『天涯の花』宮尾登美子著 を読んで

 天涯の花ってどんな花なんだろう。天涯とは辞書に@空のはてA故郷を
遠く離れた地とある。
 この物語の舞台となった剣山にキレンゲショウマという花が咲く。昨年
家族で剣山登山をした時、この花と出合った。一般登山道から、横道に入り、行場という行者が修行する場所にこの花は群生していた。斜面を覆う
ように黄色の点々。地面に大きな葉が茂り、長い茎が出て、月のような黄
色い花をつけている。下向きに咲き、花びらはあまり開かず、ラッパ状。
おとなしいが、高貴でしんの強さを感じさせる。この花が物語のどんな位
置を占めているんだろう。花を思い浮かべながら読み始めた。
 主人公の珠子は捨て子で、中学まで養護施設で育ち、卒業後は剣山中腹
の剣神社の宮司夫妻の養女となる。剣神社の巫女として、きよみという名
が与えられ、養父母に尽くす。山を散策し、山の花の名も百以上覚えた頃
山小屋の典夫に初めてキレンゲショウマの群生地に連れて行ってもらう。
珠子はその時の感動を「まるで一つ一つの花が月光のように澄み、清らか
に輝いて見えた」と表現している。この花に会うために山にきたのではないかと不思議な縁も感じている。私も見渡す限りの黄色の高貴な花を思い
うかべた。
 養母の死、測候所員吉田さんの殉職の悲しみをのりこえ、養父に懸命に
尽くす珠子の姿は、痛ましいほどである。新しい宮司さんと夫婦になり、
神社を継ぐ道、典夫と結婚して山小屋に住む道、二つの道どちらとも決め
られない気持ちの時、山で遭難しかかった久能と出会う。運命的な出会い
三時間以上かけて、久能を肩におぶって神社に連れ帰り、毎日付き添って
看病した。久能は東京からキレンゲショウマを撮りに来たカメラマンであ
った。ここでも花の縁を感じる。やがて久能が元気になり、珠子と一緒に
花を見ながら山を歩いている時、珠子は自分の生い立ちを告白する。自分
は本当は珠子という名で、捨て子という過酷な運命をたどってきたという
事実。それを聞いた久能は、養女ということ、施設で育ったとは、想像も
つかなかったと言い、さらに、
「ほんとうの親が知れないということを、あなた自身が何故に、どうして
恥じることがある?かえって他人ばかりの施設のなかで、曲がらずくじけず、それこそ玉のようないまの珠子さんが成長してきたことを大いに誇っていいのだと思う。威張っていいのだと思う。」と言った。純粋無垢に
まっすぐ育ってきた珠子の二十年間を、久能はやさしく受け止め、肯定的
にとらえ、ほめた。この言葉を私は何度も読み返した。十五才で養女とな
り、水道もガスもない山の中の生活、やさしくきびしい養父のこと、大阪
で住む友人からきいた都会へのあこがれ、ずっと頭から離れない孤児だと
いうこと、それら全部、すなわち珠子のわだかまり、いままでの苦労を一言で救ったと言えるくらい重みを持つ言葉ではなかろうか。
 二人は年老いた養父を残し、山を降りることはできなかった。山せ咲く
花のように、山の自然に融け込んだ珠子を、山から連れ出すことはできな
かった。三ヶ月半経った頃、久能の離婚同然の妻が、久能を山まで迎えに
来た。久能は、離婚して必ず迎えに来ると珠子に約束し、東京に帰ってし
まう。
 珠子は毎日、久能の帰りを待ちつづけた。冬を越し、春になった時、自
動車のエンジンの音に心躍らせた。が、車は久能ではなく、典夫だった。
珠子に迷いがめばえ、典夫との結婚を考え始めるが、典夫の親戚の「みな
し児を嫁として歓迎しない」と話しているのを聞き、現実のきびしさをあ
らためて知らされる。が、その事で迷いは消え、かえって澄んだ気持ちに
なる。久能は「みなし児であることを誰に何を恥じることがある、ひとり
で生きてきたほうがずっと尊い。」と励ましてくれた。珠子は、剣山に、
キレンゲショウマが咲く限り、きっと久能は戻ってきてくれる。それを信
じて待ち続けようと心に決める。天涯の地で生きつづけようと。
 珠子と離れて十ヶ月後、久能は離婚し、神職の資格も取り、珠子のもと
へ向かったところで、この物語は終わっている。当然幸せな結末が予想で
きるところである。
 夏、剣山はキレンゲショウマ」を見に来る人々でにぎわう。『天涯の
花』がドラマ化、舞台化された近年は特に多くなったそうだ。群生地を訪
れた時、皆珠子と同じ感動を味わうに違いない。珠子は実在する人物だそ
うである。今でも久能といっしょに剣神社を守り、キレンゲショウマの花
咲く季節には、花を見に、山に登っていることだろう。剣山のすばらしい
自然美が壊されることなく守り続けられることと、キレンゲショウマの花
が、観光客に持ち帰られたり、荒らされたりすることなく、美しい群生地
のままで、保存されることを、珠子と共に願いたい。
 天涯の花とは珠子自身をさすのではないだろうか。