第2話 世紀の遺書

 現在の歴史教科書は、過去に日本人が犯した罪とそれに対して謝罪と補償を求める声のオンパレードである。しかし、その罪はいったい誰が犯した罪だろう?どうして、おじいさんが犯した罪をその孫やひ孫が引き継いで、謝罪したりお金を払って償わなければならないのだろう。一体誰に対して?江沢民氏は、歴史認識の問題は永遠だと言っているけれど?

 実際に捕虜を虐待したり、原住民を虐殺したとされた日本の軍人は、B・C級戦犯として、内地や外地で戦後捕らえられ、4000人以上が投獄された。その内、1068人が、銃殺刑または絞首刑となり、処刑を免れた人も長く牢獄につながれている。つまり、罪を犯した犯人は、50年も前に「死を以って罪を償っている」のである。もちろん、南京虐殺を行ったとされた、将兵は松井大将以下、すべて死刑にされている。このことを一体どれだけの日本人がわかっているだろうか?どうしてそれが日本の教科書にきちんと書かれていないのか?

 ただし、このB.C級裁判と言うのは、全くでたらめな裁判で、明らかに人違いで処刑された無実の人が多く含まれていたと言われる。(連合国は、あまりにでたらめな裁判であったが故に、その資料を100年間非公開と決めた。)

 筆者の手元に「世紀の遺書」と題した一冊の本がある。戦犯として処刑された人々のうち、可能な限り収集された701名の方の遺書をまとめた本である。筆者がまず他人事に思えないのは、処刑された人々のほとんどが30代の半ば前後であり、我々JCメンバーと全く同世代であったからである。ほとんどの人は、妻とまだ幼い子供、あるいは両親に宛てて最後の言葉を残している。処刑される2,3分前にザラ紙に鉛筆で書いたものも多い。看守の目を盗んで、面会人が靴の底に隠して持ち帰ったものも多い。内容はさまざまである。少数であるが、死の直前にキリスト教に改宗した人もある。また、この中には、朝鮮、台湾出身の軍属や通訳が45名含まれている。軍人だけでなく、民間人や文官も196名含まれている。中には、処刑されるまでの数ヶ月間の詳細な日記も含まれており、701名の遺書の全てに目を通すのは容易なことではない。しかし、これらの遺書と向かい合っていると、筆者には今日の教科書問題の「原型」が見えてくるような気がする。

 筆者は大勢の方々の遺書を読んでいるうちに、これらの遺書には「いくつかの共通点」があることに気がついた。戦犯の処刑は、中国だけでなく広く東南アジアに渡る50ヶ所以上の刑務所で行われている。全く違うところで、別々の戦勝国(中華民国、米国、英国、仏国、オランダなど)によって裁かれたにもかかわらず、戦犯の裁判には、不思議な共通点が見られる。

 それは、こう言うことである。まず例外的に、ごく少数の日本兵による戦争犯罪があったことは事実である。(現行の歴史教科書は、この一部の例外的な事件を全ての日本軍人、あるいは全ての日本人が悪事を働いたように受け取れるように事実を歪めて伝えている。しかし、現代の日本にさえ凶悪犯はいる。それは事実である。だからと言って日本人の全てが凶悪犯であるはずもなく、また凶悪犯ならば中国にも韓国にもどこにでもいる。過去の日本人だけが悪人であったはずはない。)

 ところが、戦争中の自分の行為に「心当たり」が有った人々は、戦争が終わると一目散にどこかへ逃げてしまった。逆に、身に覚えの無い真面目な、あるいは住民に親切に接してきた人たちは、何ら後ろめたいことが無いから戦争が終わってからも逃げる必要を感じていなかった。ところが、ある日突然、戦犯として捕らえられ戦争犯罪人として裁かれることになる。罪状は、「自分には全く身に覚えの無い住民の虐殺」であり、不思議なことに、自分が一度も会ったことの無い証人が「自分のことを知っている」と言って、虐殺のことをぺらぺらしゃべり始める。「証人のプロ」のような者が、いたるところの裁判所に現れている。自分の反論、あるいは弁護してくれる人の証言は全て却下される。このような一方的な裁判で、判決は有罪。処刑方法は、銃殺刑か絞首刑。

 ところが、公判の途中で、「虐殺された住民の数が水増しされた」と言う不思議(?)なことが行われている。もともと当人にとっては、全く身に覚えの無いことで、さっぱりどうなっているのか解らない。ところが裁判をしている側では、どうせ処刑してしまうのだから、「住民3人を虐殺したと言っても、300人を虐殺したと言っても同じ事」と考えたようである。そして、それらの虐殺が、当時、毎日華々しく「新聞記事として世界に発表された」。ここが最大のポイントである。すなわち、戦勝国としては、自らの正当性をアピールするために、逆に日本軍の残虐性、悪辣さを強調し、「世界に発表する」必要があったのである。このカラクリは、裁判の当事者であり、戦犯とされた人々にしかわからなかったことである。当時、大方の日本人は、戦時中報道統制がされていたために、隠されていた「事実」が今ようやく「明らかになった」と正直に受け止めた。そして、新聞が書きたてる「今、明らかになる恥ずべき日本の悪事」を真に受けてしまったのである。この時に発表された「事実」が、今日まで50年以上に渡り、日本の教科書における「事実」として引き継がれてきたのである。

 戦勝国は、何故か(?)この「真相が多数発見された」、裁判の記録を100年間非公開と決めた。しかし、そろそろ戦勝国から発表された、これら事実の「裏づけ」を検証すべきときが来ているのではないだろうか。(注)

日本人は、もっと外国から与えられた情報に疑問を持つべきである。それが、「歴史の真実から目をそらさない」本当の態度ではないだろうか。

(注)
 東京裁判において、日本軍の戦争犯罪を裁く証拠として、捕虜虐待、民間人の殺害、財物の掠奪等に関して600通の供述書が受理された。(もちろん南京大虐殺の証言もこれに含まれている。)ここで銘記すべきは、この600通の供述書によって日本は犯罪国家と決定されたのである。ただしその内、供述者が法廷に出廷し宣誓の上受理された宣誓供述書は30通のみであり(5%)、全体の95%は、文書だけが証拠として受理された。またこの裁判には、偽証罪の規定が無かった為、文書の中にどんな誇張や事実の歪曲、極端な場合には、全く虚偽の陳述をしてもそれがそのまま認められたのである。(証言者が出廷すれば、弁護側が反対尋問を通じて真偽を確かめることができる。しかし、相手が出てこないにもかかわらず、裁判所が一方的に証拠と採用したものに反論のしようが無かったのである。)このような、不公平かつ不確かな証拠が、日本を犯罪国家と決定した東京裁判の証拠の95%を占めている事を、どうか読者は記憶されたい!

 実は、サイパンにおける供述書の中に、弁護側が一人だけ「若松 誠」という日本人名を見つけた。この人物を探したところ(他の証言者は、南洋諸島や中国大陸のどこの誰だか探しようがなかった)、この人物が長野県軽井沢町で雑貨商をしている事を突きとめた。若松氏は弁護側の要請に応えて出廷し、「確かにアメリカ人将校の尋問を受けたが、それは先方が用意したものに先方が書きこみをし、出来上がった書類の内容は、日本語で聞かされることは無かった。ただ英文で署名せよと言う事だけだった。」と証言した。また、若松氏本人の出廷により、アメリカ人将校の作成した証拠には、内容が日本側に不利になるように勝手に書きかえられている事が明らかになった(詳細は誌面の都合で割愛)。
 これが、検察側の証拠捏造が明らかになった、唯一つの事例である。残念ながら、その他の569通は、恐るべきことにそのまま「事実」として裁判所によって認定されている。逆に日本側が提出した、「日本軍行動開始以前における中国本土の状態に関する証拠」、また「日本軍が中国に平和を回復し静謐をもたらしたことを示す証拠」などは一方的に却下された。
 この実体を知らない者に、「南京大虐殺30万人説」が正しいか正しくないかを論ずる資格はない。

 つまり、戦勝国による戦争裁判は、「最初から一つの目的を持った裁判」であったと言わざるを得ない。具体的には、「事件が起こったとされる年月日には、まだその地に赴任していなかった人」まで、何の弁明も聞き入れられずに処刑されている。通訳が数多く犠牲になっているが、それは、原住民が「通訳以外の名前を知らなかった」ため、犯人として名指しされたからである。本当に罪は何でも良かったし、裁かれるのは、誰でも良かったのである。ただ、正義の戦勝国が、悪の日本軍人に罰を与え治安を回復したと言う形式が必要であったのだ。そしてこの裏に隠されている大変重要な意味は、戦勝国=旧宗主国(日本がやってくる前に、その地を統治していた国)には、悪の日本を裁き正義を実現することで、再び植民地体制に復帰する布石を打つ意図があったと言う事実である。例えば、フィリピンにおける裁判はアメリカが、シンガポールにおける裁判はイギリスが、インドネシアにおける裁判はオランダが裁判の当事国となっている。原住民はあくまでかやの外であり、捕らえられた日本軍人は、戻ってきた欧米の植民地主義者によって裁かれたのである。裁判には、一度追い出されたことに対する報復がこめられていたことは察して余りある。(注)

(注)
 裁判の当事国別に見ると、オランダに裁かれて処刑された日本人が273人と最も多い。次が英国の254人、中華民国の175人、米国の167人と続く。

 非常にタイムリーであるが、先日(平成12年3月31日)発表された新聞記事によると、B.C.級戦犯を一国ではなく、多国間からなる「国際法廷」で裁こうとする構想が、「裁判の長期化を嫌う英国の主張で葬り去られた」との公文書が、英国立公文書館で発見されたと言う。記事によれば、英国は、「アジアで大英帝国を一刻も早く再建する必要があり、戦犯裁判に時間を掛けたくなかった」とのこと。別の角度から見れば、戦犯とされた人達は、欧米による植民地支配の一刻も早い復活のため、手っ取り早く処刑されてしまったことになる。

 だからこそ、本人が行ったこともない場所や、会ったこともない人の虐殺、掠奪、虐待が、それを「偽証」する現地人や元捕虜が一人でもいれば、それだけで有罪であった。

 中には、友が処刑の銃弾に倒れるたびに、見物に来ている中国人が歓声を上げている様子も書かれている。イギリス人の看守が、どうせ処刑されるのだからと、日本人の捕虜を虐待し、配給の牛乳を奪ったり水を与えない、トイレに行かせないなどして苦しめている。そうかと思うと、中国人の看守が「気の毒で言葉もない」と漢字で書いてタバコをくれたり、「自分に金か力があれば逃がしてやりたいと涙を流した」ことが記してあるものもある。
 自分一人を処刑して、部下は許して欲しいと嘆願した上官の遺書も数多い。

 もう一つの共通点は、いくつもの刑務所において、処刑場所は独房のすぐ近くにあり、後に残された者は、先に呼び出された戦友が、「処刑される瞬間の声や様子を、自分の番がくるまで見せられつづけた」ことである。
友が万歳を叫ぶ、その直後、「ガチャーン」と言うすごい音がする。絞首台の足場がはずされ、二階から一階まで落とされて宙吊りになった音らしい。このすごい音で、「ああ逝った…!」とわかり、そのたびに、「脇の下に冷たい汗が流れた」と書かれている。こんな残酷な拷問があるだろうか「塗炭の苦しみ」と書かずにいられない。

 これが、戦勝国の作り出した正義であり、この正義は、今でも東南アジアの国々の教科書に「史実」として書かれている(実は、日本の残虐行為を書いたものは華僑用の中国語版だけである)。ところが、ここがまた重要なポイントなのだが、日本の教科書は、「東南アジアの子供たちが学ぶ日本の侵略」と称して、向こうの教科書に紹介された日本軍の蛮行を「転載」している(注)。日本の教科書会社は、これら蛮行が「歴史的な事実」だとは一言も言っていない。ただ蛮行が、向こうの教科書に「載っていること自体は事実」と言いたいのであろう。しかし、転載された蛮行を二次的に学ぶ日本の子供達は、これらの蛮行が「歴史的な事実」だと認識してしまう。ここに恐るべき理論のすり替えがある

(注)
 「日本の軍人が、赤ん坊を宙に投げて銃剣で突き刺した」とか、「妊婦の腹を裂いた」とか言うたぐいの残酷な話が、まことしやかに伝えられている。教師の中には、好んでこのような話しを生徒に聞かせる者があるという。筆者はもちろんその現場を見ていないから、そんな事があったか無かったか「断定」する立場にはない。しかし、いろいろ学んで分った事は、これらの残虐行為は、中国の文化にこそ古くからある事であり、その昔はこれと全く同じ行為をモンゴル兵がやった事になっている。中国文化の忠実な模倣者である朝鮮でも、例えば光州事件(1980年)の際に、「抵抗した女性達が裸にされ、木にくくりつけられてつき刺された」、「妊婦を刺し、胎児をつかみ出して投げ捨てた」と言う噂が流れたと言う。もちろんこのときの犯人は日本兵ではなく韓国兵であり、一キリスト者の証言として残酷な様子が詳しく活字になっている。だが事の真偽には疑問点も多いらしい。

 また、こういういわゆる「虐殺話」には、虐殺が行われた際の「被害者と加害者の詳しい会話の様子」が書かれているのが特徴で、それは南京大虐殺と言われる日本軍の残虐行為を伝える記事にも共通である。南京の場合には、詳しくは紹介しないが、どうして中国に来てわずか2ヶ月ばかりの日本兵が、このような複雑な「南京語」(中国は地方によって全く言語が異なる)を理解できたのだろうか?と言う疑問がどうしてもぬぐえない。例えば、日本兵は80歳の老婆に至るまで女性と見れば全て陵辱したと言う?ある80歳の老婆を強姦する際に、「私はあんたのおばあさんくらいの年なんだよ」と言う老婆に対して、日本兵は「おれは何もお婆さんに、おれの子供を生んでくれと言っているわけじゃないんだよ…」と応えたとされるなど、この手の話しが延々と続く。

 この、「裸にして木にくくりつけて刺す」、あるいは、「狭い箱に閉じ込める」と言うのは、大陸独特の文化である。日本文化が持っているものではない。ついでに言えば、鼻をそぐことも中国伝統の刑罰にあり、手首足首を切るのは、世界で最も残酷な刑罰と言われる凌遅処死(凌遅の刑)の名残である。凌遅とは、ゆっくり苦しめて死なせると言う意味で、石の寝台の上で斧を使い、指先から切り落として、後は人体を生きたままレンコンのように寸刻みにゴツゴツと輪切りにしていく。そのたびに血肉が飛び散り骨が砕け、あまりの痛さに気を失っても喉が笛のように鳴るのだそうだ。次に腹を裂いて腸を引き出す。出来るだけ長く苦しめ、無様な格好で死なせるのである。
 中国人の残酷さこそ、日本人の想像を絶するものがあり、明らかに中国文化と日本文化は異質である。

 凌遅処死について、明代の歴史書(邱叡撰大学衍義補』)によると正式な刑罰になったのは、元代の事であるらしい。この処刑方法は、木に縛り付けて少しずつ切り裂く方法でも行われ、清の時代にこの刑を行っている残酷極まりない写真も残されている。
 驚く事に、この中国の伝統文化の中にある「処死」をモデルにして、中国軍の宣伝部隊が書いた絵が、日本軍の残虐行為を示す絵として日本の小学生用の教科書につい最近まで載せられていた。日本の教科書執筆者は恐るべき悪意を持ってこの絵を利用しようとしたのである。絵を見せられて、このような残虐行為を「日本人がやったと教えられた小学生たちのショック」は想像に難くない。

  中国4000年の歴史と聞くと現代の日本人には漠然とした憧れを抱く者が多い。しかし、その内実は王朝が滅びるたびに大掠奪と大虐殺が繰り返された歴史である。また中華思想によれば、中国とは国家ではなく「天下」であるという。そこから「天下は全て中国のもの」とする発想が出てくるといわれる。

 日本においては、阪神大震災のような未曾有の大惨事に際しても、人々は困難と不自由に耐え、スーパーの列にじっと並び一人として掠奪に走るものはなかった。この様子は、中国、韓国でも放映され、彼らは日本の社会を「掠奪無き社会」と呼んで驚いたと言う。中国、韓国だけではない、北米でも南米でも、世界中のどこにおいてもあのような混乱時には、人々が商店の品物を勝手に持ち去る事は珍しくない。

 「我慢強く社会の秩序を重んじる」のは、日本人の国民性の中にある特性である。筆者は、昨今この伝統は揺らぎつつあるが、戦前の日本人はその美徳を有していたと考える。ご高齢者との日常体験の積み重ねから筆者はそう思う。
 やや話題がそれるが、ある航空会社の関係者によると、「古き良き日本人はブラジルに残っている」という。「美しい日本語、謙虚な態度、勤勉さ」など、本国の我々が無くしてしまった「日本人らしさ」をブラジルから来られる日系のお年寄りは持っている。そのお年寄り達は、「自分たちは開拓で非常に苦労したが、祖国日本が現在こんなに繁栄していることを非常に誇りに思っている。」と言うそうだ。また皇室を敬慕する思いは我々の想像を超えたものだという。
それから、個人名を出して恐縮だが、機内で(ルバング島から帰還された)小野田さんのお世話をしたある乗務員は、「素晴らしい人柄だった。きっと昔の軍人さんというのは皆、あんな風に立派だったのだろう」と述懐したという。

 その日本人が、かつて「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」という三光作戦を行ったと、現行の歴史教科書は教えている。
ご存知の方も多いと思うが、これは日本軍の作戦では断じてない。「光」と言う字に「〜しつくす」と言う意味は日本語には無く、この作戦はもともと中国の作戦なのである。この点に関しては、中華民国の辞典、「増訂中共術語彙解」(1977年増訂再版)には、三光作戦は「中国共産党が行った作戦」と書いてあり、逆に中共側の「中国人民術語辞典」(1950年)には、「国民党反動派軍隊が解放区に向かって攻撃した際の作戦」と書いてある。と言う事は、いずれが正しいにしても、三光作戦は「日本軍とは無関係」なのである。日本軍と無関係の作戦を、日本軍の作戦と断定し子供たちに罪悪感を押し付ける教科書執筆者とは一体どう言う人達だろうか?

 参考作戦と直接関係するわけではないが、毛沢東は国民党との内戦のさなか、1947年12月、陝西省で開かれた中国共産党の中央委員会において、作戦の要諦として十大軍事原則を述べている。その中で人民解放軍に対して「包囲殲滅」についてこう訓示している。
「その3:敵の兵員の殲滅を主要目標とし、都市や地域の保持または奪取を主要目標とはしない。」
「その4:どの戦闘でも、圧倒的に優勢な兵力を集中して、四方から敵を包囲し、一兵も逃がさないように極力完全殲滅をはかる。」

 戦後教育を受けた我々の常識で、当時の状況を想像したり断罪しようとするのは無理があり、机上の空論とならざるを得ないと筆者は考える。

 日本人は、今、中国人や韓国人から責められているが、どう言う罪で責められているのか実はよく分っていない。だから敢えて書くのだが、元慰安婦や捕虜の証言として、上記の残虐行為に加え、「日本人は、中国人捕虜の頭でスープを作ったとか、首を切り落とした後、内蔵を引き出して、そのうち心臓と肝臓を食べた」とか言う話しが、まことしやかに宣伝されているのである。(注)こういう話しを真に受ける人達が、ヒステリックに日本人を鬼呼ばわりしている。言うまでも無く、これも日本古来の文化には全く無い。日本人は、もともと魚を主として食べており、肉を食べる習慣自体、一般には明治以降の事である。ましてや人間の内臓を食べる風習など我々の文化にはもともと無い。これ以上書くのもはばかられるが、要するにこれらの残虐行為というのは、「彼らの文化の中にある残虐性を想像で膨らませ、彼ら自身が考え出した」としか、日本人には理解のしようが無い。

(注)
 韓国の独立記念館には、日本人が韓国の女性の腹を切り裂き、横には大きな鍋が火にかけられ、内蔵を煮ている蝋人形まで展示されているという。
 この記念館は韓国の子供達の修学旅行コースになっており、こういう教育を行う人たちに「歴史認識を共有せよ!」と迫っているのである。いくらなんでもそれは無理というものだろう?韓国の反日教育は異常であり、その実体を知らずに歴史認識の共有を考える日本人こそ度が過ぎたお人好しである。

 それから、どなたかご存知ならば教えていただきたい事がある。それは、日本軍の残虐行為を写した写真の事である。どこの図書館でも、この手の写真集の一冊や2冊は置いてあるだろう。中でも、例えば、「上半身シャツを着て、帽子をかぶり、右手の軍刀を右斜め上に片手で持って(左手はだらりとたれている)、今にも捕虜の首を切るところ」と説明される写真。この写真、多少なりとも剣の心得のある者から見ると、とても首を切れる姿勢と思えない。もっと言えば、確かに手に持っているのは日本の軍刀に間違い無いが、この将校に、日本の剣の心得があるように見えないのだが、この人物は本当に日本の軍人なのだろうか?
 また、「今にも僧侶を撃ち殺すところ」として、後ろ手に縛られた僧侶の頭に、「モーゼル銃」のような拳銃を、いかにもポーズを取ったという感じで構えている写真がある。これらの写真は、日本の軍人による残虐行為の証拠写真として「平和教育」に使われているのだが、どうも腑に落ちない事がある。それは、「どうして犯罪を行おうとするものが、その犯行現場をわざわざ写真に残すのか?」と言う事である。犯罪者は、どう考えてもなるべく証拠を残さないようにするのが普通であり、「なんの為にこのような動かぬ証拠写真を残す必要があったのか?」あるいは、誰がこの写真を何の目的で撮ってどう使ったのかと言う事が不可思議ではないか。(戦意昂揚の為と言うのも考えにくい。なぜなら、強い敵を倒したと言うならいざ知らず、無抵抗の民間人殺害の写真を、「誰に見せて何を自慢する?」というのだろうか。)

 本題に戻って、最後に多くの遺書に共通するのは、そしてどうしてもここで書き記しておきたいことは、これら処刑された人々のほとんどが、「言われるような罪に、全く心当たりはない。自分が処刑されるのは、敗戦国の罪を背負って行くのである。自分が処刑される事で、敵対国との遺恨が水に流され、将来両国の友好の礎となるなら、喜んで捨石になる」と述べていることである。また、こうも言う、「ただ、わが身を賭して護った日本を立派に護りとおしてくれ!」と。最後の言葉は、愛する妻や子に対して「永遠ニサヨウナラ」があり、日本万歳、天皇陛下万歳も多いが、それだけではなく、中華民国万歳、アジア万歳とも結ばれている。いくつかの遺書を紹介したい。

 あと二分 (趙文相、朝鮮、開場府出身、軍属、裁判国英国、執行場所チャンギー、絞殺)
若松大尉宛
 しょげたら駄目だよ。待っています。元気でついてきてください。「あまり大したもんじゃないですよ」体は腐っても必ず魂魄は! 何とか在りつづけます。故国日本、朝鮮のいやさかを祈りつつ行ったと言ってやって下さい。
(中略)
 あくびが出る、体の反応だ。背伸びを数回やる。「はやくはじまらんかー」皮膚の色が少しばかり暗くなってきたようだ。ずいぶん真面目な気持ちになる。やはり少し気がめいる。しかし、しょうがない。人間だもの。しかし、ただ信じて行こう。信ずるように努めよう。神様すべてを許して下さい。人生最大の苦しみだ。この部屋を出るまでだ。それも、もう八分は済んだ。あと二分だ。俺よ!頑張れ。9時の号鐘。伸びやかにゆったりと鐘が鳴る。父よ母よ有難うございました。姉よ弟よ幸あれかし。
 一番列車出発!偉い偉い。俺もまねる。あと二、三分だ。俺もあんな万歳を叫ぼうよ。来た。いよいよらしい。これでこの記を閉づ。この世よ幸あれ。

東洋の血 (金長緑、朝鮮、全羅北道出身、軍属、裁判国英国、執行場所チャンギー、絞殺)
原田閣下
 閣下の言われたことをそのまま信じて行きます。お元気で。この気持ちをそのまま言い表すことができません。うれしいような、良かったというような気持ちです。うそじゃないです。ほんとにお世話になりました。元気で行きます。

死の直前に際して (中野忠二、愛媛県出身、元海軍上等機関兵曹、シンガポールチャンギーにて刑死)
 父は去り行くとも決して淋しく思うな。また、悪事で刑を処せられたのではない。父たちのことが必ず世に現れる時が来るから、人々に恥じることなく、一生懸命勉強して成功して下さい。年老いた祖父に仕え、病弱の母を助けて、長く幸福に暮らす様、父はいつも傍らに居てお守りします。父の死の事情も遠からず解ることでしょう。多くの人達と一緒に、天皇陛下万歳を三唱して去ります。では元気でお暮らし下さい。

 いつか日本が国際社会に復帰した時に、きっと誰かが、この不当な裁判に光を当て、自分の無実を証明してくれる時が来るだろう。彼らは、そう信じていた。あるいは、そう信じて行くしかなかったのであろう。
 しかし、現状はどうだろう。戦後の日本人は、戦犯として処刑された人々の遺族に向かって、「戦犯の子供!」と悪辣な言葉を吐きつづけ、学校の教師などまで差別に加わった。時がたって、今の日本人には、この人達の無実など、どうでも良いことになり、そのような人たちがいたことすら忘れられてしまった。あるのは、ただ繰り返される謝罪と反省だけである。

 記録によると、終戦直後、南京の処刑場(雨花台)で戦犯として処刑された人は7名である。(松井大将はA級戦犯として巣鴨で処刑されたので含まない。)内訳は、中将2名、少佐2名、憲兵曹長2名、曹長1名、合計7名である。その他に、南京虐殺の実行犯として1名が、広東で処刑されている。中将2名は師団長であるから、すると虐殺は、残りの6名によって行われたことになる。しかし、このうちの2名は、日本刀による100人切りをやったと言う「誤報」によって、全く無実の罪で処刑された人たちである。(注1)
 すると、南京大虐殺の被害者は、江沢民氏の主張する(正しい)歴史観によると30万人とされているが、この30万人は、残りの4名によって殺害されたことになる。さらに、この4名のうち2名は憲兵であり、憲兵と言うのは一般の兵隊の戦争犯罪を取り締まる兵隊で、第一線で戦闘行為をすることはない。すると、残ったのは2名であり、この2名が30万人殺害の実行犯と言うことになる。あなたは何かおかしいと思わないか?これが、「終戦直後」、戦犯をさばいた南京の裁判記録に基づく「南京大虐殺の実体」である。

 さまざまな事実を突き合わせると、南京大虐殺というのは、後にアメリカと中国の意図で作られた「政治的事実」であると言わざるを得ない。(注2)事実は戦勝国の都合の良いように、大きく捻じ曲げられ、昨今、その捻じ曲げはますますひどくなっている。「30万人と言う大虐殺は、無かったのではないか」と口にするだけで、サイバーテロのハッカーに攻撃され、同胞からも白い目で見られる。しかし、筆者は無念の死を遂げられた人々に代わって、「それでも言わなければならない事がある」と決意している。戦後50年以上たっているが、皆さんは、あの江沢民主席の態度を見て、日中の友好が日に日に深まってきたと言いきれるか?もし、そうでないとしたら、それは一方的に日本だけに責任があることだろうか?
 もし筆者の言うことが、にわかに信じられないとしたら、それは皆さんが、学生時代、あるいはその後の社会生活において、マスコミを通じてさまざまな「歪曲された情報」に触れてきたからであろう。オウムに洗脳された信者が、外部の人に説得されても、にわかに信じられないのと全く同じである。
 しかし、「南京大虐殺30万人説」の主張のおかしさは、冷静にちょっと常識を働かせれば誰にでも理解できる事である。

(注1)
 南京虐殺の実行犯として、100人切りの野田少佐と向井少佐(ともに昭和12年当時には少尉)が処刑されている。この事件は、野田少尉が東京日日新聞の記者に、冗談でどちらが先に戦場で100人切るか競争していると語ったことが記事となり、二人の写真が掲載された。戦後、この記事が「唯一」の証拠となって、この二人は、南京虐殺(当時は大虐殺とは誰も言っていない)の実行犯として処刑されてしまった。記事の内容は、戦意昂揚のために作られた物であり、明らかに、日本軍が南京に入城する前の話である。(新聞記事は、昭和12年11月10日に掲載されたもの。日本軍が南京に入城(中国の都市は、城郭都市である)したのは、12月13日であるから、明らかにこの記事は、言われるような「南京市内の住民虐殺」とは何ら関係が無い。百歩譲って、全く関係無い場所から、いくら白骨が出てきても、野田、向井両少尉は、「南京虐殺の犯人とは言えない」のである。しかも、両名とも12月2日に負傷するなどして、実際に南京に入城していない。)記事の発端は、野田少尉が冗談で記者に語ったことであり、向井少尉には何の関係もない、ただいっしょに並んで写真を撮っただけである。にもかかわらず、これが「南京市内の一般住民虐殺があった証拠」であり、この二人が実行犯であるとされ、二人とも処刑されてしまった。今でも、「南京大虐殺記念館」(正式には「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」)に行くと、両名の写真が大きく掲げてあると言う。また、この記念館には、近年、日本の政治家も表敬訪問したと書かれているそうだ。さぞかし、江沢民氏の言う「正しい歴史観」を学び、歴史認識を深められたのであろう。

(注2)
 なぜアメリカ、中国、ドイツ、そして日本の共産主義者にとって南京大虐殺が必要なのか?
 アメリカの理由:
 原爆を2度も落として民間人を「30万人」も虐殺したと言うことは、人類の歴史に永遠に残る悪事。この悪事を帳消しにするような、日本の悪事が必要であった。30万人と言う数字は、もともとは、裁判の当事者であった中華民国(当時南京は、国民党政府の首都であった)から出たものではなく、第3者であるアメリカから出たもの。当時、南京事件を裁く裁判では、何故かアメリカから派遣された調査官が、熱心に宣誓供述書を求めて、南京の住民に聞き取りをして回っている。
 中国の理由:
 日本の喉もとの肉の、一番おいしいところに食らいついた出来事。今後、謝罪と補償を引き出すために、最大限に宣伝して活用したいと考えている。(近年、急に関連の映画を作ったり、記念館を建てている。)
 ドイツの理由:
 自分だけが、歴史に残る残虐なホロコーストをしたとはどうしても思いたくない。道連れが欲しい。
 日本の共産主義者:
 旧日本軍の最高責任者は、形式上、天皇陛下である。旧日本軍の悪事は、天皇陛下の責任を追及するためにどうしても必要である。

 最初からでっち上げであるから、如何なる申し開きも聞き届けられなかった。最近、向井少尉のご遺族が、遺族のその後の悲しみと、少尉の無念を言論誌に書かれている。筆者は、ご遺族の主張を全くその通りだと思う。しかし、誠にお気の毒な事ながら、「世紀の遺書」(もちろん向井少尉の遺書も含まれている)を読む限り、これは向井少尉に限ったことではなく、戦犯として処刑された人はほとんど、数字で表すのは難しいが、おそらく9割がたは無実であったろうと思われる。裁判を取り仕切る戦勝国の側からすれば、「罪など何でもよく」、もっとハッキリ言えば「犯人など誰でも良かった」と言うふしがある。だから公判の資料を100年間封印したのである。
(誤解の無いように記するが、中華民国関係の資料の中には、一部公開されたものもある。しかし、B.C級裁判全体からすれば、ほんの一部である。)

 これが、江沢民氏の言う「正しい歴史観」の正体であり、その「正しい」歴史観を子供たちに植え付ける為に利用されているのが、「日本の」歴史教科書である。あなたは、日本人として、何の憤りも感じないのか?

 これらの遺書と向き合う時、我々は、少なくとも自分は、いかにいいかげんな時代を生きているのか、自問せざるを得ない。一方、自分の死を以って日本国の犯した「罪を償う」と言われた人達は、いまさら中国共産党によって蒸し返される「罪」をどう思っておられるだろう?しかも、その後日本は、講和条約に基づいて戦後補償に取り組み、賠償金を支払って和解が成立したのである。

 戦後50年以上経った今日、子供たちが、自分が犯したわけでもない犯罪について、「未来永劫、謝罪と補償を繰り返さなければならない」と教えられ、その罪悪感にさいなまれている。今の状況は、異常ではないか?現在の歴史教科書には、日本が罪を償ったことには触れずに、今後「謝罪と個人補償に応じることが、国際社会に認められる道である」と書いてあるこれはどう考えても「歴史の捏造」であり、間違っている。
 何度も言うが、それが日本を取り巻く「大国の政治的思惑」で動かされていることが最大の問題である。子供が外交の人質に取られているのである。こんな理不尽なことを見過ごしていて、親としての責任が果たせると言えるのか?

                                       【目次】  【次へ】