5)終戦責任(終戦に際する昭和天皇のご決断)について

 開戦の決定とは対照的に、終戦の決定は陛下お一人の決断で、通常とは異なる手順でなされた経緯を、現代の日本人は知らないのではないか。

 戦争の結末は、もし陛下がそう命じれば、一億玉砕のような状況もありえたかもしれない。一般論であるが、普通の君主なら、人民をいくら犠牲にしても、自分が助かる道を選んだであろう。「広島、長崎の原爆投下」、「講和の仲介役を期待していたソ連の、中立条約(日本との)破棄しての一方的参戦」(ソ連の参戦は、終戦間際の8月9日。勝ち組みに加わり、戦後の分け前を狙ったソ連軍は、すでに瀕死の日本に牙を剥き、満州に開拓団として居住していた民間人を一方的に虐殺しつづけた。避難民に対する略奪や暴行は、8月15日を過ぎてもなお平然と行われた。この暴挙が、後の中国残留孤児を多数生み出した。誰が好き好んで愛する我が子を捨てるだろうか。)このような危機が刻々と迫る中、軍部も内閣も、陛下の御身を思えばこそポツダム宣言受諾をなかなか決議できないでいた。ところが、御前会議において、陛下ご自身が、身を捨ててポツダム宣言を受諾する旨、意見を述べられたのである。御前会議で陛下が発言され、それに基づいて会議の決定とされたのは、異例中の異例であった。参考の為にこの経緯を記す。

 終戦を決定した御前会議の様子は、さまざまな書物に書かれているが、本文は、その場面に立ち会った一人であり、内閣書記官長として列席していた、迫水久常(さこみずひさつね)氏の証言に基づいている。

 第二次世界大戦末期において、国土は原爆を投下され、数多くの同胞を、国土内、のみならず、あるいは北海の地に、あるいは南溟の空に失いました。それにもかかわらず、当時の最高戦争指導会議においては、ポッダム宣言の受諾か本土決戦覚悟の戦争継続か、議論は二つに分れて、どうしてもきまらなかったのであります。そこで、まとまりをつけるためには、陛下の御聖断を得るほかなしと、当時の鈴木総理は決意をして、昭和二十年八月九日の二十三時から、地下十メートルにある宮中防空壕内の一室で、歴史的な御前会議をひらくことになりました。
 「陛下は足どりも重く、お顔は上気したるごとくにて、入ってこられました。今も深く印象に残っておりますのは、髪の毛が数本額に垂れておられたことです。会議は総理が司会致しまして、まず私がポッダム宣言をよみました。日本にたえがたい案件をのむのでありますから、まったく、たまらないことでした。次に外相が指名されて発言しました。その論旨は、この際、ポッダム宣言を受諾して戦争を終るべきであるということを、言葉は静かながら、断乎申されました。次に阿南陸軍大臣は、外相の意見には反対でありますと前提して、荘重に涙と共に今日までの軍の敗退をおわびし、しかし今日といえども、必勝は帰し難しとするも、必敗とは決まっていない。本土を最後の決戦場として戦うにおいては、地の利あり、人の和あり、死中活を求め得ベく、もし事、志たがうときは、日本民族は一億玉砕し、その民族の名を青史にとどむることこそ本懐であると存じます、といわれました。次の米内海軍大臣はたった一言、外務大臣の意見に全面的に同意であります、といわれました。平沼枢密院議長は列席の大臣総長にいろいろ質問されたのち、外相の意見に同意であるといわれました。参謀総長、軍令部総長は、ほぼ陸軍大臣と同様の意見であります。この間、二時問半、陛下は終始熱心に聞いておられましたが、私は、ほんとうに至近の距離で陛下の御心配気なお顔を拝して、涙のにじみ出るのを禁じえませんでした。一同の発言のおわったとき、私はかねてのうち合せに従って、総理に合図いたしました。総理が立ちまして、おもむろに、『本日は列席一同熱心に意見を開陳いたしましたが、ただ今まで意見はまとまりません。しかし事態は緊迫しておりまして、まったく遷延をゆるしません。おそれ多いことではございますが、ここに天皇陛下の思し召しをおうかがいして、それによって私どもの意見をまとめたいと思います』とのべられ、静かに陛下の御前に進まれました。そのとき阿南さんは、たしか『総理』と声をかけられたと思います。しかし総理は、おきこえになったのか、おきこえにならなかったのか、そのまま御前に進まれまして、ていねいに御礼をされまして、『ただ今お聞きのとおりでございます。なにとぞおぼしめしをお聞かせ下さいませ』と申しあげました。陛下は総理にたいし、席に帰っているようにとおおせられましたが、総理は、元来、耳が遠いために、よく聞きとれなかったらしく、手を耳にあてて、『ハイ』というふうにして聞きなおしました。この間の図は、聖天子の前に八十の老宰相、君臣一如と申しますか、何ともいえない美しい情景でありました。総理は席へ帰りました。天皇陛下はすこし体を前にお乗りだしになるような形で、お言葉がございました。緊張と申してこれ以上の緊張はございません。陛下はまず、
『それならば自分の意見をいおう』
とおおせられて、
『自分の意見では、外務大臣の意見に同意である』
とおおせられました。陛下のお言葉の終った瞬間、私は胸がつまって涙がはらはらと前においてあった書類にしたたり落ちました。私のとなりは梅津大将でありましたが、これまた書類の上に涙がにじみまじた。私は一瞬各人の涙が書類の上に落ちる音が聞こえた気がいたしました。次の瞬間はすすり泣きであります。そして次の瞬間は号泣であります。涙の中に陛下を拝しますと、はじめは白い手袋をはめられたまま、親指をもって、しきりに眼鏡をぬぐっておられましたが、ついに両方の頬を、しきりにお手をもって、お拭いになりました。陛下もお泣きになったのであります。
 陛下のお心のうちは、けだし、想像を絶するものがあったにちがいありません。みんなが号泣しているうちに、なお陛下は、しぼりだすようなお声で、念のために理由をいっておくと、次のような意味のことをおおせられました。
 「太平洋戦争がはじまってから、陸海軍のしてきたことをみると、予定と結果が、たいへんちがう場合が多い。大臣や総長は、本土決戦の自信があるようなことを、さきほどものべたが、しかし侍従武官の視察報告によると、兵士には銃剣さえも、ゆきわたってはいないということである。このような状態で、本土決戦に突入したらどうなるか、ひじょうに心配である。あるいは日本民族は、皆死んでしまわなければ、ならなくなるのでは、なかろうかと思う。そうなったら、どうしてこの日本を子孫につたえることができるであろうか。自分の任務は、祖先から受けついだこの日本を、子孫につたえることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらって、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。このまま戦をつづけることは、世界人類にとっても不幸なことである。自分は、明治天皇の三国干渉のときのお心もちをも考えて、自分のことはどうなってもかまわない。堪え難いこと、忍びがたいことであるが、かように考えて、この戦争をやめる決心をした次第である…」。

 陛下のお言葉は、人々の号泣の中に、とぎれとぎれに伺いました。日本国民と、さらに世界人類のために、自分のことはどうなっても構わないという、陛下の広大無辺なる御仁慈にたいし、ただひれ伏すのみでありました。陛下のお一言葉はさらに続きまして、国民がよく今日まで戦ったこと、軍人の忠勇であったこと、戦死者戦傷者にたいするお心もち、また遣族のこと、さらにまた、外国に居住する日本人、すなわち今日の引揚者にたいして、また戦災にあった人にたいして、御仁慈のお言葉があり、一同はまた新たに号泣したのであります。陛下のお言葉はおわりました。総理は立って陛下に入御を奏請し、陛下はお足どりも重く室をお出になりました。
時に午前二時でありました。             
         以上、(迫水氏述「終戦の真相」より)

 駐日アメリカ大使ラィシャワー博士は、その研究書「太平洋の彼岸」の中で、じっさいには政治にたずさわれなかった日本の天皇の、ただ一つの政治に関係して、そのもっとも重大な、しかも、もっとも勇気ある決意を示されたのは、このときであると述べている。終戦の詔書にある、「帝国臣民ニシテ 戦陣ニ死シ 職域ニ殉ジ 非命ニ斃レタル者 及ビソノ遺族ニ想ヲ致セバ 五内為ニ裂ク」とは、まさにこのときの陛下のお気持ちそのものであった。

 後年、陛下は、「2.26の時と、終戦の時と、この2回だけ、自分は、立憲君主としての道を踏み間違えた」とおっしゃっている。(侍従、入江相政氏の「天皇さまの還暦」による)

 筆者もかなり前だが、新聞記者の質問に陛下が同様に答えられたことを拝読した記憶がある。しかし、そのときは、陛下のおっしゃっている意味が良く理解できなかったように思う。あたりまえだが、立憲君主と聖人君主とは、観点が違う。陛下のお言葉は、陛下が、どこまでも「明治憲法を遵守し、憲法の規定に従って」行為なされようと心がけてこられた心情の現れである。それは、前述の通り、国務大臣と枢密顧問の衆議による決定を尊重する事である。しかし、2.26事件の時と、終戦の決定の時は、陛下は、いわば、「超法規的に」独断で振舞われた。ご自分の意志によって、直接政治的決定に関与された、ただ二つの事件である。その理由は、「2.26事件の直後は、総理大臣が生きているのか死んでいるのか分らないので、自分が進んで〈決起した青年将校たちに対する〉態度を改めるように指導した。終戦の時は、議論がまとまらず、総理大臣が(陛下に)意見を求めたから、自分の考えを述べた」とおっしゃったそうである。

 マッカーサーは、終戦後、9月27日に初めて天皇陛下と会見し、この時の模様を、Reminiscences(マッカーサー回想記)の原文P288において、以下のように述べている。
 当初の、「天皇は命乞いに来た」というマッカーサーの予想に反して、昭和天皇は、「戦争遂行の過程において取られたあらゆる政治的、軍事的決定に対して、自分は、唯一の責任を負う者として(マッカーサー)閣下が代表する権力に自分の身をゆだねる」とおっしゃた。陛下の勇気あるご態度に、元帥は文字通り、「骨の髄まで揺さぶられた」と書き残している。〈詳しくは、参考資料参照〉

 つまり陛下は、責任があると言っておられないが、「責任を負う」と言っておられるのである。

 陛下のご態度は、自分が助かりたいために東京裁判で嘘をつき(嘘をついたことは、後に自身が認めている)、責任を一方的に日本になすりつけた、満州国皇帝、溥儀の態度と180度異なる。Reminiscencesが出版されたのは、1964年であり、戦後20年近くたってなお、マッカーサーが、作り話までして昭和天皇を弁護する理由は何もないであろう。

 昭和天皇のお人柄は、非常にまじめであり、政教分離の原則に忠実であった。このため、大東亜戦争を阻止できなかったという道義的責任を問う考えがあることは事実であろう。しかし、それは憲法に則った立憲君主として御決定の結果であり、当時の憲法(大日本帝国憲法)においては、その御決定は輔弼者たる臣下(開戦決定の御前会議に列席した東条首相以下の政府・軍首脳)の実質的な責任において御裁可を仰いだ結果であったことは先に述べたとおりである。また、戦禍に倒れた人々に対するお心の痛み(内的、道義的責任)は、陛下ご自身が折に触れ述べられている。

 外交上の宣戦布告を含む条約が、天皇の名によってなされたからと言って、「昭和天皇自らが、真珠湾攻撃を企画立案した」などと言う論説は、日本の伝統的な政治形態を理解せず、当時の日本の国家体制が戦時体制とはいえ立憲君主制であったことを故意に無視した欧米の暴論である。

 一方、ご自身の生命の危険をも顧みず、唯お一人で終戦の決断を下された大いなる勇気と誠実さは、永遠に昭和史に輝く史実であり、我々日本人がいつまでも心に留めておくべきである。

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