第2話 「南京虐殺」記述について

 小学校の教科書では、「日本軍は中国各地を侵略し、多くの生命を奪うなど、中国の人々に大きな被害と苦しみをあたえました」(大阪書籍)の様な内容で「南京大虐殺」を全5社が記述している。

南京入場

 中学校の教科書でも全7社が記述している。「・・首都南京を占領した。その際、婦女子を含む約20万人とも言われる中国人を殺害した(南京大虐殺)。」(東京書籍)、「日本軍は、シャンハイや首都ナンキンを占領し、多数の中国民衆の生命をうばい、生活を破壊した。ナンキン占領のさい、日本軍は、捕虜や武器を捨てた兵士、子供、女性などをふくむ住民を大量に殺害し、略奪や暴行を行った(ナンキン虐殺事件)。」(教育出版、写真)と記述。 欄外の註には「この事件の犠牲者は20万人といわれているが中国では戦死者と会わせて30万人以上としている。また、1941年からは、日本軍は、華北の抗日運動の根拠地などに対し、『焼きつくし、殺しつくし、うばいつくす』という三光作戦を行った。こうした日本軍の行為は、世界から強い非難をあびたが一般の日本国民は、敗戦後になって初めてこれらの事実を知った。」と記述されているが、このような記述が教科書として適切かどうか検証する。

【中学校歴史教科書】
犠牲者:一般市民を殺害した・捕虜と一般市民を殺害したと、中学歴史全7社が虐殺記述。
犠牲者数:「10数万人、中国では三十万人と言っている。」大阪書籍・清水書院・教育出版・日本文教出版の4社。「20万人」東京書籍・日本書籍の2社。帝国書院が数字なし。
三光作戦:大書・日書・清水・教出・文教の5社。


1)南京占領への経緯とその後の経緯

昭和12年(1937年)7月7日の廬溝橋事件で、日中戦争は始まった。7月29日通州事件(注@)。8月9日上海大山大尉事件。8月13日上海事変開始。国民党蒋介石軍は、上海事変にも敗れ首都南京に逃げた。日本軍は、南京に大軍を動員し断固とした態度をとるなら、中国は短期間に屈服するであろうと期待していた。11月末に日本軍南京に迫る。12月7日蒋介石 南京脱出。9日南京城解放を勧告。10日午後総攻撃開始。12日南京防衛軍司令官唐生智逃亡(注A)。13日南京陥落。陥落以後の2ヶ月間に、市民や難民、非戦闘員を巻き込んだ大量の虐殺・強姦・強姦殺害などが行われたとされる。8年間経た後の、東京裁判で初めて日本国民は知ることになった。昭和26年(1951年)「サンフランシスコ講和条約」で、南京虐殺(虐殺数の問題は別にするなど曖昧)を含む東京裁判判決を受託し、サインしている。その時点で日本政府が、公式に南京虐殺の存在を認めたことになった。それは法的な根拠となるのである。東史郎氏は裁判で敗訴したが、裁判所自身は南京虐殺の存在を認めている(後述)。

注@:通州は北京のすぐ東にある街で、南京政府を離脱した親日的な殷汝耕が組織した冀東防共自治政府の支配下にあり、約4百人の日本人が商業などを営み生活していた。日本の味方と考えられていた保安隊が、日本人の民家や商店、旅館になだれ込み、略奪、いかにも残忍な方法で女性子供を含む日本人を虐殺した事件。『戦争論』に詳しい。

注A:南京死守を蒋介石に宣言しながら、中華門・光華門の陥落する数時間前に南京防衛軍司令官唐生智は、部下を見捨てて下関 (シャーカン)から対岸へ逃亡した。南京は一つの門以外は全部閉められ、たった一つの出口(下関埠頭に最も近い。この門も閉まっていたという説もある)では脱出しようとする味方の兵隊を督戦隊(とくせんたい)が射撃した。指揮官のいなくなった軍隊は統制がとれなくなり、市の中心の安全地帯へ向かう者も多くあった。投降せず彼らは武器を隠し持ちながら軍服を脱ぎ市民になりすましていた。従って捕虜の資格を持たなかった。

2)南京事件を初めて知らされた経緯

 『検証 戦後教育』(高橋史郎著)では、GHQによって初めて知らされた南京大虐殺の経過を次のように紹介している。日本軍の残虐行為を強調した「太平洋戦争史」(昭和二十年十二月八日から十日間すべての全国紙に連載された)を補うために、日本軍残虐事件暴露シリーズが掲載された。

日本軍は恐るべき悪逆行為をやってしまった。近代史最大の虐殺事件として証人たちの述ぶる所によれば、このとき実に二万人からの男女、子供たちが殺戮されたことが確証されている。四週間にわたって南京は血の街と化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。・・・婦人たちも街頭であろうと屋内であろうと暴行を受けた。暴力にあくまで抵抗した婦人たちは銃剣で刺殺された。・・・母親は暴行され、子供はその側で泣き叫んでいた。・・・家族の者は一室に閉じこめられて焼殺されていた。南京地区官憲は後になって、暴行を受けた婦人の数を少なくとも二千名と推定した。

 この情報を初めて聞いた日本人に与えた影響は、甚だ深刻なものであったと著者は言う。

フランス文学者渡邊一夫氏の論文を紹介している。

敗戦後詳細に知らされた南京虐殺暴行事件をはじめとして数々の暴行行為が、あの『皇軍』のしわざであったかと思うと、『はたして』という感情と・・・しかし暗い予感が実現されてしまったことの証拠が示されるのが事実である以上、ただただ気が滅入るのである。・・・南京事件は、繰り返して申すが、中国人に加えた犯罪ではない。それは、日本国民が自分自身に加えた犯行侮辱である。(下線は筆者)

 占領政策としての、戦争犯罪洗脳計画である「太平洋戦争史」の徹底的すり込みが行われるまでは、日本人は現在まで続く罪悪感を持っていなかった。

3)虐殺の定義について

 虐殺とは、「残酷な手段で殺すこと。むごい殺し方。」(「日本国語大辞典」小学校)とある。戦闘行為中の殺人は合法であるが、戦争犯罪の規定は、こうである。

@交戦国軍隊に所属する者(交戦者)による戦争法違反行為(たとえば、毒そのほかの禁止された兵器を使用すること、病気または負傷によって戦闘能力を失った交戦者を攻撃または殺傷すること、非交戦者〔文民〕を殺傷しその財産を掠奪または破壊すること、防守されていない都市を攻撃すること、・・・捕虜を虐待すること)、・・・間諜や捕虜の逃亡行為などは、相手国の軍の安全または作戦行動に重大な危険をもたらすという理由から、現行中に捕らえられ場合、相手国による処罰が戦争法上認められている。」(TBSブリタニカ百科事典) 

 便衣兵(べんいへい)については、「軍服を着ていない便衣兵が軍隊と認められないのはもちろんだが、敗残兵となった者たちが軍服を脱ぎ捨てて市民の中に紛れ込み攪乱工作をし始める例が、支那大陸では頻繁にあった。」(『国家と戦争』小林よしのり共著)とあり、便衣兵への攻撃は合法で虐殺にあたらないとしている。

 戦勝国の戦争犯罪、アメリカの戦争犯罪・虐殺については、いちども裁かれ処刑された者はいない。アメリカが行った原子爆弾投下以外の日本人への虐殺について、ある有名なアメリカ人の日記を紹介する。ただしこの引用は、アメリカの戦争犯罪を掘り起こして補償を云々するためのものではないし、南京で大虐殺がありそれを相殺させるために紹介するのでもない。戦争に向かった状況は、それぞれにそれぞれの正義があったからだ。戦争行為に正邪はない。そこには壮絶な狂気しかないことを言いたい。

<「リンドバーグ日記」>(「リンドバーグの衝撃証言」『正論』五月号 より引用)

六月二十一日 水曜日  日本兵士殺害に関する将軍の話

・・帰国する前にせめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。軍曹は敵の地域内に進入する偵察任務に誘われた。軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。・・・「しかし、俺はあいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ」「ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ」

偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に日本兵の頭部に腕が巻き付き、喉元が「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」のだった。

六月二十六日 月曜日

・・談たまたま捕虜のこと、日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」と将校の一人が答えた。「ところが、わが方の連中は捕虜を取りたがらないのだ」「***では二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった百か二百だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」

「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」と別の将校が調子を合わせる。

六月二十八日 水曜日

・・・「ま、なかには奴らの歯をもぎとる兵もいますよ。しかし、大抵はまず奴らを殺してからそれをやっていますね」と、将校の一人が言い訳がましく言った。

七月二十四日 月曜日

・・・爆弾で出来た穴の近くを通り過ぎる。穴の底には五人か六人の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。同胞が今日ほど恥ずかしかったことはない。

八月六日 日曜日

・・・「オーストラリアの連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなったときの話を知っているかね? あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ。捕虜を機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」

九月九日 土曜日

将校の話によれば、・・日本兵の首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。頭蓋骨にこびりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが悪臭が強くなり過ぎたので、首を取り上げなければなりませんでした。

九月十四日 木曜日

税関吏は荷物の中に人骨を入れていないかと質問した。日本兵の遺骨をスーベニアとして持ち帰るものが数多く発見されたので、相手構わずにこのような質問をせねばならないのだという。

(「リンドバーグの衝撃証言」『正論』五月号)

 「国民の歴史」では虐殺に関し、高木桂蔵氏の「虐殺番付横綱。毛沢東の二千六百人」(『新潮45』平成9年2月号)を紹介している。

戦場の興奮に基づかない、理念に基づく殺人行為、大量虐殺となると、おそらく毛沢東、スターリンの右に出るものはないだろう。最近は中国共産党が自らの誤った歴史を控えめに自認する方向に向かっているらしい。『建国以来歴代政治運動史実報告』と題する、中国共産党の内部文献が外部に漏れた。・・・党幹部向けのマル秘文書である。これが毛沢東の建国以来、文革までの殺戮数は二千六百万人であったというタブーを認めている。・・高木氏によれば、二千六百万人は極めて控えめな数字で、アメリカ上院安全委員会が1971年8月に出した調査報告書では、「・・・合計五千万人を殺害している」と報告しているそうである。これに文化大革命の犠牲者を加えれば、途方もない大虐殺になる。

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