奥殿北朝時代の応安3年細川詮春(よりはる)公が、当山の浄地にご神躰を遷宮奉安されてより650年を経て、2014年奥殿が新改築されました。
  節分会には御開帳と、奉納経が行なわれます。
  建物は春日造り 総檜 銅板葺 一間社です。

    秘仏 十一面観世音菩薩尊像
    
 
尊像の作者などは不明だが、技法や装飾などから、平安時代末期以来、京都七条口で活躍した専門仏師集団である院派仏師の作品と推定され、時代も南北朝時代の作風を濃厚に残した室町時代前期の作品と思われる。台座や光背は江戸時代の後補であるが、台座には梅に鶯が彫刻されるなど、江戸期ならではの装飾性の高いものである。
               (須藤茂樹四国大学準教授 徳島新聞掲載)

 奥野のお観音さんと呼ばれ、観音護摩堂に祀られています。
 觀音院の尊像のうち最もふるく歴史のある仏様です。地蔵菩薩様と不動明王様を脇侍にしています。
 幾多の霊験が語り継がれており今も厚い信奉をうけています。


   秘神秘仏を守護する四天王
     多聞天像(毘沙門天)
江戸時代の作

 
秘神秘仏を守護する四人の守護神です。東西南北の方位を護り、それぞれに持国天、増長天、広目天、多聞天とよばれています。

                   阿波の御隠居狸  
                        勝運の神
 
                     
 時は江戸末期慶応年間のこと、大麻町川崎から惣助という翁が納所として觀音院に来ておった。
 当時、境内の北西の隅に薮があり、橄欖の大木があった。その大木の洞穴を住まいにしていた古狸の一家がいた。その狸たちは、当山の観音さまの敬虔なる御家来で、のちの川崎の御隠居狸と七人童子と呼ばれるお狸さまのことだ。
 特に大古狸は占い力に長けており、その精が納所に乗り移り、困ったときは何事でも納所の指図とおりにすれば叶えられると評判になり、近隣の人々は訪ねてきては、狸の占い力を受けて救われておった。
 それを伝え聞いた阿波藩主は、当時西の丸大殿が、不治の病に侵されていたので納所を徳島城下にお召しになった。納所は、直ちに吉凶透視を用いて名医、薬湯を占い言上し、その通りにしたところ忽ちに本復を遂げられた。
 又、ある時は、城内の重宝の器物が紛失したので、藩主は、再び納所を城内にお召しになったところ、奥野観音さまの御家来の古狸が占い力を発揮して、納所を使って、群臣列座の前で
 「並び居る方々の一人に隠した者がおる。もし今言上すると笠の台が飛ぶ。それも哀れだから、今宵我が寝所に持ち来たれ。命ばかりは助ける程に。」重ねて
 「もし誰でも、今宵我が寝所あるいは付近を故なく覗けは、命は三日を出ずして終わるであろう。」と言い置いた。
 すると、難なく重宝の器物は元の場所に戻されておった。
 阿波藩主十三代齋裕公は、将軍徳川家齋公の御子にして、頭脳明晰、政治に敏腕をふるい、将軍さまの相談役も務められた程であった。特に太守は、四十数年のご生涯の間、当山の観音さまに篤く帰依された。太守は、当山に金の釣り灯篭、灯明提灯一対、あるいは現存せる大理石の手水鉢を寄進し賜うた。納所には帯刀を許したそうだ。
 当山の観音さまの御家来である古狸の御隠居狸は、笛や太鼓三味線を手にした七人童子といわれる狸を引き連れて行列し、井隈之荘を北へ南へと闊歩していたそうだ。
 その後も流行りだして、八方より参詣の諸人絶え間なく、納所の没後には誰となく「川崎権現」と唱えるようになった。
 大正年間に至りて、時の住職道隆上人が一堂を建立して、観世音菩薩の眷族の内「他化自在天」を勧請した。
 お陰を受けたる者は、幟を奉納し、近隣在住の人々は「勝運の神」として信仰すること盛んである。                                        
(板野郡史)








































中世の歴史を遺す伽藍建築
                                           
雲龍山觀音院と三寶大荒神王本宮

 
当山の開創は、聖武天皇の神亀3年勝道上人が諸国巡錫の折、聖徳太子の仏法興
隆の霊告をうけて、この地に草庵がむすばれたといわれ、およそ1300年の歴史を
とどめているといわれています。
 元の寺名を雲龍山法隆寺といいます。ここ井隈郷にある境内地は一町四方におよ
び、法隆寺を本寺として南泉寺と觀音院を塔頭にもつ三ケ寺を一山とする伽藍聖域
でありました。
 寺領の南西に南泉寺、北東に觀音院が位置し、境内の大方は法隆寺が占めていたといわれています。
 南北朝時代、貞治6年に四国管領細川詮春公が、天満天神のご神託をうけて本地
三寶大荒神王と十一面観世音菩薩を当山に勧請し社堂を建立したと伝えています。
 後、天正10年中富川の合戦により阿波一帯は兵火に遭いましたが、奇しくも南
泉寺の観音堂と觀音院の堂宇は戦火をのがれました。時の住坊寛勝上人は、当山
神仏の恐煌の他なき御神験の顕現を目の当りにし、観音堂神仏の宮殿の開閉を堅
く禁じ、以後は秘神「三寶大荒神王」、秘仏「十一面観世音菩薩」としてお祀りし
てきました。
 そして、元和年間本堂を建立、後、南泉寺の観音堂を現在位置に移し、元の觀音院の堂宇を一山の伽藍として整え、塔頭の寺を纏め寺名を雲龍山觀音院と改めました。
 元治年間は、阿波藩主蜂須賀齋裕公の病気平癒の祈願祈祷を修し本復をとげるなど、阿波歴代国主の信奉をあつめてきたのでした。
 以来、檀家寺であるばかりでなく、近隣諸国諸人の祈願祈祷所として仰ぎ親しまれています。


  秘神 三寶大荒神王
 奥野の三宝荒神さんとは「日本三躰隨一本地三寶大荒神王」であり、神仏無二甚だ深々の義の上に立つ宇宙神秘の権化神で、両部不二の荒神の大王であり、荒神の親神なり。
 ここでいう三宝とは、「仏・法・僧」であることはもとより、衆生未生有前の世界、日輪の源である梵より出現、あらゆる出現の元となる「火の神・水の神・土の神」の三神を司り、諸神、諸人を生ぜしめる主なり。
 中世の往古に、四国管領阿波国主細川詮春(のりはる)公が帝の帰依をうけたる御尊体を、大和子島山よりご遷宮奉安なされた日本で三躰といわれる大荒神王なり。
 「荒神経」に「信心堅固の結縁を誓い一心に憶念し供養すれば、三毒を滅し、諸魔の障礙を払い、諸々の麁乱を除き、一切の悪事災厄を消滅す。」とあるが如く、ご威徳高くご神力あらたかな「秘神三寶大荒神王」なり。(本宮誌)

   
          拝殿(秘神秘仏の宮殿)      奥殿
拝殿三寶大荒神王の祭典などはこの拝殿で行なわれます。
 十一面観世音菩薩を祀り
観音護摩堂としても伝えられています。
 現在の建物は江戸時代初期のもので、:建築様式は和様唐様折衷で、格式高い二
 重屋根造りで、上層屋根も大棟を備えた寄棟屋根と放射状の扇垂木が美しいとい
 われています。

   外陣天井に描かれた龍の墨絵



雲龍山 觀音院

奈良朝の開創と伝う
由緒

三寶大荒神王本宮

秘神秘仏の社寺
川崎権現と惣助狸
〒771-1202
徳島県板野郡藍住町奥野字猪熊96

  (藍住南小学校すぐ北)
   
高野山真言宗 觀音院 
     駐車場は裏の信号角
 TEL/FAX 
088-692-2393
http://wwwi.netwave.or.jp/~sanbougu/

三寶大荒神王本宮