4)時代を動かした男たち

(1)吉田松陰

 吉田松陰は、長州藩の思想家であり、教育者であった。彼は萩城下の下級武士の家に生まれた。松陰は幼い頃から伯父の玉木文之進の英才教育を受け、11歳の時に、藩主・毛利慶親の前で「武教全書(兵学書)」を講義したと言われる。

 松陰は、2度目のペリー来航時に、弟子の金子重輔とともに、黒船に乗り込み密航しようとしたが、アメリカ側に断られて失敗、自首した。囚人として長州に送り返された松陰は、5年にわたる幽閉生活を送る事になる。

 このとき、伯父玉木文之進が開設した「松下村塾」の指導者として、国を憂う気概あふれる青年達を相手に教育を行った。ここから、維新の原動力となったたくさんの人材が育った。高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、品川弥二郎、山県有朋などである。

 松陰は、全国各地の見聞をもとに、各藩の時局に対する見通しのなさを痛烈に批判し、守旧的で硬直した幕府の政治を大いにののしった。

 一律に自分の政治信条や時務判断を押し付けるのではなく、塾生各自の自発的な研鑽を引き出す松陰の指導と、全国の同志と連絡を取り、実現の可能性があると判断された合法・非合法の政治改革を進めんと努力した不屈の維新運動家としての情熱は、それを聞く塾生の心に火をつけ、意識のある弟子達を自ずと維新の戦いに赴かしめた。

 しかし、松陰の思想はしだいにその過激さを増し、ついに危険思想の持ち主として、再び獄につながれた。結局、安政6年(1859年)には安政の大獄に連座する形で江戸へ送られた。松陰本人は軽い裁きで済むと思っていたようだが、同年10月27日、死罪を言い渡され、江戸伝馬町の獄で処刑された。

身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも
とどめおかまし大和魂

 これは松陰が獄中で死を予感して作った辞世ともいえる歌である。わずか30歳という短い生涯だったが、その激烈なまでの生き様と誠実な人格は松下村塾の弟子たちはもとより、全国の志士たちにも多大な影響を与え、尊皇・倒幕の原動力となった。

(2)坂本龍馬

 坂本龍馬は、天保6年(1835年)1115日土佐(高知県)の郷士の家に生れた。武士の扱いをされないような下士だが、暮し向きは悪くなく、19歳から5年間、江戸に出て北辰一刀流・千葉定吉道場で剣の腕を磨く。その一方で、故郷・土佐にたびたび帰省し、藩の絵師・河田小龍から海外の事情をいろいろ聞いて、大きな影響を受けた。河田はジョン万次郎から西洋事情を聞き書きし、又薩摩の反射炉や長崎の開港を実際に見てきた知識人だった。坂本は、河田の話から今まで藩を「お国」と思っていたが、国とは「日本」のことだと知る。

 竜馬は、土佐で武智半平太が主催する土佐勤王党に加盟し志士として活躍していたが、やがて土佐を脱藩する。その後、勝海舟と出会い、幕府の神戸海軍操練所の塾頭となり、横井小楠西郷隆盛桂小五郎伊藤俊輔(博文)井上聞多(馨)らとともに維新へと突き進む。

 坂本が維新に果たした役割で、もっとも大きなものは3つある。それまで犬猿の仲だった薩摩・長州を討幕という目的のもとに仲直りさせた薩長同盟大政奉還、日本最初の商社亀山社中の設立である。国際交流のなかでの経済の重要性を竜馬は知っていた。のちの五箇条の御誓文のもとになった船中八策も竜馬が考えている。

 慶応3年(1867年)1115日に事件は起こった。場所は、京都河原町の近江屋新助方。そこへ同郷の中岡慎太郎が訪れ、歓談となった。午後8時頃、十津川の郷士と名乗る刺客があらわれ、二人を襲った。「おれは、脳をやられた。もういかん。」と臨終の言葉を囁いたという。くしくもその日は坂本の誕生日であった。

 暗殺した犯人は、新撰組、伊東甲子太郎率いる御陵衛士、西郷隆盛、後藤象二郎など諸説ある。明治になってから、元京都見廻組の今井信郎の自供により京都見廻組犯人説が一般的になってはいるものの、その自供にも謎が多く、誰が何の理由で暗殺したのかはいまだに分かっていない。

(3)勝海舟

 勝海舟は、剣、禅、蘭学を修めて蘭学塾を開いていた無役の御家人だった。ペリー艦隊が浦賀沖に現れた時、人材登用、海防整備などを進言し、蛮書調所の翻訳担当者に任命される。やがて、長崎海軍伝習所で3年間軍艦の技術的な事を学び、この時薩摩藩士とも付き合いができた。これが後に、西郷隆盛との関係などに役立った。江戸に戻った勝は、江戸に開かれた軍艦操練所の教授方頭取に任命され、日本人の技術で初めて太平洋横断を咸臨丸で行ない、2ヶ月ほどサンフランシスコに滞在している。

 後に、15代将軍、徳川慶喜の意を受けて、主戦派に変わり恭順派の勝が幕閣をリードするようになった。江戸城開城の1ヶ月前の事である。

 江戸城総攻撃の目前の3月13日、14日に勝と西郷隆盛の会談が行われた。この時、勝は幕府軍のすべてを決定する実権をもつ軍事取扱いに任じられていた。相対する西郷は、東征軍の実質的な指揮者、大総督府参謀であった。

 実はこの会談、山岡鉄舟が予備折衝を済ませていたという。勝も西郷も、総攻撃で江戸が火の海になるのを決して望んではいない。薩摩としては、味方してくれているイギリスが、横浜貿易に被害が出るのを嫌がって、江戸城総攻撃に反対していた事もある。勝は、その事を知っていたのだった。それに、ただでさえ農民一揆や打ちこわしが多発しているところに、江戸が戦場になれば混乱がどこまで広がるか分からない。また、勝は英仏など外国勢力の前で内戦を避けるという目的があったのであろう。必要とあらば、江戸中に火をつける手はずは整っている。互いに、相手の思惑と脅しを知りながら知らぬふりをしている。

 勝は「江戸の一般市民を殺してはならない。将軍も私心は持っていないから公明寛大なご処置を。」と言えば、「一存では決めかねるが、ひとまず総攻撃は延期しよう。」と西郷が答える。こうして、江戸城無血開城が決まった。慶応4年(1868年)のことである。

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