当山の開創は、聖武天皇の神亀3年勝道上人が諸国巡錫の折、聖徳太子の仏法興
隆の霊告をうけて、この地に草庵がむすばれたといわれ、およそ1300年の歴史を
とどめているといわれています。
元の寺名を雲龍山法隆寺といいます。ここ井隈郷にある境内地は一町四方におよ
び、法隆寺を本寺として南泉寺と觀音院を塔頭にもつ三ケ寺を一山とする伽藍聖域
でありました。
寺領の南西に南泉寺、北東に觀音院が位置し、境内の大方は法隆寺が占めていたといわれています。
南北朝時代、貞治6年に四国管領細川詮春公が、天満天神のご神託をうけて本地
三寶大荒神王と十一面観世音菩薩を当山に勧請し社堂を建立したと伝えています。
後、天正10年中富川の合戦により阿波一帯は兵火に遭いましたが、奇しくも南
泉寺の観音堂と觀音院の堂宇は戦火をのがれました。時の住坊寛勝上人は、当山
神仏の恐煌の他なき御神験の顕現を目の当りにし、観音堂神仏の宮殿の開閉を堅
く禁じ、以後は秘神「三寶大荒神王」、秘仏「十一面観世音菩薩」としてお祀りし
てきました。
そして、元和年間本堂を建立、後、南泉寺の観音堂を現在位置に移し、元の觀音院の堂宇を一山の伽藍として整え、塔頭の寺を纏め寺名を雲龍山觀音院と改めました。
元治年間は、阿波藩主蜂須賀齋裕公の病気平癒の祈願祈祷を修し本復をとげるなど、阿波歴代国主の信奉をあつめてきたのでした。
以来、檀家寺であるばかりでなく、近隣諸国諸人の祈願祈祷所として仰ぎ親しまれています。
奥野の三宝荒神さんとは「日本三躰隨一本地三寶大荒神王」であり、神仏無二甚だ深々の義の上に立つ宇宙神秘の権化神で、両部不二の荒神の大王であり、荒神の親神なり。
ここでいう三宝とは、「仏・法・僧」であることはもとより、衆生未生有前の世界、日輪の源である梵より出現、あらゆる出現の元となる「火の神・水の神・土の神」の三神を司り、諸神、諸人を生ぜしめる主なり。
中世の往古に、四国管領阿波国主細川
「荒神経」に「信心堅固の結縁を誓い一心に憶念し供養すれば、三毒を滅し、諸魔の障礙を払い、諸々の麁乱を除き、一切の悪事災厄を消滅す。」とあるが如く、ご威徳高くご神力あらたかな「秘神三寶大荒神王」なり。(本宮誌)
三寶大荒神王の祭典などはこの拝殿で行なわれます。
十一面観世音菩薩を祀り観音護摩堂としても伝えられています。
現在の建物は江戸時代初期のもので、:建築様式は和様唐様折衷で、格式高い二
重屋根造りで、上層屋根も大棟を備えた寄棟屋根と放射状の扇
われています。
外陣天井に描かれた龍の墨絵
雲龍山 觀音院
三寶大荒神王本宮
三寶大荒神王本宮