えています。
   聖地高野山は、私たちを大生命によって包み込み、私たちの小さな仏の禅定の場として安らぎと明日への活力
  を与え続けています。








































































































               
         
2015年はお大師さまが高野山を開創されて1200年目にあたります。
高野山弘法大師御開創1200年の歴史
                参考「高野山金剛峯寺」堀田真快著
                      「大法輪」高野山の歴史 井筒信隆著

 

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