第4章      終戦以降

第1話 東京裁判(極東国際軍事裁判)

1)無言の講演

昭和41年10月3日午後、訪日したインド名誉法学教授ラノハビノッド・パル博士は、胸部を強い痛みに襲われた。清瀬一郎、岸信介両氏の招待による昼食を終えた直後だった。

胆石が博士の持病である。主治医からも、「命にかかわる」と訪日を止められていたのだ。しかし、博士は「人生のたそがれどきに、ぜひもう一目だけ、日本を見たい」との強い願いから、無理を承知で我が国の土を踏んだのだった。

この日の朝、慣れない寒さからか、博士は体調に異常を覚えた。しかし、その不調を圧して午前の日程をこなした。午後になりその無理がたたったのだろう。薬を飲んだが痛みは引かず、ベッドに身を横たえた。午後3時からは、尾崎記念館で新聞社主催の講演会が予定されていた。

会場に発病の一報が入ったのが、3時15分。まず、清瀬氏が博士の業績と経歴を紹介した。しかし、定刻をとうに過ぎても博士の姿は見えない。聴衆も病を伝え聞いて、半ばあきらめかけたときであった。4時40分、黒い背広の老紳士が会場の後ろから入ってきた。博士だ。細いからだを両脇から支えられた博士は、合掌したまま中央通路を進み、下手から演台に上った。

聴衆が固唾をのみ見守る。静かな緊張が走った。だが博士は合掌をして深い黙礼を送るだけである。前かがみの姿がかすかに震えている。沈黙の中、長身を不器用に折り曲げた黒い影がゆれている。苦痛のせいなのか。いや違う。聴衆は気付いた。強い感動が博士の心をとらえ、そのからだを震わせているのだということを。中老の紳士が鳴咽の声をあげた。これをきっかけに、すすり泣く声が会場に広がった。

どのくらいの時間が経過しただろう。「無言の講演」は終わった。博士はまた中央通路を通り出口に向かう。老婦人がかけ寄りそのおぼつかない足もとにひざまずいた。別のひとりが言った。「すわったまま、見送っては失礼でしょう。」身を固くした聴衆が我に返り、立ち上がって拍手を送った。そして、その殆どは合掌して博士を車まで見送った。無言が人々の心に雄弁に語りかけた数分間であった。

帰りの車中、博士はもらしたという。「胸がいっぱいで、口を開くことができなかった。」ホテルに戻りベッドの上に端座すると、博士はまた長い合掌を続けた。最後の訪日、80歳のできごとだった。

パル博士は、一体誰に向かい、何に向かって合掌をしたのか。そして、聴衆はなぜ無言に感動し、涙したのだろうか。

2)戦勝国による裁判の不公平さ

日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏したことにより、連合国は同宣言第十項の「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪ニ対シテハ厳重ナル裁判ヲ行フベシ」との条項に基づき、戦前・戦中の日本陸海軍の軍人、外交官、政治家、民間活動家の中から合計28人を戦争犯罪人として起訴し、裁判を行った。これがいわゆる東京裁判(極東国際軍事裁判)である。この裁判は、昭和20年(1945年)1216日から26日までの間にモスクワで開催された米・英・ソ三国外相会議の結果、26日にモスクワ協定が発表された。東京裁判は、その第五項「最高司令官ハ日本降伏条項ノ履行、同国の占領及ビ管理に関スル一切ノ命令並ニ之ガ補充的指令ヲ発スベシ」に依り、日本の占領策遂行の権限を与えられたマッカーサー連合国最高司令官が昭和21年(1946年)119日に発表した「極東国際軍事裁判所設置に関する特別声明」に基づいて設置された「極東国際軍事裁判所」によって行われた裁判であった。同じ1月19日、マッカーサー司令官はこの裁判を行うに当って、裁判所が準拠すべき法令として「極東国際軍事裁判所条例」を制定公布した。ドイツの戦争責任を裁くために制定されたニュールンベルグ条例は、4大国がロンドン会議で長い交渉を重ねた結果、生み出されたがこの極東国際軍事裁判条例はこのような会議は開かれずマッカーサーがアメリカ統合参謀本部の命を受け、行政命令として制定したものであった。条例そのものはアメリカ人、ことにショセフ・B・キーナン主席検察官によって起草され、他の連合国は条例が発令されてのちにはじめて協議にあずかった。この条例により裁判官を出す国は降伏文書に調印した9カ国、すなわちアメリカ・イギリス・中国・ソ連・フランス・オランダ・オーストラリア・カナダ・ニュージーランドとなっていたが、同年426日条例の一部が改訂され、新たにアメリカの保護国であったフィリピン・イギリスの属領であったインド両国からも裁判官を出す事になり合計11カ国となった。後ほど述べるがこの改訂により印度からも裁判官を出す事になり、後に全被告無罪の意見書を出したラドハビノッド・パル博士が印度代表判事として東京裁判に参加されることになったことは、このことだけをみれば意味のあることになった。しかし、条例のなかではアメリカが一方的に手続きをとり裁判官の選定がすべて連合国から選ばれ、中立国や敗戦国からは一人も選ばれなかったことは明らかに不公平であり、これだけをみても裁判の名を借りた勝者の敗者に対する一方的な復讐、つまり「勝者の裁き」といえるのではないでしょうか。

 さらにこの条例で問題になってくるのは裁判において日本にとっては有利な証拠が次々と却下されるといった証拠採用の不公平さと当時すでに確立されていた国際法に基づいたものではなかったことにあります。

3)証拠採用の不公平さ

 裁判の真偽は、おおむね証拠調べが中心となります。数々の証言や文献資料の中で、何を取り上げ法廷証拠として採用するかどうかが、真偽を左右する重要問題です。弁護側は審議の過程で、日本に有利な証拠の数々を法廷に提出しましたがそれらのほとんどが却下されました。弁護側の証拠が却下された理由は「証明力なし」「関連性なし」「重要性なし」というものでした。どいうものが却下されたかを挙げてみますと@当時の日本政府・外務省・軍部等の公的声明がすべて却下された。敗戦国の正式な言い分を認めないというのが、この裁判の本質だったのである。A共産主義の驚異および中国共産党に関する証拠は大部分が却下されました。とりわけ、日本の正当な権益を脅かした組織的な排日運動があった事実は全く無視されたのである。B満州事変以前に、満州人の自発的な民族運動が、独立運動であった資料はすべて却下された。これは満州国が日本の傀儡政権であることを強調するためであった。C「この法廷は日本を裁くものであって、連合国を裁くものではない」という理由から連合国側の違法行為の証拠資料は大量に却下された。アメリカの対日戦争準備や原爆投下等の問題はすべて不問にされたのである。それこそ検察側の証拠は、たとえ伝聞証拠であってもほとんどが法廷証拠として採用され、言いたい放題だったのである。

因みに、俘虜虐待等戦争法規違反に関するものとして、検察側が証拠として提出し受理された600通中、本人が証人として出廷、宣誓した上で受理された物は30通(5%)に過ぎず、残り570通(95%)は、ただ文書だけが証拠として受理されたのである。裁判所条例には「偽証罪」に関する規定ががなかったため、法廷に証人として出廷せず、従って弁護側の反対尋問を受ける事なく、その陳述書のみが証拠として受理された者は、その中に如何に事実を誇張して、歪曲し、極端な場合には、全く嘘のことを書いても、そのことが暴かれ、処罰されることを恐れる必要はなかったのである。

「本官が差当たり考慮するところは…まだ出廷しないある特定の者が、ある事実に関して言明したといわれる場合、同人は証人台に召喚されなければならず、そうでなければ同人の言明は証拠として受理されないとする部分である。かような言明は、言明者の知識がどれ程広かろうとも、個人が召喚されて、証人台から証言しない以上、信を措かれ、または証拠として受理されるべきではない。法廷はこの規則を守らなかった。この主の伝聞証拠を除外することの基礎は、それが本質的に証明力を欠く事にあるのではない。伝聞証拠の除外される理由は、証言をなす者の観察、記憶、叙述、及び真実性に関して生じ得る不確実性は、証言者が反対尋問に付せられない場合、試験されぬままとなる、ということある。かような不確実性は担当判事に、証人の証言の価値を公正に判断させることが出来る程度に、反対尋問によってあばくことが出来るかも知れない。本審理中に提出された証拠の大部分は、この種の伝聞からなるものである。これらの証拠は、反対尋問するために法廷に現れなかった人々からとった陳述である。この種の証拠の価値を判断するにあたっては、深甚の注意を払わなければならない。」          パル判事の意見書より

4)事後法で裁判を行う不公平さ

極東国際軍事裁判所条例中には、裁判所が被告達を裁くための裁判管轄権を持つ犯罪として@「平和に対する罪」A「通例の戦争犯罪」B「人道に対する罪」の3つを規定した。しかし、日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した当時、国際法上存在していた戦争犯罪は、俘虜虐待、民間人の殺害、財物の掠奪など、「通例の戦争犯罪」といわれるものだけであって、@の「平和に対する罪」とBの「人道に対する罪」は国際法上存在していなかった。従って、条例中にかかる犯罪を規定することは、「法なき所に罪なく、法なき所に罰なし」とする「事後法の制定による裁判の施行を非」とする近代文明国共通の法理に反した行為であり、このことは公判開始後、法廷で大きな論争の的となりました。

11名の裁判官の中には戦勝国から選出されているという不合理だけではなく、法廷に持ち出された事実に前もって関係していたり、必要な言葉がわからなかったり、本来裁判官ではなかったりした者もあったが、その中でただ一人国際法の専門家がいた。その名がインドのラドハビノッド・パル博士で、国際法を蹂躪して東京裁判を強行した連合国を批判して法の権威と人類の正義と平和を守るために、敢然と日本の全被告の無罪を訴えた。

パル判事の肖像写真

パル判事は「平和に対する罪」が1945年以前には存在しなかったと述べ、連合国が国際法を書き改め、それを遡及的に適用する権限はないと結論しました。パルの意見書によれば「勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる裁判を行う事は、戦敗者を即刻殺戮した者とわれわれの時代との間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹殺するものである。かようにして定められた法に照らして行われる裁判は、復讐の欲望を満たすために、法律的な手続きを踏んでいるいるようなふりをするものにほかならない。それはいやしくも正義の観念とは全然合致しないものである。」と述べ、つぎのように結論した。「戦争が合法であったか否かに関してとられる見解を付与するものではない。戦争に関するいろいろな国際法規は、戦敗国に属する個人に対しての勝者の権利と義務を定義し、規律している。それゆえ本官の判断では、現存する国際法の規則の域を越えて、犯罪に関して新定義を下し、その上でこの新定義に照らし、犯罪を犯したかどうかによって俘虜を処罰する事は、どんな戦勝国にとってもその有する権限の範囲外であると思う。」

 

 

5)侵略戦争の定義の不確かさ

裁判所の判決が日本が関係した事件・事変・戦争をすべて日本の連合国に対する侵略戦争であったと述べているが、侵略戦争が犯罪であるか否かの問題に関連して、「侵略」が定義しうるか、という問題が出てくる。ニュルンベルグ裁判でアメリカのジャクソン検察官は、『侵略』とは@他国に宣戦を布告すること、A宣戦布告の有無に拘わらず、その軍隊により他国の領土に侵入すること、B宣戦布告の有無に拘わらず、その陸・海・空軍をもって他国の領土、艦船、航空機を攻撃すること、C他国の領土内で結成された武装軍隊に支援を与えること、またはこれら武装軍隊に対する支援を一切行わないよう被侵略国から要請されたにも拘わらず、その要請を拒否することなどの行為の一つを最初に行った国であると一般的に考えられている、と述べた上で『我々の立場は、ある国家がどれ程不幸をもっていようとも、また、現状がどれ程不幸を持っていようとも、また、現状がどれ程その国にとって不都合であろうとも、侵略戦争はかかる不幸を解決し、またはこれらの状態を改善する手段として違法である、ということである』と述べた。ところが、ソ連、オランダが先に対日宣戦布告をしている事実を考える時、この二国を含む訴追国は『侵略』判定の基準を他に求めなければ理屈に合わなくなる。そうしなければ、ジャクソン検察官提案の侵略判定の基準に従えば、この二国は日本に対して侵略戦争を開始した罪を犯したことになり、そのような犯罪を犯した国々が自己陣営の中にあることは等閑に付して、敗戦国民だけを同様の罪を犯した廉で訴追するということはとうてい考えられず、従って、連合国はこの『侵略』ということに関しては、他の基準を採用したものと考えなければならない。

この問題に対してもパル判事は「おそらく現在のような国際社会においては、『侵略者』という言葉は本質的に『カメレオン的』なものであり、単に『敗北した側の指導者たち』を意味するだけのものかもしれない。」と結論した。それにもかかわらず、定義は絶対に必要である。「法の最も本質的な属性の一つとしては、その断定性が挙げられる。…法による定義の優れている点は、裁判官がいかに善良であり、いかに賢明であっても、彼等の個人的な好みや彼等特有の気質にのみ基づいて判決を下す自由を持たないという事実にある。戦争の侵略的性格の決定を、人類の『通念』とか『一般的道徳意識』とかにゆだねる事は、法からその断定性を奪う事に等しい。」最後にパル判事は侵略を定義し、戦争を違法化しようとする試みの背後に隠された理念に反対した。

6)侵略戦争は犯罪であるか

裁判所は、ドイツのニュルンベルク裁判において同裁判所が示した見解に同意しつつ、侵略戦争は犯罪であるとする裁判所の見解を、次のように表明している。@裁判所は、ニュルンベルク裁判に同裁判所が示した、「パリ不戦条約調印国が同条約において、国家的政策遂行の手段としての戦争を厳粛に放棄したことは、このような戦争は国際法上不法であり、このような不法な戦争を計画し、遂行することは、そうすることにより犯罪を犯す事になるのである」との見解に、全面的に同意する。A侵略戦争は、ポツダム宣言発出よりずっと以前から、国際法上犯罪だったのである。Bパリ不戦条約批准に先立って締約国のあるものは、自衛のために戦争を行う権利を留保し、その権利の中には、ある事態がそのような戦争を必要とするか否かを自ら判断する権利を含む、と宣言した。自衛権の中には、今にも攻撃を受けようとしている国が、武力に訴えることが正当であるか否かということを、第一次的には、自分で判断する権利を含んでいる。しかし、不戦条約を最も寛大に解釈しても自衛権は、戦争に訴える国家に対してその行動が正当であるかどうかを最終的に決定する権限を与えるものではない。これ以外の如何なる解釈も、この条約を無効にしてしまう。本裁判所は、この条約締結に当って、諸国が空虚な紙芝居をする心算であったとは信じない。

これに対し、パル判事のみが侵略戦争が違法であるという主張そのものを斥けた。パル判事の理論に従えば、パリ条約の締結後も「国際生活において、従来存在した戦争の法律的地位は、なんらの影響も受けなかった。」「或る戦争が自衛戦であるかないかという問題が依然として裁判に付することのできない問題として残され、そして当事国自体の『良心的判断』のみに俟つ問題とされている以上、同条約は現在の法律になんら付加するところがない」と書いた。また、「国際法」というものに関連し、「侵略戦争は犯罪である」という国際法が存在しても、戦争を始めた国が戦勝国となった場合は戦勝国がその戦争を始めた戦敗国を処罰することは出来るが、戦争を始めた国が戦勝国になった場合には、その戦勝国を処罰することが出来ず、このような場合は国際法はその存在理由を失ってしまうことを延べた後、「もしそれが『法』であったとするならば、戦勝諸国は何れも何らの法を犯したことはなく、かつ、かような人間の行為について、彼等を詰問することを誰も考えつかない程世界が堕落していると信ずることは、本官の拒否するところである」と連合国が敗戦国たる日本が行った戦争のみを「侵略戦争」として裁判に付そうとする悔いを批判している。

7)パル判事の結びのことば

「この恐怖を齎した疑惑と恐れ、無知と貪欲を克服する道を発見するために、平和を望む大衆が費やそうとする、尊い僅かな思いを、裁判所が使い果たしてしまうことは許されるべきではない。感情的な一般論の言葉を用いた検察側の報復的な演説口調の主張は、教育的というよりは寧ろ興行的なものであった。恐らく敗戦国の指導者だけが責任があったのではないという可能性を、本裁判所は全然無視してはならない。指導者の罪は、単に、恐らく妄想に基づいた彼等の誤解に過ぎなかったかもしれない。かような妄想は、自己中心のものにすぎなかったかもしれない。しかし、そのような自己中心の妄想であるとしても、かような妄想は至るところの人心に深く染み込んだものであるという事実を、看過することは出来ない。「こうして日本は侵略国にされた」パル判決第7部『勧告』中のパル判事の意見より

8)沈黙する予言

「時が熱狂と偏見を和らげたあかつきには、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取ったあかつきには、そのときこそ正義の女神はその秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するであろう。」パル判事の判決文の中の予言である。あれから50年あまりの歳月が過ぎた。この予言は的中しなかった。連合国が持ち込んだ虚偽は、現在では誰もが疑わない。我が国国民の手で、虚偽は守られつづけている。

 この姿を、パール博士はどのように見ているだろうか。我が国の正義を勇気を持って主張しつづけた外国人に思いを馳せるべきときがやってきている。

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