2)日米修好通商条約

 安政5年(1858年)、幕府は孝明天皇の勅許が得られないため、アメリカの初代総領事ハリスとの通商条約調印を延期し続け、幕府側の事情を知るハリスも延期に応じていた。しかしこの年の6月13日、下田に入港したミシシッピ号が、「アロー号事件で清と交戦中だったイギリスとフランスの連合軍が、清を打ち破って天津条約を結び、そのまま日本へ向かうかもしれない」という情報をもたらしたため、状況は一変した。

 ハリスはこの情報を幕府側に伝え、これまでの苦労を無にしないためにも一刻も早く調印を行いたいと申し入れると同時に、他国との問題が起こった場合には、アメリカが仲介すると約束した。

 この期に及んでも、大老・井伊直弼は勅許を待つ姿勢を貫いており、直接ハリスとの交渉に当たっていた海防係の岩瀬忠震と井上清直に「なるべく延期を申し入れ、それが受け入れられない場合には調印しても良い」という指示を与えていた。

 しかし、英仏の動きに危機感を持っていた二人は延期交渉をすることなく、619日、神奈川の小柴沖に停泊するポーハタン号に到着するとすぐ、日米修好通商条約に調印した。

 一般に、この条約に調印したのは大老・井伊直弼の独断と言われているが、井伊の気持ちとしては、朝廷や世論の反発をかわすために、もう少し時間をかせぎたかった、というのが真相ではないだろうか。

 不安定な国際情勢の中で、急遽結ばれたこの条約によって、神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港が決定され、自由貿易が認められた。しかしこれは、日本側には関税自主権がなく(貿易章程)、治外法権を認めるという不平等条約だったのである。

 この後約一ヵ月間に、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の不平等条約を結んだ。この条約が改正されるのは、明治も終わりになってからで、幕府は結果的に、後世まで重くのしかかる問題を抱え込んでしまった。  

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