2002年の講釈
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目次

2002/11/30 不法投棄ゴミ、どうしやす?2/応援したい動き1より
2002/11/23 行政と住民の役割分担
2002/11/17 またまた、家計簿ネタ(公会計への提言)
2002/11/6 不法投棄ゴミ、どうしやす?
2002/10/31 まちづくり委員会のあり方/まちづくりプロジェクトチームの答申報道を受けて
2002/10/29 宇和島市まちづくり委員の声とは/まちづくり委員会全体会を終えて
2002/10/7 リサイクルという免罪符?
2002/9/29 ごみ処分場の要らない地域に
2002/9/2 すぐに実行可能な施策
2002/8/30 輸入食材の危険性/食の安保を考える1
2002/8/10 まちづくり委員会は、ワークショップ方式で!
2002/7/31 宇和島市まちづくり委員の声とは?(市民の声 その2)
2002/7/20 大きな声とたくさんの声(市民の声 その1)
2002/7/12 長野県の知事と県議会の関係?
2002/6/30 いえ、道路公団の民営化に反対ではないのですよ!
2002/6/23 議員の職を奪うのは選挙民
2002/6/22 高速道路なんかいらんわい!
2002/6/17 “公共心”再生
2002/6/2 宇和島まちづくり委員会に期待する
2002/5/23 国会議員のリコール権?
2002/5/18 まちの家計簿にこだわる理由
2002/5/16 これも、情報操作?
2002/5/13 市町村合併雑感
2002/5/9 選挙で選ばれた者のプライド(さぬき市と宇摩地区を事例として)
2002/4/30 原子力発電についての情報操作(2)
2002/4/4 原子力発電についての情報操作(1)
2002/3/28 えっ、アンケートのサンプリングが「?」
2002/3/27−2 アンケートという武器
2002/3/27 自虐史観を刷り込もうとするマスコミ
2002/3/13 こんな職員いらない!
2002/2/22 補助金検討委員会を終えて(1)


2002/11/30 不法投棄ゴミ、どうしやす?2/応援したい動き1より
 先日、私がuwajima_dmlに投稿した「不法投棄ゴミ、どうしやす?」をご覧になって、市のまちづくり委などでご一緒して、個人的にもいろいろとご指導いただいている先輩がお出でになりました。「そこで出た話」私は応援したくなりました。こちらをごらん頂く賢明な皆さんも是非に宇和島あるいは住んでいる地域の現状やそれに対する対策についてご一考する機会としていただければと思います。
 先輩は、「森は海の恋人」という発想から、宇和島の大切な(真珠養殖日本一の)海を守ろうと、各地の旧道・山道に不法投棄されたゴミを何とかしたいと言うことでした。(あまりに、言葉足らずでしょうが)私は、ぜひNPOを立ち上げて下さい。とお話を致しました。当然、私も協力をしたいと思います。
 さて、本題です、不法投棄ゴミをどうするか?という問題ですが、この「不法投棄ゴミ、どうしやす?」の解決は、ひょっとすると、全て税金でまかなうというのが平等でよいのかも知れません。(景気の悪い昨今ですから、土木工事等を専門でなさるプロ集団が、安く請け負ってくれるかも知れません)しかし、歳入は限られています、宇和島に限らずどこの地域でも不法投棄ゴミの処理にお金が回ると、他の何かを必ず犠牲にしなければならない財政状態であるといえます。また、最近はやりの事業評価・費用対効果という観点から申し上げるとすると、「環境破壊をくい止められたとか、美観を取り戻したとか」そういう便益の評価を計数化する、一致した価値評価の基準が住民の間にないことには、その事業の効果さえも(地域民に)ただのゴミ処理としてしか認識されない事業になるかもしれません。つまり、先に申し上げたように、誰が捨てたゴミかわからないのだから、行政が処理するのが当たり前だと、自分事ではなく他人事として考える人に対しては、他の事業を犠牲にして不法投棄ゴミ(環境破壊)解決に予算をまわすことを理解して貰うことが必要で、そのために、この投資がどういう効果を上げるかという点を知らしめることが必要ではないかと思っているのです。公共事業というと、内部で需要予測を積みましたり、息がかかった(なんの息かあえて申し上げることは本稿では避けますが・・)コンサルタントが事業効果を高く評価する調査結果を出して、それで納得した議会がその事業の実施を決定するという手段が多くとられてきました。それが、現在、各地で継続中の公共事業の見直しがなされたり、既に行われた事業の問題点を指摘する声が大きくなっている根本にあります。(その公共事業を引き受ける財と官や、財と政の癒着が問題であって、その為に事業効果予測や事業評価がゆがんでいると言うこともありますが・・・。)しかし、きちっとした事業効果を予測し、それを住民に知らしめるとういう意味からすると、自然環境を取り戻したという効果は計り知れないほど大きなものであって、未来に対して間違いのない投資であると評価することはたやすいことのように思ったりします。
 かたや、歳入は限られています。そして、景気悪化で税収はどんどんと減っています。また、地方にあっては、国の財布の口が硬くなっていますから、公共工事予算も数%の減額というレベルにとどまらず、数十%の減額という状態になっています。しかし、身近に見るのですが、まだまだ大丈夫なんじゃないか(私見です)という道路(国道と県道でした)の舗装面の改良工事が行われていたりします。しかし、こんなもん、家庭や民間の企業では、我慢できる範囲は我慢して、必要な部分に予算を回すという“使い方を工夫する”事が当然に行われています。つまり、予算運用に柔軟性があります。ところが、縦割り行政と言われるように、予算が余っているから、効果予測を膨らましてまで予算を消化する。そんなアンバランスが確かにあると思います。そんなアンバランスが、交通量もそんなに多いとも思えない道(近所の県道も)や、たいして傷んでいるようにも思えない道の舗装面の改修(近所の国道でも)、あるいは、全国各地で反対運動が起こっている大規模林道(当地では、石橋宇和島市長が消極的なので嬉しいのですが・・)工事や減反の世に干拓の工事(諫早も宍道湖も見直しされていますが・・)を選択させるのです。話がだいぶそれてしまいましたが、冒頭の「不法投棄ゴミを市民の手で!」と言う動き、是非実現いたしましょう。
 市は、通常の清掃奉仕等と同様、集められたゴミの処理の役を担っていただきたいと思います。ゴミ袋の提供と収集と処分までをまず約束していただきたいと思います。各種団体が、団体の構成メンバーに応じて、作業場所や作業内容を決定して、全市民が横断的に連携を組んで処理が出来るようにプランを作って行くべきです。電機製品の販売業のみなさんは、ぜひ不法投棄された電機製品の受入・処分にご協力下さい。車のディーラー各社には、車を。飲料等の販売業者には、ペットボトル・缶・瓶の受入を。メーカーに対して、それらの処理の責めを負ってもらうように、周辺町村と協力して首長が申し入れをすればどうでしょう。自分たちが出来ることを少しづつやっていくことが、安価にこの問題を解決するための至極(おおげさ?)のプランかと思います。
 いくら税金を使って処理しても、また捨てられたらどうにもなりません。先の市議会で理事者側の答弁にあったように、不法投棄場所に、取り締まり用ビデオを設置するのも一定の効果を上げるでしょう。しかし、ビデオがない場所にゴミ捨て場が移動する(不法投棄される地点が増え、面積が拡大する)可能性も否定できないと思います。やはり、私は、住民が自ら少しでも分担して作業を行って「捨てられない」環境を作っていくことが必要なのではないか思います。作戦を練って、プランを作っていきましょうと申し上げております。皆さんも、ぜひ「自分たちが出来ること」を考えてみてくださいませんか。
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2002/11/23 行政と住民の役割分担
 また、「行政と住民の役割分担」についてお話ししたいのですが、消防や警察を始め行政事務の多くが、そもそも住民が集落などのコミュニティーで賄うべきことを税金という料金を支払うことで行政に負わせているということを認識出来ればと思います。
 前にも触れたことがあるのですが、「火消し」についてです。
 親子で消防団活動のボランティアを続ける知り合いと飲んだときに、こういう話を聞きました。宇和島市の消防団の定員(条例・人口割りで決まっている)は880名ほどで、実動状況は別にして、現在も概ね定員を満たしているとのことです。手当は、1回の出動に2200円が支給されるそうです。その仕事の危険度から考えてもまったく十分とは思えません。また、鎮火後、ご近所の不安を和らげるために近くに住む団員が数時間は(夜中でも早朝でも)現場にいる(これは、条例とかで決まっていることではなくて、自主的にボランティァでなされているもの)とのことです。特に人家の火災の場合、消防車を一台おき、回転灯を付けて一個師団が待機すると言う付加的なサービスも提供されているとのことです。鎮火後、消防署(職業消防組織?)として2時間毎に現場見回りのチェックはされるそうです。経験則や科学的検証から規定されたはずの、職業消防組織のなす鎮火後の見回り等の規定は、客観的に見て十分にその役割を果たせているものと思われます。危険な作業に従事する消防署員の皆さんの職務についてご託を並べるつもりはありません。ただ、火事という恐怖に遭遇した(火事に素人の)ご近所の住民は、再出火の可能性に極めて強い危惧を持たれ、鎮火後消防団(ボランティァ消防組織?)が待機してくれることをとても感謝されるそうです。また、近所(コミュニティーが機能していればの話ですが・・)の団員がかけつけることで、人家が被災した場合などに、「その家に人が居たか居なかったか、居たとすればどの辺りに居たか。」地域の若者が消防団員であるからこそ、つかんでいる貴重な情報を提供できるといいます。(阪神淡路大震災の折りに、淡路の消防団の活躍によって人命の救出がとても迅速に行き、人命被害が少なかったことは神戸都市部の被害と比較して語られ、記憶に新しいことと思います。)消防団は、水害の際は、水防団になります、山崩れなどの自然災害で活躍してくれています。海・山等の行方不明者の捜索でも活躍されています。宇和島では、年に3〜4回、自治会長・警察からの正式要請による捜索協力をされているそうですが、ちょっとした行方不明事案についての出動はもっとあるのではないかとのことでした。まさしく、職業消防と住民ボランティァの協動のよい例であると思うのですが、ここであえて問題提起に話を持っていきたいと思います。実は、災害時の炊き出しというのは昨今ほとんどされないとのことです、消防団関係で申し上げるとすると、長時間の消火作業の場合、規定により弁当が出るが、例えば山火事の場合など、一番奥に居る一番早く現場に駆け付けただろう団員には乾パン(規定で市が保管する非常食を出すことになっている/緊急時に食料手配が出来ないことを見越した規定)しか届かないときがあると言います。ここで、声高に「行政は、消火作業に携わる団員全員に食事が行き渡るよう努力すべきであり、規定の見直しも必要である」などとお話しする気はありません、確かに行政として、職業消防職員の待遇を考えると同時に(イギリスでストが起こってますね)消防団員の接遇も見直しできるものは見直しすべきと思います。しかし、ご近所の私たちが出来ることはないでしょうか?税金を払っているのだから、当然のサービスとして受ければ良いのでしょうか?じゃー、2200円の手当でもって、近所の火事に駆け付けられますか?普段から、操水等の訓練をつんでおかなければならないでしょうしね。火事や災害は起こらないに越したことはありません、しかし、起こったときのことを考えて、自分たちが出来ること、それを想定して話し合ったりしてみると、地域のあるべき姿が見えてくるのではないかと思います。
 ちなみに、30年以上消防団活動を続ける親父さんもご近所の炊き出しは、20年程前に経験して後無いのではないかということでした。(このお話をどう受け取るかです。)戻る

2002/11/17 またまた、家計簿ネタ(公会計への提言)
 「この宇和島地域でもまちの家計簿!」を提唱して依頼(いえ、「以来」なのですが、ほんと「依頼」状態で行政任せになっています)、ばたばたと仕事も忙しくて、言い出しっぺの責任が果たせず、言いっぱなしの状態になっています。せめても、この言いたい放題のページで、思い出したように「まちの家計簿」をテーマにコメントすることでお茶を濁していこう等と、誠に姑息な逃げでもって過ごしているのです。さて、お茶濁しの一つなのですが、また、「まちの家計簿」に触れさせてください。
 日本の行政体(国・自治体)の財政というものは、現在単式簿記で行われています。簡単に言うと、おこづかい帳や家計簿のようにお金の出入りだけを管理しているような状態です。もっと言うと、おこづかいはやはりいつも「足りない」って状態でないと、減額されてしまう恐れがありますから注意が必要です。いつも、「足りない足りない」と言い続ける?ことが必要です。(しかし、浪費がひどいと自由に使えるお金の幅が狭まります、まるで財政再建団体とか財政再建準用団体とかの扱いのようにね・・・。)家計簿でも、毎月お金が余るようでは、こづかいを増やせとか言う住民の声が高まったりしますから、架空の支出を作って裏金(古来よりへそくりと言う)を作ったりすることになります。まるで行政の縮図のようです、「予算獲得が全て!」で、獲得額の多寡で担当者(大臣から首長、議員・職員まで)の評価が決まり、しかもそれを使いきることが制度的に求められているようなところ似ていると思いませんか?。話がそれていきそうですので、話を戻しましょう。「家計簿」と言うと、賢明にファイナンシャルプランを組まれる家庭が多い昨今ですから、失礼がありますが、一般的に会計帳簿と捉えると、おこづかい帳・家計簿はキャッシュフローだけを管理した単式簿記に区分けされ、その形式で行政体の経理がなされていると言うことです。
 ※単式簿記と複式簿記の違いについて例を挙げてみます。例えば50万円出してパソコンを買ったとします。おこづかい帳や家計簿では、お金を払った時に「パソコン50万円」と「出金」の覧に記入して終わりです。場合によっては、その支出を補うために、お父さんの小遣いが月々5千円減らされると言うことはあるかも知れませんが・・・。これが企業で購入した場合は少し違ってきます。パソコンを購入した時点で、50万円の備品として帳簿に付けます。支払いの方法によって、未払金に計上したり、小切手を振り出した場合は当座勘定勘定から減算されます。そして、備品として計上されたパソコンは、備品それぞれに決まった耐用年数の期間でもって減価償却して、減価償却費として計上することが認められ、会計年度ごとに経費として処理されるのが一般的です。
 私たちが進める「まちの家計簿」は、家計簿と同じ単式簿記のままで良いという主張ではなく、現在の日本の国や地方の会計が、基本的に歳入と歳出で会計年度ごとのお金の出入りを把握する現金主義の単式簿記会計で、が住民にわかりにくくしている大きな要因であって、企業と同様の会計方式を導入することで、国民・市民の財産や将来にわたって負担すべき金額を明らかにし欲しい。(今までと今後の)私たちが支払った税金の使い途をわかりやすくすることが必要だと言う主張なのです。そして、誰にでも解る言葉で説明して欲しいということなのです。例えば、歳入・歳出といったお金の出入りだけを考えた「黒字」だとか「赤字」だというのは、ただ単に資金繰りが出来たか出来なかったかという問題であって、公債を発行すればその分歳入は増えますから、相応の支出が可能ということになり、将来その公債(借金)を返さなければならないということを表していない決算書は無意味だと言うことです。それに、そのお金を使って、どういう資産(例えば、水資源確保のためのダムを造るためだとか、市立病院の建て替えだとか)を手に入れたかという事が大切ではないかと言うことなのです。財務諸表の一つ貸借対照表などは企業が導入するもので、営利を目的としない国や地方の会計にはなじまないといった誤解があるとも聞きました。しかし、日本も明治23年施行の会計法が出てくるまでは、「官庁のお金のやり取りにおいて複式簿記が基調とされていた他、フランス式簿記法に起源をもつ時価主義による財産目録の作成も義務付けられていた。」とのことです。
 今一度、声を大にして言いたい、「企業会計のルールを持ち込み、バランスシートを作ろう」資産評価も時価評価で。それを住民にわかりやすく伝えよう、それを「まちの家計簿づくり」と言っているのです。戻る

2002/11/6 不法投棄ゴミ、どうしやす?
 市内某所でよくお会いする方と、市内各所で大量に不法投棄されているゴミについて話をしました。現在、市では不法投棄ゴミの現状把握と解決策の立案をしているとのことです。おおよそのゴミ量は、約5000トンとか、5000トンというと市の最終処分場の1年分のゴミ量に当たると言うようなこともお話になっていました。(数字は、違っているかも)新しい最終処分場の建設の検討を始めてから、受け入れる地元との交渉を経て竣工までに必要と思われる時間的な制約を考えると、既存の老い先短い( 残存キャパが少ない)宇和島内の既存施設に安易に埋設することは避けなければならない状態とのことです。では、どうするかというと近所の民間の処分場に受け入れをお願いしなければならないということになります。当然有償で処理をお願いするのです。つまり、また税金を使う先がみつかったということです。まことにありがたいことです。
 さてさて、埋設処分料だけ考えても、1車数万円。では、車に乗せる作業は、誰がどういうコストで請け負うというのでしょう。ボランティァに頼むなどして、地域住民が自らの手で引き上げることも必要でしょう。場所やゴミの質によっては、素人では立ち向かえないものも出てくるでしょう。高所作業に慣れた方にお金をお支払いして依頼しなければならないでしょう、重機の力を借りなければならないものも多いでしょう。どっこい、簡単にはいきそうにありません。またまた、一方では、こうしてキーをたたいている瞬間にも、高い確率で不法投棄ゴミは増えていることでしよう。つまり、処理料も膨れ上がっています。針でつついて、しぼめることができればいいのですが・・・。
 ごみを捨てられないようにする対策から、今すでに捨ててある大量のごみを処理することまで、このごみの問題は誰が解決するべきなのでしょう。行政がプランを組み、そのプランに沿った法整備・予算措置を行えばいいのでしょう。しかし、私達が出来ることはありませんか?明日からでも出来ることはありませんか?何度もお話ししていることですが、行政と住民の役割分担を考えてみましょう。ごみの問題も今までどうり、お金で解決しますか?新しい徴税が必要ですね。市民の皆さんに処理料を全額負担していただくとして、市民一人あたりどれだけの負担が必要でしょう。そんな切り口で、市民にコストを意識して貰うことが必要ではないでしょうか。限られた収入ですのに何もかも税金で処理をしようとすると当然無理があります。市民の側としては、行政の無駄遣いを指摘するのも手でしょう。しかし、無駄遣いを指摘するだけでなく、自分たちが出来ることはないかと、我が町の問題に目を向けて行くことがもっと大切です。できれば、選択肢を自分たちで作ってみませんか?少なくとも、選択肢が出てきたら、どうすることがよいのか意思表示をするべきです。戻る

2002/10/31 まちづくり委員会のあり方/まちづくりプロジェクトチームの答申報道を受けて
 宇和島市「花と緑と潤いのあるまちづくり」プロジェクトチームが答申したという報道を受けて、まちづくり委員会のあり方を再度お話ししてみたいと思います。
 10/25付けの愛媛新聞によると、宇和島市「花と緑と潤いのあるまちづくり」プロジェクトチーム(まちづくりプロジェクトチーム)は、毎月第三日曜日に全市民で清掃活動や花いっぱい運動を展開することなどを盛り込んだ検討結果を市長に答申したとのことです。このこと自体をとやかく言うつもりはありません。自身に対して改めて問題提起をしてみたいと思います。
1.まず、私達のまちづくり委員会とプロジェクトチームの位置づけ(私が理解する)の違いから考えてみます。
 このプロジェクトチームは、これまでに四回の会合を開いて答申をしたと言います。回数は少ないながらも、当然に、充分なご審議をなされた結果出された答申であることでしょう。しかしながら、プロジェクト(事業プラン)の答申を使命とし、答申を出すまでの期間が比較的短いものであることを求められていたとしたらどうでしょう。会議で出された少数意見まで含めて答申に表わすのは難しいはずです。すなわち、「花と緑と潤いのあるまちづくり」という目標を達成するための意見交換がなされて、メンバーからは多彩なプランが出てきたとしても、会議の課程で最大公約数的に意見集約がされて、多くの意見が答申の中身からはずされているのではないかということです。では、そんな多彩な意見の内、答申に表れていないプランは目標達成のために役に立たないから消えたのでしょうか、そうではありません。それは意見集約という会議手法の中で消えてしまったと思うのです。短期に効果あるプランを答申することを義務づけられたプロジェクトチームの場合はそれはそれで良いのかもしれません。しかし、「今までの会議手法で集約された」結論というものが全て正しい結論ではなかったわけで、そんな意味から、今までと違う(それを解決する)新たな会議(結論を導く)手法としてワークショップ形式でまちづくり委員会を行おうと提案をしたのです。
2.次に、メンバーが違う(公募である)と言うことから考えてみます。
 私達のまちづくり委員会の委員は公募で集まっています。なにかの団体の長であったり、今まで行政経験があったりしないメンバーが多いようです。ですから、その分柔軟な発想が出来ているのではないかと思います。時にメンバーの一部は独善的であったりしますが、現場をみたり一緒に作業を進めながら委員会をやってみましょうと言う提案をしたところ、盛んに現場を踏み、会議の場での討論にとどまらない委員会になっています。声が大きかったり、弁が立つからその人のプランが採用されてはいけません、メンバーの意見はどんな意見でも捨てないで進めて行くことが必要です。こういう多彩の意見の中に問題解決の妙案が隠れているかもしれないからです。既存の枠にとらわれないで、プランの一つとして認めることから市民参加が活かされるものと思っています。メンバーの個性とそれを活かすワークショップ形式の委員会運営で、多様な(奔放な)プランが生き残ることが出来ます。そうすることによって、きっと問題解決の可能性は自ずと高まっていくことでしょう。答申を出すことにこだわらず、多彩な意見に耳を傾けること、そういう委員会がきっと何かを産むはずです。
3.では、実際にそれらの個性あるメンバーの多彩な意見をまとめるにはどうすればよいかということですが、それらの意見は、その目標を達成する為にいつ(When?)どこで(Where?)誰が(Who?)なにを(What?)どのように(How?)あるいはいくら(How much?)で、それはなぜ(Why?)行うのか」というふうに整理していくことが出来ます。(全てのプランが5W1Hを備えたものではないですが・・・)
 次のステップとして、一緒に作業を進めたり一緒に現場を見ながら自由に出されたプランを比較して整理してみましょう。それらの大小様々なプランは、たとえば、「今すぐに出来ること」も「明日から出来ること」もあります。「私が出来ること」もあれば「担当課長の裁量で出来ること」「市長の決裁で出来ること」。「法的な規制を調べてみなければならないこと」「予算組が必要なもの」「ただで出来ること」等、いろんな切り口で分類をすることができるはずです。
 雑ぱくな言い方で恐縮ですが、「自分が明日から、お金もかけないで、ちょっと注意すればできる」そんなこともあるのです。また、「担当部署に尋ねれば、ここで悩んでいることでも、簡単に答えが出てしまう」ものもあるでしょう。ある問題を解決すめために何をすべきか、多彩な解決手段を多彩な意見の中に見つけることが出きるはずです。
 5W1Hで整理していく手法については次項で(いつになることやら)述べてみたいと思いますが、プロジェクトチームの答申を取り上げた記事を見て、とりあえずのアッピールとしたいと思います。戻る

2002/10/29 宇和島市まちづくり委員の声とは/まちづくり委員会全体会を終えて(2−1)
                                                      関連2002/7/31
 何度目かになる宇和島市まちづくり委員会の全体会が28日に開かれました。環境・まちづくり・観光・文化という4つの分科会に別れて活動を初めていまして、先の全体会からそれぞれが数度(2〜3回)開いた分科会の結果を報告してそれについて意見交換をし合うというもの(だと思う)です。しかし、ここでも突然全く関係ない話題を出してきて、自分の問題意識による話し合いに話題を仕向けようとするメンバーが出てきています。その上に、過去の政策的な過ち(ご本人はそう主張される)を、その担当部署の職員が犯した愚策や失敗(ご本人はそう主張される)を指摘して、まくしたてるメンバーがいらっしゃいます。思わず、「なぜ、あなたの主張が受け入れられないか、ご説明しましょうか?」と言いたくなりましたが、ぐっと飲み込んで、客観的な論調で気づいていただくようにお話をしました(本人はそのつもりです)。しかし、どうもその場面場面でご自分の主張の仕方やその内容そのものが相手に理解されないものであり、伝わらない話し方であるということにお気づきにならなかったようです。まぁ、このまちづくり委員会は、宇和島市では初めての公募委員による委員会で(だからこそ失敗しないようにと気にかけているのです・・・)、個性的な方が多いのは承知の上だったのですが、自分の言うことを聞かなければ(自らの考えに沿わないプラン)、愚策であると言う感覚の人がいることには閉口してしまいます。誰が、適切な問題点の指摘やアドバイスに「ノー」というでしょう。役所の人間の全てがとは申し上げませんが、ほとんどの方は自分の仕事についてプライドを持ち、公のサービスを提供することが自分の務めであるという自覚を持っているはずです。それを頭ごなしに、前の担当者(当事者同士は職場の仲間なのです)はダメだったと主張なさっては、聞こうという耳まで閉じてしまうのではないでしょうか?確かに、全ての苦情を平等に受け止め、どんなプランをもすべて実行に移せるだけの裁量も余裕もないでしょう、しかし様々な意見の中でも、これはと思われる問題点については、間を空けず取り組んでくれるはずです、また、仕事を続け市民と接するうちに、「某君」からのアドバイスは真摯に受けてみようと言う対象もできてくるはずです。これは、議員や有力者(暴君?)の発言には耳を傾けるが、そういう地位にない人の意見には耳を傾けないと言うことと背反するようですが、実は、誰の意見であっても、最初は多くの人が耳を傾けるものなのです。確かに誰かの紹介があったりすると、意見出来る機会が早く容易く訪れることはあります。しかし、そんなことだけで仕事がうまくいくはずはありません。昨今の財政危機も一部の行政官がある業界や特定の団体・個人の便益を優先させたが為に無駄や非効率な投資が行われるというバランス感覚の欠如に由来するものが多いのです。しかし、いろんな意見の中から、より多くの人が望んでいるより正しい判断が出来るように努力しているのが大方の職員が今まさに立っているスタンスであろうと思います。そう考えたときに、私たちが発言する地域の問題点や将来のまちづくりプランは、「多くの住民が感じていることであったり望んでいたりすることですか?」と問われた時に、自信を持って「YES!」と答えられるでしょうか?まさか自分だけが考えていることを「誰もが」考えていることだと(独りよがりで)発言しているようなことはないでしょうか?もし、そうだとしたら、私たちの立場が、市長に委嘱されたまちづくり委員会の委員に変わったとしても、誰も耳を傾けないことでしょう。
 今一度、自分たちの意見が寄って立つ根拠というもの、その意見の正当性の根拠というものに目をやり、胸に手を当てて発言することが必要です。多くの方に信任されて就いた委員という立場でもなく、公職を選任する規定によって選ばれた立場でもないのです、私たちの意見の正しさは何をもって量るべきかということを考えてみましょう。それは、すなわち、「無私である」こと「公を思う」ことにあります。
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2002/10/7 リサイクルという免罪符?
 今更、4Rをここで説明するつもりもないのですが、「循環型社会を目指す」というかけ声のもと、最近どうにも、「リサイクルすれば、どんどんと消費を続けても許されるような」風潮が出来ているようでなりません。宇和島でも、燃やさないゴミで出されていたアルミ缶・スチール缶が資源ごみとして集められ、ペットボトルがペットボトル専用の袋で収集されるようになりました。また、牛乳の紙パックや食品トレイは、各スーパーを中心に回収が進んでいます。でも、これってよく考えると、現在の大量生産・大量消費のままで、環境への配慮をしていこうという“ごまかし”と思えてしかたがありません。再びドイツの例(それも少し古いデータで・・・)を出して恐縮ですが、1995年の包装材のリサイクル率が、ガラス82%、紙類90%、プラスチック60%、スチール64%、アルミ70%と言います。いかがでしょう、皆さんが家庭から出されるゴミ(とりあえずゴミと呼びます)をイメージしてください。また、1991年の法改正(包装材制令)で企業に義務づけられた包装資材は、菓子や歯磨き粉の包装箱まで含まれ、それらが皆回収や再利用に回されているのです。私たちは、ここで宇和島市が集める資源ごみの一覧を見直してみれば良いでしょう。
 リサイクルを進めるのは当然で、それはそれで必要なことです。しかし、それ以上にRefuse(使わない・やめる)、Reduce(減らす)、Reuse(再利用する)を進めることが同時に必要なのです。今の日本では、リサイクルは現在の生産や消費を良しとする免罪符であって、「けしからん!」とまで言うと無理があるのかもしれませんが、とにかく、Recycle(再資源化)を進めながら、先の3つのRを実現することを考えなければならないのです。
 たとえば、卵はどうして6個や10個で買わなければならないのでしょう。トマトは、3個だとか4個だとかでしか買えないのでしょうか?トレーやラップ・袋、再利用できないボトルや缶に入ったものが市場にあふれています。一方、(またまた)ドイツでは、ペットボトルは50〜100回ほどの再利用がなされ、最後に再資源化に回されています。当然、企業へ回収・再利用が義務づけられたことも、これら市場を変える原因でありましたが、消費者の動機付けとうまくかみ合って、現在発生するコストをお互いが負担して、将来にわたる環境リスク軽減のコストをそれぞれが応分に負担することに成功していると言えると思います。それは、一つに廃棄物処理施設が「迷惑施設」である以上に、「環境汚染の源」であるということが判ってきたからです。そして、直接的な汚染物質の発生源である上に、様々な環境問題に廃棄物処理が関わっていることが判ってきたからです。温暖化、酸性雨、オゾン層の破壊、森林の減少等々。十分に環境に留意されているはずの処分場周辺でも、淡水生物のメス化や不妊・奇形など、わずかな量の廃棄物がホルモンの分泌を攪乱してしまった結果が様々に現れ、報道されています。現在の、モノを廃棄物として処理したり再資源化する資源循環のレベルでは、環境破壊は止まらないようです。日本の常識が環境先進国の非常識になってきているのです。たとえば、リターナブル容器の復活(最近少しだけ復活の宅配牛乳の瓶の回収率はほぼ100%でReuseの回数は約50回といわれています。/紙キャップの消費量から計算すると概ね7〜80回は使われているのが実際のところみたいです。ビール瓶でも平均15回と言います。)、野菜や果物は買い物かごで必要な量を買う。卵も買い物かごに「そぉーっ」いれる。お豆腐は、近所のお店にボールや鍋を抱えて買いに行く。これって、数十年前には当たり前だったのです。ヨーロッパでは、野菜・果物は裸で積まれ、ワインは瓶(デンマークでは法律でワンウェイ飲料容器の販売・消費を禁じています)を持って買いに行きます。缶ビールのシェアは(ドイツでは、ビール・清涼飲料水・果汁・ワインで、リターナブル瓶のシェアを72%を下限として設定し、これを下回った場合には、デポジットを強制できる法律がある)低く押さえられていますい(日本では、50%を超えています)。パンは、バスケットに入れて持ち帰ります。リサイクルではなく、その前の3つのRを実現しているのです。
 一方、日本のリサイクルの奥には、大量生産・大量消費の企業の論理があります。確かに、日本でも容器包装リサイクル法という法律が出来ました。それは、「消費者・市町村・事業者が責任を分担して容器包装廃棄物のリサイクルを促進しよう、そして、一般廃棄物の排出量や最終処分量を減らして循環型社会を実現しよう」という趣旨からなる法であります。消費者は、容器や包装資材をその他のごみから分別して出し、各自治体は、それらの分別収集を行う、そして企業は、自らまたは指定法人やリサイクル事業者に委託して再商品化する義務を負うとされています。しかし、リサイクル法が施行されて私たちの生活が特に変わったでしょうか?例えば、2gのペットボトルの処理に60円かかるという試算があるにもかかわらず、商品の価格が変わったでしょうか?ほとんど変わっていない生活にお気づきのことと思います。つまり、あまり効果のない規制、消費生活に変化を与えない法律であるということを表しているのです。
 飲料等のメーカーは、ペットボトルや缶の回収に全責任を負うべきです。包装資材は、すべて販売店に回収を求めるべきです。それらの処理を一部であっても税金で賄う限り、ごみ問題は解決しないでしょう、すべてを企業の責任において処理をさせるべきです。そうすれば、包装資材処理のコストは価格に跳ね返ってきます。企業の幾分かは、包装形態を変えるでしょう。すると、消費も変わるでしょう。
 税金をたくさん払った人が必然的にごみ処理代もたくさん支払うという制度のままでは解決しないでしょう。ゴミ処理代は出す人が払う。そして、そのゴミ(ゴミ付きの商品)を販売して収入を得た企業に責任(製造者・販売者)を負わせるべきです。
 ここにある試算があります、東京大学“生産技術研究所”は、「いろいろな飲み物の容器すべてをビール瓶や一升瓶のように何回も利用できる「リターナブル瓶」に変えたとき

二酸化炭素の年間排出量:約78万トン削減
廃棄物として埋め立てられる量:9割減少
処理費用:1500億円節減   2000年6/20付 朝日新聞 夕刊より

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2002/9/29 ごみ処分場の要らない地域に
 数年前の話ですが、日本青年会議所が行った環境を主題としたドイツミッションの報告書の中に、まさにゴミ大国日本の進むべき道を示す驚き(日本の常識では)の事実を見つけたことがあります。なんと、ゴミ不足で仕事が無いというのです。ある町では、30ヘクタールの埋め立て処分場が100年も持ちそうだというのです。そして、あまりにゴミが少ないので、二つある焼却施設の一つを閉鎖したというのです。
 たとえば、紙を燃やしてしまうのと、再生するのとどちらがコストがかかるのでしょう。古紙の再生について、日本は世界に誇るべき循環システムを持っていました。ところが、もう何年も前から、バージンパルプ使用の紙と再生紙を比べると再生紙が高い時代になってしまい、再生紙利用促進運動をやっても未だにバージンパルプ100%使用した紙の方が安いという時代が続いています。古紙再生の環境負荷について、そのコストをどう計算するかという問題はありますが、そもそも再利用(Reuse)や再生品の使用(Recycle)と比べて燃やしてしまう方がコストがかからないとされていることが問題なのです。燃やしたときに出る二酸化炭素の処理やあるいはダイオキシンの危険性はどう計算しているのでしょう。ちなみに、ドイツのコスト計算では、1トンの紙や生ごみの焼却するには400マルクかかるが、再利用するには200マルクから300マルクで済むとのことです。(これもまた、どこまでのコストを含んでいるかそのレポートでは明らかではありませんが・・・。失礼)
 もう一つのお話は、ビール産地として有名なミュンヘン市の話です、ミュンヘンでは公共用地で行う行事では、使い捨て容器は使用禁止です。そんな法律(正確には条例)ができてから、通風持ちの私にはたまらないかの有名な何百万人も集まるビール祭のゴミは、条例施行後の2年間で16分の1に減ったと言うのです。
 建築廃材は、ガラス・金属・木材などに分別し再利用が義務づけられています。生ごみは、分別して回収し、企業(税金を使って)が堆肥化します。各家庭で堆肥化する場合には、補助金が出されます。粗大ごみは、収集センターに集められ、使える物は市民が持ち帰ります。
 16分の1という数字には驚いてしまうのですが、この今では当たり前の環境先進国ドイツの「ゴミを減し再資源化するシステム」も、そんな昔から確立していたわけではないのです。日本と同じように、新たな処分場建設が住民の抵抗で難しくなったここ20年ほどの事情によるのです。ところが、同様にゴミ問題に悩んだ日本とドイツはどこが違っていたのでしょう。例としてよく示されるものですが、ダイオキシンの排出量規制値は、ドイツの800倍の努力目標が示されていたに過ぎませんでした。(ドイツでは、排出量が1立方メートルあたり0.1ナノグラムを越えると施設そのものが閉鎖されるのに対し、日本では80ナノグラム以下に抑えることが目標値とされていた)また、ある番組の中で、ダイオキシン汚染について危機を指摘したキャスターは、その汚染された植物が発見された地域の農業団体に訴えられる始末です。つまり、大事なのはお金なのです。処分場周辺の国民の生命や健康に対する危険よりも、お金が大切なのです。農産物を食べた国民の命よりも汚染されていても農作物が売れることが大切なのです。それに、ごみ処理施設などは、一般に迷惑施設と呼ばれてまして、それらを受け容れる地域はそれを受け容れる代わりに様々な政策的優遇(見返り事業と呼ばれたりします)を受けるのです。
 私どものまち宇和島でも、迷惑施設を受け容れる代わりに、その島に橋を架けるというあまりに単純な図式の見える計画が検討されています。私は、「施設を作る場所がその島であるから反対」という立場はとりません。一部の九島の処分場建設に反対される皆さんは、西風が吹けば市街地に排煙が流れて来る。だとか、処分場施設から漏れ出た汚水が海面養殖の漁場を今以上に汚染してしまう。とか、処分場の近くの養殖場で養殖された魚は、市場で良い評価は得られないだろう。とか言います。しかし、「それではどこかの山奥ならばいいって言うの?」とお聞きしたくなるのです。どこに造るかという検討よりも、現状の技術(先立つものに糸目を付けなければ別でしょうが)では、生命は危険に晒され、環境を破壊する施設なのだと言うことを認識することがまず必要であると言いたいのです。自然を大切にしようと考え、自然(環境)に大きく依存した産業を地場産業として持つ地域であると自覚しているとするならば、まず、「他に例を見ないほどの世界最高レベルの処分施設を望む。」そんな価値観が必要かと思います。そんな施設は、べらぼうに先立つものを食ってしまいますから、そこそこのレベルで手を打とうというのが、一般の価値判断になるかも知れません。しかし、先に述べたドイツの例のように、ゴミを減すシステムを作ることで、ゴミが減った分生命身体の危険は減すことが出来るということに気づくべきです。ゴミが減れば、その分少しだけ寿命(処分施設も私たちも)が延びます。
 処分場建設に対し、危機感を持ち、安易に見返り事業に心を動かすことなく、施設のプランを立てるべきです。そして、ゴミを減らすこと、そういうプランを同時に検討して行くべきです。環境先進国に学びましょう。環境先進地域「うわじま」を目指して。
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2002/9/2 すぐに実行可能な施策
 8月19日のまちづくり委員会で、石橋市長が、すぐ取り組めそうなことをピックアップしてくれないかと言うことで、まったくの思いつきで、以下をお伝えする。

市長がデイリーもしくはウイークリーに発信するメールマガジンの創刊。
市長初め行政マンと市民、あるいは市民同士を結ぶまちづくり全体について情報交流できる掲示板(インターネット上)の設置。
給与のわたり制の中止。
昇給の中止。
賞与の適正化。
地域内企業以外の公共工事等入札参加禁止。
特殊な物品を除き、地域外企業からの購入禁止。
公共工事の入札における、価格制限の廃止。
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2002/8/30 輸入食材の危険性/食の安保を考える1
 昨日の新聞の多くは、中国まつたけの残留農薬についての記事を一面トップに持ってきました。「まつたけなど食わずとも生きていける、そんな贅沢品なんか食わんでえーわい」という立派な御人には関係がない話です。実際に、「秋には松茸」を食わなければならんと、これっぽっちも思わない私には残留農薬が10倍だろうが1万倍だろうが健康被害のおそれは完無に近いわけです。(笑)しかし、この生鮮野菜の輸入検疫について看過できない事実が報道されたことに気疲れた方も多いと思います。
 生鮮野菜の検査は、商品が傷みやすい物ですから、通関手続きを進めながら、一部を抜き取り検査し、その検査結果が出る頃には、その食材の多くが、日本人(日本に住む人と言う意味で)の口に入ってしまっています。今回の松茸の場合ですと、日本に入荷してきたのが19日、検査結果が出たのが23日で、検査結果が出て、GO!ではなくて、すでに市場に流れ、百貨店やスーパーで販売されていたのです。そして、今回たまたま見つかったわけですが、この問題が発覚する以前、松茸の輸入に際しては、輸入の届け出10回に1回の割合でしか行われず、10回の内9回は無検査で市場に流れていたのです。お騒がせの先輩、ほうれん草やブロッコリーなど7品目は、輸入の届け出があるたびにその荷物の一部を抜き取り検査する「100%モニタリング」が行われています。この100%の抜き取り検査は、今までの10倍の精度を持って品質のチェックがなされると言うことになり、食の安全がある程度守られると言うことになるでしょう。しかし、抜き取り検査の結果が出る頃には、レストランのテーブルや家庭の食卓に並び、胃袋に収まっているという事を考え併せると、なんとナンセンスな抜き取り検査であるかということがわかります。日本の野菜なら大丈夫であるという事を主張しているのではありません。100%モニタリングを進め、検査結果が出るまで販売できなくすることが当たり前だと思うのです。
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2002/8/10 まちづくり委員会は、ワークショップ方式で!
 市民が参加するまちづくり委員会で「結論にこだわることなく、個性ある委員がその個性を発揮するための手段として、委員会をワークショップ方式で行えばどうか」という提案を申し上げましたところ、委員会の中からも「どういうの?」って、ご質問を頂きましたので、私が経験した(ほとんどが青年会議所活動の中のことですが)ものからイメージできるまちづくりワークショップをご説明したいと思います。
 ワークショップとは、もともとは作業所とか工房という意味を持っていまして、会議や小集団活動の手法としてこの言葉を利用する場合は、なんらかの仕事(役割)や作業を行いながら、自由に発想し、自由に意見交換しながら、合意形成していくという、ステップを踏み、今までの「会議」と言うイメージよりは、実習とか共同作業とか言うイメージに近いものです。通常の会議との異なる点は、参加者が意見が言いやすいように工夫することが毎回のテーマであること、グループが共通の課題(作業)に取り組むことによって結果的に生まれる新しい発想や集団の合意を得るための「経過」を大切にする手法であることです。形式や結論を出すことにこだわらない、極端な話、結論などでなくとも様々な意見が出てきて、参加者の意識に何らかの変化が生まれることがその活動の価値であると考えても良いような方式です。
 今までのまちづくり会議とか委員会というと、とかく行政サイドで型どおりの集会を開いて、事務局が行政側の提案を説明し、参加者(市民・住民)が質問したり、意見を言うというやり方が多かったのですが、そんなアリバイづくり的な市民参加についての反省から生まれたものがこのワークショップ(市民参加型・共働作業型)型の運営手法なのです。NPO等では、目新しい手法ではありませんが、行政の委員会組織の中では比較的新しい手法と言えるでしょう。今回の宇和島でも、委員相互の意見交換がはかられ、その中でより広い情報が集められ、その情報を共有する中で、この一部の市民が集まった小集団の中に合意(あえて申し上げるとするなら、「よりよい提案」の素)が出来るとするなら、その意見に対しても耳を傾けたいということが、市長の意思(私の理解の範囲内のものですが・・・)なのではないかと思っています。極論すれば、様々な意見の中で、どんな意見も埋没させずに記録にとどめれば、何か大きな変革の素が見いだされるかも知れないと考えているのではないかとまで考えています。要は、誰が言ったかではなくて、どんな意見であるかなのです。
 実際問題として、23名の委員が毎度毎度集まって、いくつものテーマについて意見交換するにはあまりにも無理があります。23名という人数では、ディスカッションしていくためにも、物理的に(時間的にも委員同士のコミュニケーションの濃さを考えても)無理があります。いくつかのグループに分かれてミーティングをして、その結果を全体会に持ち寄るという手を使う方がよいはずです。8/7締め切りで委員向けにアンケートがなされ、その回答の中にグループ分けのためのテーマが見えてくるのではないかと思っています。そのテーマ毎に小集団を組織して、さまざまな共同作業を進めて行けばよいのです。意見交換の場面を想定しても、私は青年会議所活動の中で得た経験や情報をもとに意見を述べます。委員それぞれのご経験に応じて、様々な意見や情報が提供されるでしょう。
 そのグループは、何人で構成されても良いのです。「この指とまれ」として集まったメンバーでどんどんと議論をしていきます。議論が出尽くしたら、終わっても良いのです。結論を出そうとすると、小さな意見は消えてしまうかも知れません。今まで、大きな声やたくさんの意見だけを聞いてまちづくりを考えて全てが成功したわけではありません。小さな声や少ない意見の中に、解決の方策が隠れているのかも知れないのです。結論(統一見解)を出すことなどに時間を割かず、たくさんの意見を出して、意見を戦わせてみる、そういう中に何かが眠っているのかも知れないのです。
 先日の委員会でお話しした例ですが、冬のオリンピックを誘致し、田中前知事の脱ダム宣言で揺れる長野の21世紀のまちのビジョンをどんな色にしようかという話が出てきたとします。ある人は、オリンピックの雪の白とイメージするかも知れません。ある人は、山々の緑。また、ある人は豊かな水の水色。どれが合っていて、どれが合っていないと言うことではありません。ましてや、どれが正しいだとか正しくないという話ではないのです。それぞれが正しくて、良い考えで有るはずです。しかし、それでは、長野のまちづくりビジョンのイメージ色を決めていくことは出来ません。(まちのイメージ色を一色に決めなければならないかどうかと言う問題は別にして、これはあくまでも例ですから。)そういう時に、ワークショップで持って、徹底的に意見交換をして、混ぜ合わせていくと、「緑目を若干帯びた、薄い水色」という色ではないかと参加者が気づいていくことがこの手法なのです。(村岡 兼幸日本JC歴代会頭スピーチメモより)これは、つまり一本化されたようで一本化されていない、でもなんとなく納得できる政策判断をしたという、結論(みたいなもの)にたどり着くまでのプロセスを大切にした手法であるということを示すよい例ではないかと思います。
 ナショナルミニマムを目指した政策は、国家の財政危機を背景に終焉を迎えています。今からは、ローカルマキシマムを目指して、市民や行政やという既存の壁を取っ払って、パートナーとして、地域づくりに取り組まなければならないのです。市民一人一人が(行政官も議会も誰もが)、力を出し惜しみせず、地域のために尽くす(自己犠牲的な意味ではなく、自らが個性豊かに生きる上でも)意識が必要なのです。
 また、このワークショップという手法には、参加したメンバー相互が自由に発言できることによって、不必要なわだかまりを持たず会議が終えられるというメリットがあります。このメリットは、メンバーが相互にパートナーシップを築くことに繋がったり、行政と市民の新たなネットワーク(既存の市民団体とのネットワーク以上に「個」と「個」の)が作れたりという副産物を産むことでしょう。行政マンと市民が、専門用語や行政用語を越えた生活用語でコミュニケーションすることだけでも、まちづくりは変わるはずです。
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2002/7/31 宇和島市まちづくり委員の声とは?(市民の声 その2)
 宇和島市まちづくり委員会が発足いたしました。
 先日(7/29)、宇和島市まちづくり委員会の一回目が開かれまして、私も出席して参りました。委員にエントリーする者は、まちづくりについての思いを応募の葉書につづって、その書類選考で委員を選ぶという委員会です。(実際に何通の応募があって、どういう選考がなされたのかなど知りませんが・・・)当日集まったのは22名、所用のため欠席の1名を含め23名の委員が選任されました。
 宇和島市では、公募の委員のみで構成される委員会は初めてではないかと思うのですが、あえて、自戒を込めて、委員の心構えとしたい点を述べてみたいと思います。委員は市長名の委嘱状でその委員としての地位を得るわけですが、それは、委嘱を受けた一人一人の「選ばれた個人」に与えられたものではないという事を心に置いて欲しいということです。「公を思う市民の一人」として、意見を述べる機会を与えられたと考えて欲しいということです。確かに、住民参加は世の趨勢であります、住民参加無きところにまちの未来はないでしょう。しかし、委員一人一人は、法律に則った選挙で選ばれたわけでもなく、試験に受かるなどしてその地位が一定の保護を受ける立場でもないのです。また、社会的に認知された任意の団体等の中で選任され、その組織の意思・議決等を代弁する者として委員に選任されたわけでもないのです。ですから、委員一人一人は、市民の意見と自分の意見が違うこともあることを十分認識して謙虚に委員会に参加しなければならないと思います。あくまでも、委員が出した意見のうちどの意見を取り上げて行政に活かしていくかは、実際に権限を持つ公務員の皆さんの仕事なのです。
 だからといって、ものを言わず黙っていたら良いという話ではありません。私たちが公務員でもなく、何かの団体の代表や或る地域の代表でないということは、逆に言うと、それらの拘束を受けずに自由な発想が許される立場であるということなのです。そういう発想から出て来る意見が行政(まちづくり)に活かされることが必要であり、そうすることが行政の改革を進め、よりよいまちづくりを実現することに役立つことは、ここで、あえて述べる必要はないでしょう。かしこまった提言にこだわると多彩な意見の内の一部は、見えなくなってしまうでしょう。多彩な意見をそのままに、政策スタッフあるいは市長へ届けることがまず必要なのかと思います。ある部分では、多くの委員の意見が一致して提言の様なレポートを作り上げることが出来るかもしれません。あるいは、早速に実現可能な施策を提案することが出来るかもしれません。しかし、そういう短期での実現や委員の意見の一致にこだわることなく、多彩な意見・発想を披露してもらうことに重点を置くといかがでしょう。そしてそれらの中で個々が新しい発想を産み、新たなまちづくりのヒントを見いだして欲しいと思います。結論にこだわる必要はないと思います。個性ある委員がその個性を発揮できること、それが大切なことでしょう。「何かを議決しなければ」という会議では柔軟な発想は出てきません、
この委員会の運営方法として、私は、ワークショップ方式を提案しています。(松田政策室長と同意見のようです。感謝感謝!)戻る

2002/7/20 大きな声とたくさんの声(市民の声 その1)
 先日ある方(A氏とします)から、私が管理者を務めるメーリングリスト「uwajima_dml」への投稿について「ああいう発言は許してはならない」というふうなことを言われました。
 表現の自由は、個人の尊厳と民主制の確保の為に実に大切な人権の一つですが、メーリングリストへの自由な投稿に対してそれを制限すべきであるという主張へ、「自由な発言を制限するのは人権侵害だ」などと声高に非難するつもりはありません。そもそも、私は「人権侵害だ」などと相手の発言を止めようとするタイプの人間ではなく、発言に食いついてしまう(格好の餌食になる)タイプであることもあるのですが、A氏との間に基本的な部分(自由な議論の時間・場所を設けた上で多数意見が醸成され、その場の意見が議決されるべきである)に違いがなくて、ある部分(私の考える直接民主制により近い政治手法)についてお話しする良い題材と思ったからこちらで取り上げてみたのです。
 話を聞いておりますと、A氏の「このメーリングリスト批判」の根にあるものは、まさに表現の自由の現代的問題点として挙げられる「情報の送り手と受け手」の問題で、憲法論的に言うと、「強者に対する人権制限」という問題であると捉えられました。このメーリングリストに登録している人は、たかだか100人を超えた程度で(宇和島市民に限定されていません)す、そして残念なことに投稿されるのはその一部の方でしかありません。一方、そういう小さな集団の中のやりとりであるにもかかわらず、幸いなことに宇和島市長(観光闘牛問題についての投稿ありがとうございました>石橋市長)を始め、圏域の市町村の議員さん他多くの方が見ていただき、庁舎内でコピーなど回覧して、ちょっとした雑談の種などにしていただいているとのことで、開設者としてとてもうれしく思っています。
 投稿は、綺麗な言葉で言うと「一市民の声」ということになるのですが、個人的には「投稿された意見は必ず尊重されるべきだ」などという圧力を持ちたいとは思っていません。ただ、今まで発言のチャンスを持てなかった方々の中から、インターネットという媒体を利用することで、意見を呈したり疑問を投げかけたりする方が出てきたということ、それかとても価値のあることと考えているのです。大きく「市政への参加」と捉えても、一人でも多くの方が意見を述べられるのはよいことだと思うのです。A氏としては、登録者自体が少ないメーリングリストの中で、投稿者がまたその一部でしかないにもかかわらず、投稿がメーリングリスト参加者(数件のメディア関係の方もご登録いただいている)以外へも広く回覧などされていてなんらかの影響力を持つに至っている様が問題であるというのです。だから管理者として発言の中身はチェックして配信するべきである。というのです。しかし、私としては、あくまでも投稿はその投稿者の意見であって、メーリングリスト全体の意見ではないのですから、ことさらエチケットを超えた部分で自由な発言を制限するような管理はしたくないと考えて
いるのです。また、投稿者は「情報の送り手」としても投稿を目にする「情報の受け手」としての両面で参加しているのであって、これは「一方的な送り手」になりがちなメディアと「一方的な受け手」になりがちな市民との関係、つまり、大量情報発信の手段たる機材を独占的に「持つ」メディア対そういう手段を「持たざる」市民との関係とまったく違った関係となります。確かに、投稿するにはインターネットにアクセスできる端末(携帯電話からもアクセス可能です)を持つことが必要ですが、この「持つ」か「持たない」かというレベルでさえ、すでに多くの方が「持つのに利用しない」というところまで普及度が上がっている現実があります。また、私が常々主張している、「誰の意見かではなく、どんな意見かを大切にしよう」という意味からも、たとえ匿名でたった一人の住民の意見であっても平等にメーリングリストに掲載の機会が与えられるべきと考えるのです。何かの団体に所属しているからだとか、その組織・団体の長であるからだとか、どういう立場に立つ者だからと言うこと、大きな声であれば聞こえる社会で全てが成功したわけではありません。小さな声、声無き声、そういうたくさんの声に耳を傾けること、そういう民主主義のもっとも大切な部分を実現できるそういう社会になりかけていると考えているのです。東京から意見をくれる宇和島出身の学生さんもいらっしゃいます。たかだか、一学生の意見なのかもしれません、しかし、遠く宇和島を離れながらこの故郷のことを思ってくれる彼女の思いに応えたい、そういう意識が大切なのではないかと思うのです。どんな小さな声であっても、その声に応えるために、プライドをもって地域作りに取り組みたくありませんか。そのためには大きな声や多数意見だけ聞くのではなく、たくさんの声を聞かなければならないと思っています。
 そういう意味で、今回闘牛協会についてのある市民の疑問にこのメーリングリストを通してもお答え頂いた石橋市長にはお礼を申し上げたいと思います。市長の務めと言えばそれまでのことかもしれませんが、この改革の火を宇和島に燃やし続けなければと決意を新たにしたところです。
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2002/7/12 長野県の知事と県議会の関係?
 日本で県知事は、内閣総理大臣よりも大統領に近い存在であります。ある県(笑)では天皇と揶揄された時代もあります。その知事のとても強い権力の基には、議院内閣制の基に選ばれる総理大臣と違って住民の直接選挙で選出されることがあります。一方、県議会議員も選挙区で選出されたという根拠でもって職務・権限が法によって定められ、長野ではその権利行使の一つとして「知事に対する不信任決議」を行ったというある意味で健全な立憲主義が発露した場面なのです。議会による知事・首長の不信任決議の先例という事など無関係に、正当な権利行使なのです。どうも、マスコミは往々にしてどちらかを悪者にしたいみたく報道をするところがあるのですが、法に基づく権利行使という意味(知事が解散権を行使しても)で、どちらが良い悪いではなく、法によって認められた権利を持つ者がその権利を行使するに際して、必要な要件を満たせば、「自由主義社会を実現するために認められた民主的手段を採った」として尊重されなければならないわけです。そういう意味では、田中知事が繰り返す「県議会の意思を厳粛に受け止める」という主張は的を得ているものなのです。彼は、マスコミの利用術に長けているので、露出によって得ているところの支持率をディスカウントして考えるべきであるという評価もあります。しかし、その理屈を突き詰めると、自由主義社会そしてそれを実現するための手段である多数決(物事を決定するに際してもっとも民主的だとされている手段という意味で、多数意見が正しいという意味では一切ありません)そのものを否定することに繋がりかねません。適法な許される手段であれば、様々なテクニック・場面を利用して自らの考えを発信できることが、自由主義社会実現のために保障されるべき権利だからです。そして、自由な情報発信やそれに基づく議論がない多数決主義的民主主義に陥ってしまえば、民主主義実現の名のもとに自由は踏みにじられ、過去の過ちを再び犯してしまう可能性が出て参ります。特に、自らの政策理念を実現するために社会的ポジションを得ようとする者(選挙に立候補する予定者)であったり、その立場にある者(現職の者)は、ルール(公職選挙法等)内であれば平等に権利が認められています。その主張がマスコミに取り上げられるかどうかは、主張に対する支持の高さ(単に表向きのものを含めて)であったり、アッピールのし方であるでしょう、これは仕方がないことです。選挙期間中など法で定められた期間以外にまでマスコミ露出を各候補者間あるいは同じ立場にある議員・議員候補間、あるいは対立する政策を主張する複数の政策集団を平等に報じることは無理なことで全くナンセンスなことであります。
 たとえば、現職は露出度が高く、日々の仕事がすなわち選挙活動になっているわけですが、対抗する候補者の露出は格段にチャンスも低いわけです。また、県に1人の知事と県で数十人の議員では、自ずと扱いには違いが出てくるのです。逆に言うと、数十人の3/4が不信任決議に賛成して、その正義を県内に主張して回ることも出来るわけで、そういう意味では、理があれば民意は自らのものに出来るのです。だから、田中知事がマスコミを利用して支持率を高く維持しているからディスカウントするという主張はおかしな話なのです。
 もっとも、多数意見が常に正しいかというと、それは歴史が「ノー」という結論を示してくれていますから、支持率の高さやその意見が多数意見であることだけでもって正誤を判断することは出来ないのです。先に述べたように、情報が公開され・自由な議論がありその上で多数決(投票の仕方など細かい点はおいて)が行われたとすれば、現段階でそれ以上に正しい結論は導けないのではないかと判断しても良いとしなければならないということなのです。常に人は誤りを犯すという意識でもって少数意見に耳を傾ける限り、間違いを犯す可能性は低く押さえることが出来るということなのです。
 そういう意味では、「不信任決議」は最後通牒でありまして、長野の問題は、言語道断の名刺折り曲げ事件に見たような感情的な部分に根があるように私は考えたりしてしまいます。しかし、その感情的な価値判断が一部にあったとしても、法律に則った手続きを踏んだ以上「愚」とは言えても、その効果に対して「No」とは言えないのです。それだけ議会の意思表示は重いわけです。知事は議会を解散するかあるいは自らが失職するという判断をするわけですが、いずれにしても改めて選挙の場で民意を問える機会が与えられたのです。民意がどうあれば良いかと言うことは申しませんが、すべての有権者の皆さんが今に興味を向け明日を考える機会を大切にしていただくことを願っています。
 クリスタル世代という言葉を産んだ田中知事ですが、政治に携わろうとする者は住民の多くの意思を集めて輝くクリスタルのような存在であって欲しいと思います。ブランドを身にまとうことなどでしか自らを輝かせることが出来ないと揶揄された世代ですが、これを民の意思(光)を実現する(集めて光る)クリスタルであると考えると政治に携わる者のあるべき姿が見えてくるように思います。戻る

2002/6/30 いえ、道路公団の民営化に反対ではないのですよ!
 おいおいそれでは総論賛成・各論反対ではないかと言われますか?まっ、この「総論賛成・各論反対」というのが政策議論の常でありますから、かまわず進めてしまいます。
 そもそも、この「道路公団の民営化推進」の話は、高速道路を国家として経営(売り上げが一方であるわけですから)するうえで道路公団という組織にどういう役目を負わすのかということなのであって、道路公団を民営化して道路政策を決めさせるという議論ではないのです。
 国土の均衡ある発展という大目標のために延伸してきた高速道路であるわけですが、人口や産業の集中・集積地から離れれば離れるほど、その道路の利用量は少なくなり採算は悪くなるわけでして、(たとえば、本四架橋は3ルートが実現した、3つに選択枝が増えれば当然消費は分散しますし、ある都市間を結ぶ道路を想定しても人口の多いまちが先にある道路では(代替される道路の存在などの問題を除いて考えています)物も人もより多く移動します。極論しますが、年寄りが1人しか住まなくなった過疎地が先にある道路は、その老人にサービスを提供する公私含めた企業、老人の親戚・友人しか利用しないわけです。)そういう道路に税金を投入することが良いのか悪いのかという判断をどういう尺度でなすべきかということと、道路公団(高速道路の建設から運営管理までを独占する企業)の在り方は分けて考えなければならないと言いたいのです。
 3年前の夏、山本公一氏が宇和島青年会議所の主催する北宇和郡と宇和島の青年団体が地域の未来像を語り合おうという会で、基調的なスピーチの中で触れられたことを、私のメモをもとにお伝えしてみます。氏は、「人間が住む最低のインフラというものがあり、(道や下水道を挙げて)高齢者が遠隔地に1人でも住んでいれば、その人を介護するために道を造る。そういう施策が必要。そんな中で、今、中央の権力を地方へという地方分権という。その言葉は、耳障りはよいが、それは地方の切り捨てに繋がりかねない、中央からの財政的援助は明らかに減る、今後は地域の力に応じた行政規模を求められる。」と述べられた、市町村合併が一つの論点である交流会でしたので、そういう切り口からの話なのですが、これは高速道路について、未整備の地方の選挙区から選出された多くの国会議員の主張に、すんなりと置き換えることができようかと思います。高速道路整備計画の未整備区間のうち、その先に小さな町しかない、その土地が産業立地としての価値が低いと判断される場合に「道を造るか造らないか」という問題なのです。道路整備の決定について採算を考えることは当然納得できる価値判断であります。しかし、単純に採算を考えるだけでも、「分子である便益」「分母である建設コストや管理運営コストなどの費用」をどう測定するか、という両面から検討しなければなりません。思いますのに、道路公団の問題は、@建設整備の優先順位決定が、冷静な需要予測の相対的な比較よりも、政治家の政治力で決定されそれに基づいて整備をなしている点。A建設費用が高止まりしている問題、B管理運営のコストも低減が出来ない。という部分だと思っています。地方空港計画について論じた拙文でも述べましたが、需要予測は極めて恣意的な事が多いようです。そして、天下りや競争のない人事制度で意思決定者の人事は硬直化し、建設から管理運営まで独占・寡占的に特定の事業者の利得の基になっているのが実際のように感じています。国策としての道路政策と、現在の道路公団のあり方は問題が別であります。道路公団に高速道路整備についての投資判断を委ねることは大問題です。道路整備についても国民が判断をするべきです。採算でのみ公共サービスが決定され、それが民間組織に委ねられるとしたら多くの国民が「No」と言うことでしょう。採算で公共サービスが決定されるとすれば、それは公の放棄になりかねません。どういうサービスに税金を使うか(税金を使われても良しとするか)を決定することは、住民自身であるべきです。住民がサービスは要らないと言えば、そのサービスは不要と決定すればいいのです。費用の低減などの企業感覚を公に持ち込むことは必要です。ただし、公の役割をどう捉えるかということ、その二つを分けてこの民営化論議も考えたいと思います。
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2002/6/23 議員の職を奪うのは選挙民
 先日、国会議員リコールの法整備の必要性について触れてみましたが、衆院は鈴木宗男議員議員辞職勧告を決議してしまいました。国民の信託を基にする国会議員の地位は憲法で極めて強く(不逮捕特権等々)保証されているにもかかわらず、議員の地位を奪う要件を満たしていない(この場合ですと、逮捕されて起訴されても地位を失うことはなく、有罪になって被選資格を失ってしまう)議員に対しに院が「辞めたら」って言ってしまったのです。
 これは一般に言われていることですが、前に挙げた友部議員は参院に居座り、国権の最高機関(あくまで機関としてです、主権者たる国民の意思が最高なのだーーーっ)であるという国会は無視され続け権威は失墜しました。また、多数派が少数派の気に入らない議員にたいして“いちゃもん”をつけて辞職勧告してしまうというおそれもあります。このあたりは、逮捕許諾に至るまでの与党側の主張であり、自らが身を処するのが筋であるとしてきました。そして辞職勧告決議の場でも、「民主主義の危機である」等として、小野晋也さん・河野太郎さんら数人の議員は決議案に反対あるいは退席をされたようです。
 こんな茶番を許してはいけません。「自らが身を処するのが筋」といいながら、「異議あり」の声が聞こえ、着席のまま(反対)の議員がいたにも関わらず、議長は総員賛成としてしまったのです。新しいルール、すなわち選挙区の有権者の投票でリコールできる制度の整備が必要なのです。このさい、比例代表で議員職を得た者が(その地位の根拠が政党への投票であるにもかかわらず)、その党を離れてもその地位を守られるという制度も含めて、党利党略で選挙制度をいじらず、民主主義原理に基づいた見直しをして欲しいものです。戻る

2002/6/22 高速道路なんかいらんわい! 
 このままでは、国・地方を合わせた政府債務が700兆円を越えようという状態です。政府や自治体のマネジメント能力をドラスチックに変えていく組織・システムの改革が必要だと思います。昨日、道路公団民営化のあり方を検討する第三者機関の委員が発表されましたが、これについても裏返して見ると「国会議員・中央行政府」の能力の限界の発現と、委員の人選で見えてくる結論の方向性に対する官邸側とそれに反対するグループの衝突としか見えてきません。
 本来、国の政策として建設整備が進められるべき高規格の道路「高速道路・幹線道路」です。それらの決定は国民の信託を得た国会議員が国会という場で議論をした上になしていくことがまともな姿であろうと思います。道路公団民営化のあり方にとどまらず今後の地方と地方あるいは地方と中央を結ぶ幹線道路まで含んだ道路のあり様を決定しかねない「道路関係四公団民営化推進委員会」が7名の委員(どんな考え方をもつ人が選ばれたかという問題を除いても)でもって構成され、その委員会に国の政策決定の一部に付託しようとしていることに問題を感じます。常々申し上げていることですが、7名の意見は有識者の意見であっても国民の意見ではないのです。形式的に民主主義の手順を踏むというアリバイ的(アリバイと言うよりは、自分の側に有利な鑑定結果を出す鑑定人を恣意的に選んでいると言っても過言ではないのかと・・・)に委員会を設置して、政策決定の正しさの根拠・決定を尊重する必要性の根拠として利用しようと考えているように思えます。
 すべての審議会や委員会がそうであります。為政者が自らが欲する答申を出して貰うために人選をして委員会等を設置する。それでは、それらの組織はアリバイ作りでしかありません。公募・抽選でもってメンバーは選ばれるべきです、そもそも政策決定は国民・住民全員の意見を聞く機会を持って決定されるべきなのです、それを補完する制度として間接民主制をとり、選挙によって国民や住民の信託を受けた首長や議員に決定する権限を委ねているのです。で、今回の道路の問題にしても、そのあたりの気概(この意識が不自然な地元への利益誘導をなくすはずです、少なくとも私腹を肥やすような政治家は居なくなるはずです)のない政治家が少ないのが問題です。国会議員でありながら国の形よりも自分が選ばれる選挙区へ予算を取ってくることを仕事してしまったり、特定の業界や特定の業者の請託を受けてその私欲の為に選択すべき政策をねじ曲げてしまう輩が多いのです。
 国が地方の道路整備はおおむね終了したと決定するのであるならば、宇和島までの高速道路は必要ないと主張したいと思います。そのかわり、その場合は地方と国の役割分担を考え直すことを先んじて進めるべきです。そして、その役割分担を可能にする具体的な手段として地方と国の税配分の見直しを先行して行うべきです。そういう意味で、(金がないから、リストラ的に)自治体合併をいつまでにやりましょうと言う誘導をするのではなくて、今後は地方にこれこれこういう部分にまで政策決定をしていただきます、ついてはこういう部分の税配分を変更いたします。その事業単位としての自治体規模を考えていただきたいと地方の選択を求めるべきなのです。「宇和島までの高速道路工事予算は必要ありません、私達が選択をして必要と判断すれば、その工事・事業に対して予算を付けます」ということになる。そういう、システムの改革を議論する国会であって欲しいと思います。
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2002/6/17 “公共心”再生
 先に、アドプトプログラムについて触れましたが、コミュニティーに住まう者としてそれ以前に持っていたい意識について述べてみます。
 以前、どこかでご挨拶させて頂いたときにご紹介したことがあるのでお聞きになった方はお許し頂きたいのですが、ある母親が車の中でお菓子やジュースを飲食する子供達に向かって「車が汚れてしまうから、ゴミを外に捨てなさい」と言ったそうです、子供達は遠足に行ったときなどに「ゴミは持ち帰りましょう」という教えを受けているわけですから、当惑してしまうのです。家庭の教育力の喪失については多くの方が語られていますが、まさしく自分の車がきれいであれば、道路やドライブで行った先は汚しても良いという価値観なのです。
 さてさて、まずは百歩譲りましょう。古き良き日本の話をするよりも、ベッカムの祖国イギリスの公共心をお伝えします。イギリスの各家々には、前庭があります。庭が無くてもベランダや出窓を草花で飾る家が殆どです。そして、その庭やベランダを整備する考え方というか、整備の仕方というか、自分の家の庭としてだけ整備をする感覚ではなくて、自分が暮らす公の空間の中の庭として位置づける意識があると言います。その各家の前庭は、大きな町も逆に人口数千人の町や村でも、それぞれのコミュニティーやストリートが個性のある(今風に言うとアイデンティティを持った)雰囲気を作っています。諺で「イギリスには2千万人の庭師がいる」と言われています。人口が6千万人に満たない国で3人に1人が庭師だというのです。それだけの庭師がいるのですから、庭はきれいになりますね。ただ、その庭師さんは生業として庭師をしているのではないのです、これは、イギリス国民の多くがそれぞれ何らかの形で庭造り(緑のコミュニティー作り)に関わっているということを表したものです。
 先ほど百歩譲ったように、ここでお伝えしていることは、自分の家の庭に手を入れて、綺麗に作り上げていくことに汗をする人が多いと言うことです。けして、「ボランティァで公園作りに協力しよう」とか「まちの通りを掃除しよう」などと言っているのではありません。個人の喜び(自分の家の前庭を綺麗にすること)が、地域の喜び(町並みを育む)につながるという実感を得て欲しいと言うことなのです。すこしイメージしにくいのですが、先の車の例に当てはめると、自分の車を綺麗にするためにごみを外に捨てるのではなく、車を綺麗にして社会全体を美しくしていこうと言うことなのです。
 自分でこうして原稿を作りながら、少し解りにくい例えだと承知してキーをたたき続けますが、車を綺麗にするためにごみを外へ捨てる(利己的な)意識と、自分の家の庭を綺麗にすることで公共空間を美しくしていくという意識(公に資す)の違いです。自分たちが使う道路や公園を捨てたごみで汚して、いくら車の中を綺麗に保っても、その車が走る空間そのものが汚れてしまっているわけですから、車の綺麗さなど刹那でしかありません。車の窓から捨てるたばこの灰はあなたの車も汚しているのです、あなたの大切な子供の肺を汚しているかもしれません。自分家の庭を綺麗にするために、塀の向こうへごみを捨てる人が居るでしょうか、塀の向こうへごみをやったとしても、庭の綺麗さが保たれるのは刹那・一瞬であります。この空間(環境)という意識で社会を考えると失いかけている「公共心」というものに行き着きます。
 そういえば、日本の庭を造る技法に借景というものがありました。戻る

2002/6/2 宇和島まちづくり委員会に期待する
 宇和島で公募制のまちづくり委員会が立ち上がります。石橋市長の意欲の現れと歓迎したいと思います。私も早速メンバーに加わるための申し込みをしたいと思っています。
 しかしながら、この「まちづくり委員会」如何に機能させるか、それが肝であります。各地でこういう組織(市民が地域の将来を考えようという)は作られています。今回、行政側からの提案で市民がまちづくりに関わる組織を作られると言うことですが、これはその委員会の答申が重みを持つという意味を持つ反面、お役所のアリバイ作りに使われてしまうリスクを持ちます。
 どういうメンバーが選ばれるのか、どういうスケジュールで進められるのか、とても興味あるところです。無報酬・夜間の開催という打ち出しでありますから、「仕事を持っていても(夜のお勤めでなければ)意欲さえ有れば時間を作って参加が出来る」、そういう準備はされているようです。しかしながら、30人もの市民を時間的に拘束するのですから、市サイドとしては遠慮がちなスケジュールを組まれるかもしれません。出来れば第一回の委員会でそのあたりの遠慮(役所側の遠慮)が必要ないことを指摘する発言がメンバーから出ればと思います。回数が少ないようだったら増やしましょう。時間が少ないようならば伸ばしましょう。事務局は、議事録をとることだけでよいのかもしれません。30人のメンバーでは物理的にディスカッションは出来ませんから、いくつかのグループに分けることが必要かとも思います。各グループでミーティングをして、その上で全体会に持ち寄る方法も採れると思います。ネット上の討論会も可能かと思います。どういう分科会を作るかの議論も必要かと思います。とにかく、運営を全て市民に任せるというスタンスで良いでしょう。
 ついでにも一つ、30人居れば30人の意見があります。そしてその殆どが間違ってはいないはずです。しかし、意見の中には「こちらを立てればあちらが立たず」という意見もあるはずです。そして、補助金検討委員会の答申の中でも触れましたが、こういう場で出てくる「市民の声を聞く」というスタンスこの言葉自体は非常に聞こえは良いのですが、それは「その人の声」「その人の意見」でしかないということを忘れてはなりません。今までの行政でも、市民の意見として何人かの充て職で選んだ市民の声を形式的に聞くことでもって「市民の声」を聞いたとするアリバイ作りがなされたこともあります。つまり、自治会であったり婦人団体であったり商工団体であったり、そういう団体の代表を充て職として審議会や協議会などのメンバーにして、その会で市民の声を聞く機会を経たとしていました。確かに、間違いなくその方々も市民なわけでして、聞いたものは市民の意見であったのは確かです、しかし、近頃の市民参加の形の変化を見ると、以前のような人選でメンバーを選んだ審議会や協議会のいくらかは充分に機能しなかったという反省の現れではないかと思ったりしています。近頃になってやっと、市民が参加して地域の設計図を描く、そのプロセスの重要性が改めて認識されたのでしょう。以前の手法の多くが、コンサルタントやプロフェッショナルによって計画(事務局案など)が出来ていて、それについて一応審議会や協議会で意見を聞くというスタイルであったのに対して、「企画や計画の段階から市民が参加できる」そういうスタイルが求められているのかと思います。
 そして、そういう市民参加の下、この委員会が30人の意見を全て具体化するためのプロセスではないことを確認してスタートすることが必要です。委員30人それぞれが様々な場面で(いろんな場所やいろんな機会に)まちづくり委員会が議論する課題について他の市民と話題として話し合っていくことが必要です。そうして、委員会の意見の幅を広げていかなければなりません。
 自分たちが委員会に加わっているというプライドを持って、自分の意見にとらわれず、意見交換していくうちに「こういうイメージが出来てきた」という、そういう充分な時間が必要であると思います。100%の一本化は出来ないでしょう、しかし徹底的に討論するというプロセスの中で見えてくるものが必ずあるはずです。「ワークショップ方式」で私達のまちづくりが実現することを祈ります。
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2002/5/23 国会議員のリコール権?
 議員秘書の口利き問題や鈴木宗男議員の「支援委員会」の私物化の問題など、みんな私達の税金の無駄遣いなのです。そんな無駄遣いを進めて私腹を肥やした方々を、議員の地位は重いとか言って辞職せぬまま放っておいたりしています。地方議員にはリコールという民主的手段で解職の請求が出来ます。しかし、国会議員のリコールというのは、国民の請求権はなく、「資格争訟裁判(議院による裁判で議員の資格を失わせるためには出席議員の2/3以上の議決が必要)」でしか出来ないようです。これっておかしいですよね。地方議員や首長との違いは何でしょう。国会議員が不逮捕特権などで地位が守られる基には、選挙の得票であると考えると、解職請求に必要な有効な署名の数的な割合についての要件は厳正に検討されるべき(地方自治法で規定される解職請求に必要な条件と同じでよいとは思わないという意味)とは思いますが、当然に解職請求が出来る手段があるべきで、その為の法整備が行われるべきです。国会の辞職勧告を受けた後も参議院議員に居座り続けた友部被告(オレンジ共済会/元参議院議員)もしかりであります、どうして選挙民は「ノー」という意思を実現できないのでしょう。
 税金を使う側の人達の理論で政策決定がなされています。税金を払う側の理論ではないのです。タックスペイヤーとしての自覚などと生意気なことを申し上げる私ですが、「今の日本は、
タックスイーター・デモクラシィーだ」という新潟大学の桜井先生(私が所属する構想日本の政策アナリストを務める)の主張をごもっともと思った次第です。戻る

2002/5/18 まちの家計簿にこだわる理由
 「家計簿つけてっか〜〜っ?」(広い意味で捉えて下さいね)借金であっぷあっぷしている親戚や金を貸し借りしている関係があっても、とやかく言うお節介焼きは少ないと思います。一方、我が家の家計や、将来の伴侶として考える相手の財布の中身がどんなものなのか心配しない人は殆ど居ないはずです。そういう意味で、我が家のこと、そこまで帰属意識が無くても税金を払ってサービス提供を受けようとする者(サービスを受けるまでお金を貸しているような)として、現在のお財布の状態を知りたいとか、あるいは、お上からの押しつけ的な政策(誘導)で合併を検討する相手方の市町村の財布の中身がどういうものであるかを知って、将来の設計を行うという、まさに当たり前の主張をしているだけなのです。歳入歳出を中心とした決算書や予算書の報告だけではわかりにくいものだから、わかりやすい形で示して欲しいということなのです。
 国レベルでは、「国の貸借対照表」(試案)を作成して、特殊法人等を連結して決算(計上)した決算書を作成するなどの改善措置が検討されています。また、多くの自治体(私が調べた各地の情報)でバランスシートや損益計算書(行政コスト計算書)が公表され、導入を検討する動きが拡がっています。
 バランスシートは、ある時点の財産や借金の状態を表すものです。損益計算書は、ある期間(年度とか半期)での収入と支出の集計をするものです。そして、それぞれがどういう性格のもの(前から持っていたり購入した資産がどういう価値のあるものなのかとか、借金の返済計画はどうなっているのかとか、この支出は投資的なものだとか、備品を備える為の支出だとか)であるかを表すものです。そしてその先に(優先順位だとか時期的な前後という意味ではなく、事業評価よりも財務諸表をつくる方が簡単だからと言う意味で)は、税金の使い道として適正かということ、そして、その使い方が効率的であるかという事業評価があるのです。それらの、公の財政運営や意思決定について、会計的なツールを使って適正化していこう、という考え方が常識的になってきているから、その手法を使って自分たちの地域の状態を明らかにして、地域の将来像を描こうと言うことなのです。
 確かに、総務省(旧自治省)の出した地方自治体のバランスシート作成についての指針を見ても解りにくく、また不十分な規定しかなされていないように思えます。公会計自体にまだまだ未発達なところもあります。しかし、企業のマネジメントにとって財務分析は不可欠であるのと同様に、自治体(国も含めて)経営の重要なツールとなり得るものだということは間違いないことです。ですから、企業の経営や経理に携わる住民や銀行業務や職業会計人といったプロ、あるいは家計を切り盛りする女性の経験や知恵を入れて地域の会計状態を明らかに出来ればというのです。
 家政(古いですか?)も一種のマネジメントですが、マネジメントは、その組織が成果を上げて目的を果たすために不可欠なものです。当然、企業経営と公の経営とは一概に一緒に考えることは出来ないと思います。しかし、どんな組織にもマネジメントが必要です。先の市長選挙で石橋市長が「民間の感覚でもって市政刷新を!」と唱えられ市民の支持を得たのは、「マネジメント無くして自治体経営は出来ない」という市民の意思の表れかと思います。国際会計基準等の企業会計が、企業の経営者にとって不可欠であるのと同様に、「公会計無くして自治体経営は出来ない」とも考えられると思います。
 民間感覚導入に積極的な宇和島市政を一歩先に進めるためにも、なんとしてでも民間感覚で「まちの家計簿」実現したいと考えるのです。
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2002/5/16 これも、情報操作?
 中国陽の亡命者連行事件では、中国側・日本側がそれぞれに自分に都合のいい情報を出しています。中国側が発表した新事実について、外務省は「直接関係が無いと思ったから報告しなかった」だとか、やっぱこれも情報操作でして、情報戦が行われているのです。真実は一つなのですが、国民は、政府の発表の仕方やマスコミの報道の姿勢で大きく事件の捉え方を変えます。脳天気な小泉氏は「日本の報道と中国の報道とどちらを信用するのですか」なんて、子供だましみたいな記者会見をしています。まあ、この件は、様々に報道・論評されていますので多くを語りませんが、一つおもしろい情報操作を見つけました。西南空港を推進しようという自治体グループが発表した空港の需要予測の基になる数字なのですが、2020年までの経済成長の想定値はなんと年率2%としています。これって、子供だましとか以前の、そうまでして空港が欲しいか、否「そうまでして税金を使いたいか?」と言いたくなってしまいます。まるで、モノを買ってもらえない子供が、「友達はみんな持っているのに」なんてだだをこねているように感じます。
 甘い需要予測でもって開設した後に地方自治体のお荷物になってしまった空港は日本国中にあります。まぁ、つまるところ関わる自治体が税金を使って赤字を埋めればいいわけでして、「あなたが推進したのだからあなたが余分に税金を払いなさい」とは言われませんから、別に関係ないという人が多いのかもしれません。地方空港の殆どは、先に触れたように高度成長・バブルの時代にすでに多くが不採算の状態でした。これって、諫早湾の干拓が時を経て次々と事業目的を変え、減反を推進する国家施策の中にあって農地整備の大規模工事を行うなどとしたおかしな工事を実現したのと根っこは同じじゃないかと思うのです。とにかく何が何でも工事をしなければという、「工事のための工事」「土木業者のための土木工事」と言えるような公共工事があるように感じることなのです。そんな感覚って
めったらやたらに(正直そう感じています)自分たちの地域にも空港が欲しいなんて言ってる人の価値判断の中に入っていないでしょうか?

 私達は、常に問題意識を持って、税金の使われ方をチェックしなければなりません。国や地方自治体などの発注者は、必要な社会資本を環境に十分配慮した形で整備するために工事を計画しなければなりません。一方、現実はどうかというと、(工事金額を単純に比較することは危険ですが)アメリカやヨーロッパ全体で行われる土木工事金額と同じ額の予算が日本一国で使われていると言いまして、それだけの予算を消化するわけですから、大きな業界で確かに公共工事でおまんまを食べている人口も多いわけです、だから景気対策と言っては工事費(公共事業として)の予算組がなされました。その結果、さして必要でもないのに、何とか探してまで現場をつくったような公共事業の発注が行われてきたのです。そしてその経済政策でつくった借金と環境破壊のつけを今からの世代が背負っていかなければならないのです。
 税金を支払う者自らが、その使い方を選択できる、そういうシステムを作らなければならないと思います。鈴木宗男が言ったそうです、「俺が集めた税金を俺が使って何が悪い」と、国民は言うべきです、「自分たちが払った税金の使い道を私達が決めて何が悪い」と。タックスペイヤーとしての自覚、それにつきます。
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2002/5/13 市町村合併雑感
 市町村合併って、どうなってるんでしょう?たいがい新聞の見出しには目をやる私ですが、あまりにも情報が出てきません。住民レベルでも行政レベルでも、ほとんど盛り上がりもなく、なんとなく、このままずるずると流されて、合併へ到達するのだろうと思ったりします。大方の地域民の方がそうではないでしょうか。
 一般論として、合併のメリットデメリットは知らされています。しかし、例えば、合併をした場合の周辺部で「サービス低下」を不安に思う方は多いようですが、だからといって反対の声を上げるような感覚にはほとんどなっていないのではないかと思います。つまり、合併を想定した問題提起が充分になされていないから、まるで他人事にしか感じていないのでしょう。先に取り上げました「アンケート」の結果が新聞などで取り上げられますが、そのアンケート対象(どういう方を対象にアンケートを行ったのかということ)にさえ意識は向いていません。例えば、「そんなアンケート来てただろうか」とか、「世帯主宛のアンケートだから」とかと思われる方すら少ないのではないかということです。
 ひょっとすると、行政としては突飛な?意見の出て来る対象にアンケートを行ったりすることを避けたいのであったり、意見が噴出しそうな情報をあえて発信することもしないでいるのではないかと思ったりします。
 一方、地域住民の間には、「合併してもたいして変わらないだろう」というあきらめにも似た思いが蔓延しているのではないかと思ったりします。郡部の方とお会いして、合併についてたまにお話しするのですが、「合併」というもののイメージが示されていないように思えます(宇和島の場合もそうですが・・・)。基本パターンの場合、宇和島は借金だらけだからとか、宇和島の公共料金は高いからという情報(そういう情報を積極的に発信する町もあるようです)が先行して、宇和島市と北宇和郡の町村で合併するパターンについて、感覚的にマイナスのイメージが作られているようにも感じます。また、参考パーターンの合併のイメージが出来ているかというとけしてそうでもないわけです。先行と言えば、後から合併を経た地域のイメージが追いかけて来そうな表現ですが、そうなるのはずーーーーっと後か、イメージのないまま合併と言うことになるのではと思ったりいたします。実際、宇和島に住んでいれば、次の次の地方選挙でちょっと変わるのかという程度の感覚の人が多いでしょうし、全域でも住民税にしても公共料金などという直接懐にひびく部分でも、さして変わらないはずですから、実感を得られるのは、ずっと先だろうと思います。逆に、そのあたりの負担が少々上下したとしても、それ以上にビジョンのある「合併後の地域像」が示されていれば抵抗はないはずです。そういう地域リーダーの誕生が待たれるところです。リーダーは未来像を示すべきです、多くの情報を発信していただきたい、具体案を示していただきたい。
 こういうと、まるで他人事のように主張する自分が情けなくなります。
 具体的には、まちの家計簿の作成を働きかけて参りましたが、そろそろ本腰を入れて、まちの家計簿づくりの委員会組織の立ち上げをお願いできませんか?報酬は必要ないかと思います、関係部署に資料提供の面でご協力が頂ければ、特別会計や企業会計・公社会計を含めたバランスシートが早い時期に作れるのではないかと思います。政策調整室が音頭をとっていただければよいのでしょうか?雑ぱくで申し訳有りませんが、以上が私の得ている感触です。

南海放送の友人からメールで合併に関する状況をお尋ねいただいて、ふと思いつきでつくった雑文です。戻る


2002/5/9 選挙で選ばれた者のプライド(さぬき市と宇摩地区を事例として)
 香川県の東部の五つの町が合併してできたさぬき市の市長選の投票が12日に行われます。新しい市の船出の式典で立候補を予定する旧町長がスピーチで火花をとばす一幕もあったと言います。良いことです。レベルの低い中傷合戦などに陥らなければ、候補者が自らが描くまちの未来像を住民に訴える機会は多いに越したことはなく、とても大切なことであります。そういう「政策の戦いを見た有権者が一票を投じる」素晴らしいことかと思います。しかし、ここでお伝えしたいのはその旧五町の議員66人で構成する新しい市議会についてであります。この66人の旧町議さんは来春の統一地方選まで在籍するため、仙台(定数64)や福岡(定数63)の議員定数を超え香川県議会(定数45)をも大きく上回る状態が1年間続くといいます。これを単純に批判する向きもありますが、これもまたある意味で、良い部分もあります。意見交換は多数で行われるほどにその結果の正しさの精度を増すというのが歴史上から明らかであるからです。「理想的には」直接民主制を実現することがよいと主張する私なのですが、廉価で電子投票が可能なほどにIT技術が進歩している昨今にあって、実現がもうそこに迫っていそうな感さえあり、「理想としてではなく」「試せる制度」となりつつあります。すなわち、「市民総参加の政策決定」の手段であります。
 地域代表であろうが業界代表であろうが、定数が多くなればなるほどに特定の地域や特定の業界が格別の利得を受ける政策決定は行われ難くなるように思います。確かに、すれっからしの私なんぞは、地域や業界へ利益を誘導しようと言うのはけして不自然なことではなく、当然あっても良いことで有ろうと思ったりします。しかしながら、常に他の地域とのバランスやその行政地域全体を意識した上でコミュニティーを考えたものであること、そして、政策実行の結果として一部の業界に有利な税の再配分がなされるようなものであったとしても、特定の業界に税金を貫流させる目的で政策を誤ることがないならば、というこれまた至極当然の「公意識」をもっていることが必要ではあります。
 ちょっと古いデータですが、手元の資料によるとニューヨーク市議は25人でロス・アンジェルスは15人です。宇和島の100倍を超える人口の街でこの定数であります。
 ここで、度議員定数というものを考えてみますと、地盤とする地域や業界へ利益誘導するだけでは、獲得できる票がすくなく必然的に「公意識」を持たなければ選ばれないほどに減してしまうか、逆に、地域・業界から押された多くの議員の中に置いて、「公意識」をベースにしない政策は実現できないと言うほどに定数を多くしてしまうかという両極端が良いのではないかと思います。宇和島市ですと、例えば5千票を超える票を獲得できるだけの政策アッピールが必要な定数にするか、100人ほどの賛同者がいれば、市の政策決定に加わっていけるほどに定数を増やしてしまうのが良いのかもというレベルなのかも知れません。
もっとも、ここで注意しなければならないのは、議員の人数が多いからと言って予算を潤沢に準備できるわけはないのだからして、議員定数が多くなればなるほど市民レベルでNPO的な議員が市民各層の意見を代弁できる環境を作る必要があるということです。
 先のさぬき市では、会議室と二つの委員会室をつなげて本会議場に改装したと言います。また、愛媛県宇摩地区の議員任期延長(合併特例法による任期の延長期限2年)によるコストは、74人の議員で年間4億4千4百万(これも当然、住民向けに積極的に知らされていない情報らしいですが)であり、新しい市の定数上限の30人の新議会を発足させれば年間1億8千万円ですむという試算があります。また、宇摩で行った合併に関するアンケートで住民が合併の一番の利点が「市町村長や議員、職員の削減による経費節減」(32.4%)としている一方で、「本来の任期は4年なのだから2年ぐらい延長してもらわなければ」と本音を漏らす議員が居ると言います。そのような議員の「公共の意識」とはどんなものなのでしょう。本会議場など、長机と折りたたみイスで済ませればよいのです。合併を決定するのならば、その実利をあげる一番手として、議員定数を自ら減員するとか、報酬を新定数の上限の人数で予算を除した額などへ下げるとか、先頭に立つ気概が欲しいものです。宇和島は市民の期待を裏切らないで頂きたい、テーブルやイスの立派さでプライドを満足するのではなく、そして議員任期の延長特例を既得権的に考えるのではなく、施設経費の節減を自ら実践し、人員削減の経費節減を自らの身を削って実現して欲しいと思います。
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2002/4/30 原子力発電についての情報操作(2)
 原子力発電のコストに関して、(だいぶ前ですが)に触れてみましたが、明らかに情報操作があったということを思わせる話が出てきました。実は、原子力発電は、環境負荷の点を考慮しても発電コストが最も安いのとされていました。「されていた」と言っても、政府(数年前の資源エネルギー庁の試算や原発を有する各発電事業者の試算)がそうしていただけであって、環境先進国ではもちろん国内でも環境派の科学者はこの発電方法が重大なコストを除外している(ごまかしている)と指摘していたのです。
 にもかかわらず、電力事業者も政府の「最も安い」としたコスト計算には全てのコストが含まれていると嘯いておりました。数年数十年単位ではなく、数百年の長いスパンで高レベル放射性廃棄物の処分を続けても安価であるとしていました。しかし、あにはからんや、案の定、先日、電気事業連合会は、古い原発を解体したり放射性廃棄物の再処理などのコストが予想に反し膨大なものであることを認めたとのことです。数年前の資エネ庁の試算の根拠はなんなのかというと、その試算の基になる資料は電力事業者から提出を受けたものであります。そして、部外秘を条件にした提出であったためオープンに出来ないと言うのです。これってどういうことなのでしょうね。
 こんな重大な事態があまり表に出てこないのもどういうことなのでしょう。くだらぬ秘書問題の証人喚問や参考人招致に時間を費やす国会って何なんでしょう。環境運動家や環境NPOも大騒ぎしていないようです。(まぁ、これは、今まで高レベル放射性廃棄物の処分コストなどを低く見積もっていたことを批判し続けてきたわけで、「何を今更」という事なのでしょうけど)
 環境には興味を持っているのですが、運動家とかというレベルとはほど遠い私などにとっては、この事実、自然エネルギー議員連盟でがんばっているあるJCメンバーから知らされて初めて「電事連も認めたのか・そして資エネ庁もか」と認識したのであります。相変わらず廃棄物処理の問題など大きな問題ではないと主張しているのかと思っていましたのに・・・。まったく、ここでも日本の政・官・財の癒着の構造が見えてきます。

 国際競争力を企業が持つためには、発電コストは安く試算(将来費用まで含めても)されるほうが有利です。電気製品が売れるためには電力料金は安い方がいいのです。環境のためのコストよりも、今の経済発展が有れば良いという価値観。将来コストを犯罪的に矮小化して問題を先送りする電力事業者や政府。
 今時、我が町に放射性廃棄物の処理施設や保管施設へなんて奇特な住民は居ないはずです。受入と引き替えに莫大な予算のもと、ひも付きの事業が必要であるはずです。

 発電コストを正確に把握することは、短期的には電力料金を高くし、国民・企業の負担を増やすことになりますが、そうすることでその他の自然エネルギー利用と原子力発電とが価格競争できることになるのです。日本人の多くは、太陽光や風力、地熱、バイオマス等々、自然エネルギーの利用はコスト高という情報を刷り込まれてしまっています。そもそも電気が安すぎるから無駄遣いをするのです。電気代が高くなれば、経済が沈滞する。だから、コストを先送りしてまで安い発電方法=原子力発電と喧伝してきたのです。そろそろ良いのではないでしょうか。先送りはやめましょう。私達の世代の便利快適は次代の物笑いの種になること請け合いです。今年の夏は、エアコンの設定温度を一度でも下げてみませんか?
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2002/4/4 原子力発電についての情報操作(1)
 アンケートでの情報操作という面に触れてみましたが、情報操作についてもう一つ。
 多くの先進諸国が、新規建設の中止や現有施設の休止・廃止を行う原子力発電については、以前(2000/11/28)触れましたが、日本政府は、「地球温暖化大綱」の中で二酸化炭素の削減目標を達成するためには原子力発電の利用が不可欠である(二酸化炭素削減目標達成のために2010年の発電量を2000年度の発電量より30%増やす必要がある)と述べています。今までの原発推進政策を踏襲するもので、21世紀(環境の世紀)に入っても、そして人為的ミスによる(東海村で)安全日本の神話を崩した臨海事故を経験しながら相変わらずエネルギー政策の根本を見直すことはしないようです。世界(先進国のほとんど)では、チェルノブイリやスリーマイル以降、原子力発電の安全性への危惧から計画の見直しをしたのですが・・・。
 そして、なんと恐ろしいことにその大綱の追い風を受けて原発推進側は一気に攻勢を強めようとしています。
 例えば、電源開発(宇和島出身者が多いらしいですが・・・)の中垣社長は、「建設中の大間原子力発電所(青森県)については、政府による政策的支援でカバーして欲しい」と記者会見で述べ、同原発へ政府の追加補助金を要求した(4/4付け愛媛新聞より)と言います。
 最近、確かに新エネルギー・自然エネルギー開発のための補助金(政府援助)が増え、それらのエネルギー研究・開発もやっと金になる(研究者が食える・企業が生業として取り組める)ものになり始めましたが、それはまだわずかでありまして、原子力に対する補助金(前出の大間原発は、60億円の建設補助を受けている)と比較すると未だわずかな額なのです。研究者は金になる研究を続け・企業は金になる(研究者が食える・企業が生業とする研究の動機付けとなる)事業に重点を置きます。西欧諸国で自然エネルギーへの移行が進んでいるのに日本であまりその面(商用発電設備として利用するための技術開発)の研究が進んでいないのは、エネルギー政策に基づくところの予算措置(お金)に原因があるのです。
 「日本には資源がないから」とかなんとか、原発を推進するために有利な情報はさまざまに発信されてきました。化石燃料のほとんどを輸入に依存する日本のこの原発推進の裏に、食糧安保を気にしない割にエネルギー安保を気にする国家施策があるのです。不思議なもう一つの原発推進の国家施策は次回にでも。(つづく)←これってけっこう多いのですが、なかなか続かない。一話完結が楽なのです。
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2002/3/28 えっ、アンケートのサンプリングが「?」
 各地で合併に関する住民アンケートが実施されています、新聞で各地の結果が報道されるたびに、ふむふむと楽しんで(不謹慎ながら)読んでいましたのに・・・・。
 愛媛新聞鬼北支局の池田正人記者が合併とアンケートという題でコラム(3/26付け取材最前線)を書いています。このコラムを読んで、私は驚きました、広見町・三間町では、なんと市町村合併の枠組み(どこと合併するか)について問うアンケートの対象が町内の世帯主であったということです。先にアンケートの怖さについて触れましたが、こういう客観化された数字というものは、とても恐ろしく社会(人の心)に影響を与えます。また、数の力は、多数意見に物事を決するというルール(多数決主義的民主主義)を採る場面でものをいいます。

 この多数決というのは、目的達成のための手段であるということは以前も触れ、近いうちにまた住民アンケートと行政の情報公開との関わりという題材で述べてみたいと思いますので、その部分は置いておいて。

 アンケートの結果は、事前に与える情報やアンケート自体に使う設問の文書・選択肢・回答方法等によっていくらかの操作が出来るというのが常識です。ですから、アンケートがどういう形でなされたかということを知って結果を分析しなければなりません。いかに自分に都合の良い結果であったとしても、それをせずしてアンケートの結果(数字)を信じてしまうこと、それは盲信につながり、自分の考えの間違った部分を修正する機会を失ってしまうことになるのです。
 しかし、今回の驚きは、それ以前の問題なのです。前々から報道されているとおり「合併は目先の利益にとらわれず次の世代のことを考えたビジョンを持って決定されるべきである、住民の意思を尊重して決断をしたい」と多くの首長が主張(シャレじゃないのですが)されていました。もっともなことであります。しかしながら、この住民の意思はイコール世帯主の意思で良しとしたアンケートを行い、その結果(数字)を一人歩きさせていいのだろうかという大きな驚きを感じたのです。池田記者は、先の多くの首長の考えと裏腹?に若者の声(次世代の声)が届いていないとし、回収率が5割と低い点にも触れています。確かに、住民あるいは有権者全員を対象としたアンケートはコストもかかり、コストに応じて結果の正しさが増していくかというとそうではないのですけれども、アンケート対象(標本)の選び方が偏ったものであると、いくら標本数が多くても結果は偏ったものとなるのは自明であります。池田記者は、回答者の職業や年齢などの内訳を考慮する事が必要であるとし、情報は入手するだけでなく、分析する事で初めて有効になる。・・・(中略)まちづくりの貴重な資料にしてほしい。と結論していますが、私は、このアンケート結果を合併パターンについて住民がどう考えているかという情報として、首長の決断理由にするべきではないと断じたいと思います。宇和島と北宇和郡との合併を選んだ人が多い三間町のアンケート結果も鬼北での合併を選んだ人が多い広見町のアンケートも、どちらも全くナンセンスなアンケートであると言いたい気持ちになります。ご回答になった住民の皆さんの意思は尊重し、回収率が低い(住民があまり興味を持っていない)このアンケートにお答えいただいた方々には敬意を表したいと思います、しかし、標本の選択から合併という問題に興味を喚起するための情報発信の失敗、そのあたりを十分認識して、あくまでも一部の意見としてこの数字を扱わなければならないと感じています。
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2002/3/27−2 アンケートという武器
 薬師谷渓谷の砂防ダム建設についてのアンケートがあったそうです。 このアンケートの対象(答えていただくべき方々)は、どういう方であるべきなのでしょう? ダムが建設されることによって災害の危難から免れるという情報を与えられた住民がなす意思表示が正しいのでしょうか?
  砂防ダムが無い現状と砂防ダムがないことによって将来起こりうる危難を住民に伝えるという場面を想定してみます。
 一方は、ダムを建設することによって利益を上げられる業者側のグループ。もう一方は、自然環境の価値をとても高く評価して、後の世代へ遺すべきものが自然環境であるというグループであるのが一般的です。当然、二つのグループの中間に位置して、自然環境に配慮しながらダムによって防災を実現しようと言うタイプの皆さんもいらっしゃいます。 
 ここで大切なのは、環境保全に配慮しない土木工事は、大非難を浴びますが、そんなことをおおっぴらに表明するタイプは居ないし、自然環境を守るためにその地域の住民の生命財産が被災の危機にあってもよいとするタイプもいないと言うことです。そして、経済的な利益を受け得るグループは、経営の観点から、ダムの必要性を立証することにコストを費やすと言うことです。そのグループに対峙するのが環境NPOだったりするのですが、NPOが成熟していない地域では、確実に情報の収集・発信という部分で前者に負けてしまうのです。確かに、環境保護活動が盛んな地域もあります、また、特定の政党や運動グループが支援と称して、自らの組織拡大の目的を隠して接近してくることもあります。しかしながら、多くの場合、資金力が無く生きるための仕事を続けながら、「ダムに頼らない治水による地域の安全確保の可能性」を立証したり、「環境保全が必要であるという」情報発信を続けるのはたいへんなことです。少なくとも企業から献金は受けられないのが通常です。
 現在のこの地域ではどうでしょう、環境保護について勉強されて、必要性を感じていらっしゃる方、実際に環境保護を実践されている方は多くいらっしゃるのでしょうが、どうも企業と対決するまで力を入れて活動の出来る団体や個人は無いように思えます。それでは、「工事をいかに環境に配慮したものにするか」、とか「工事計画そのものを見直し(中止も含めて)する」とか、その判断を下すために必要な情報はどこがどのように集めなければならないのでしょう。ここで役だって欲しいのが、環境保全を考える行政部局と各行政機関の立法を担う議会議員の皆さんです。古いタイプの政治家は、先の前者に組みすることで、抜群の集票力を確保していました。しかし、今後は、声小さき市民が平等に与えられる投票(選挙などて)という手段で、「利権と結びつかずとも戦える新しい政治家」を産む、そういう時代にできればと思います。市民が市民のために施策を決定できるそういう政治を実現できればと思います。特定の業者や業界のための政治ではなく、市民のための政治。アンケートという見かけ上民主主義的な手段は、怖い武器なのです。力ある者の情報操作が起こりうるということを肝に銘じて、結果を取り扱わなければなりません。合併とアンケートについて、愛媛新聞・鬼北支局池田さんがコラムを書かれています。(3/26付)ご興味のある方は、どうぞ。その点については、また後ほど。
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2002/3/27 自虐史観を刷り込もうとするマスコミ
 何でそんな嘘まで伝えるのだろう。ふとそう思った昨晩のニュースステーションでした。イギリス人の元兵士が、大戦中に日本の捕虜になって不当な扱いを受けたとして賠償請求を求める訴えを日本の裁判所に提起し、その要求が認められなかったという判決を報じた中で流された特集についてです。
 確かに、司法判断が常に正しいかというと確かにそれは違うのでしょう。誤謬性は否定しません。しかし、賠償請求を認めないと判断した根拠にはあまり触れず、老齢な英国元軍人の弱々しい姿を映すことによって、聴視者に感傷的な誤解を与え、同じ敗戦国のドイツと対比することによって、日本の戦後補償が充分に行われていないという印象を与えようとした作為があるのではないかと感じたのです。そもそも、ドイツは国家としての賠償は行っていないのであります。それは、確かに東西に分断された歴史があってという理由にもよるようですが、なんと交戦国との間に講和条約を結ばずに今に至っているのです。そんな中で行われるドイツの戦後補償は、ナチスの犯した罪に対してドイツは「政治的な責任」を負うとはするものの、「国家の罪」「集団の罪」を認めないのが歴代ドイツ政府の立場であります。ナチス=個人の犯罪として、「個人」の次元で処理をして、以下のような国家の立場を貫いているのです。『ナチ犯罪に、ドイツ国家は、「道徳上の責任」を決して負わないし、あくまでも個人の犯罪の集積であって、償いは、どこまでも「個人」に対してなされるべきである。ただし、ドイツ国家が「政治上の責任」を果たすために、財政負担をするという理屈である。』(青色部「我が子に伝える誇りある近代史」より引用)
 一方、日本はというと、サンフランシスコ講和条約で、連合国のほとんどが賠償請求権を放棄したことから、支払いは、フィリピン・インドネシア・ビルマ・南ベトナムの4カ国へ行い、国際条約上、国家としての日本はすべてを処理していると言えます。(韓国・中についての補償については、こちらをご覧下さい。)
 『日本とドイツは、償いの方式が違うのであり、日本は、国に対する賠償を基本とし、一方ドイツは、被害者個人への「補償」を柱にしているのである。』こういう部分について十分な知識がある方が少ないのが現実でありまして、テレビが日本は戦後補償を行わない酷い国というすり込みを行おうとする一部マスコミには不信感を持たずにいられません。そう言えば、産経新聞の企画部局の方から、励ましのお便りを頂いたのはつい一週間程前のことでした。テレビステーションは、テレ朝だったっけ?あまりに、直球だったでしょうか?
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2002/3/13 こんな職員いらない!
 今日の「うわじま」新聞に吉田高校が、同町を流れる国安川の里親になったと言う記事が出ていました。みなさん、ご存じの「アドプトプログラム」です。日本では、古くから自分家の前の道は掃除をしたり夏には打ち水をしたりという習慣がありました。それがいつのまにか、掃除どころかゴミさえも拾わない国民が増えたようで、困ったもんです。
 で、本題。ある地域の清掃事業への補助金のヒヤリングを受けていたときの話です。
私「そもそも、地域は地域住民が清掃するのが当然なのです、慰労のためのジュースが出ないからとか、軽食が出ないからと掃除をいやがるような地域には補助なんて必要ないのです。なにからなにまで、行政の内部に取り込む必要はないのです。アドプトプログラムってご存じですか?」とお尋ねしましたら、なんとご存じなかった。そんな不勉強な行政職員がいるわけです。
 「市長が先の市政モニターで行政改革という課題の一部として人事考課等について触れた」と報道されていましたが、人員整理が当たり前のように行われる民間と比較して、公務員の地位があまりに厚く守られているのは、どういう根拠によるものなのでしょう。
 ここしばらくマスコミを賑わす外務省の問題などを聞いて、「こんなことして首にならない会社って無いよなー」と、民間との感覚の違いを巷で話題にすることも多いと思います。
 宇和島市も、民間の感覚で、適材適所、優秀な人材に相応な評価をするべきです。勤務年数が増えれば、自動的に給料が上がっていくというくだらぬ人事評価は今時ナンセンスかと思います。石原都知事が、都職員のワークシェアリングについてたずねた記者に対して、答えた文句が痛快でした。
 宇和島でも、リストラの大波を起こしたいと思うのは、私だけではないでしょう。市民の大半が職員の削減を願っているはずです。「量より質」を職員数の上でも、実現して欲しいです。戻る

2002/2/22 補助金検討委員会を終えて(1)
 もう、ずっと前のことのようですが、補助金についての委員会答申を終えて一言。
 補助金の支出は、その決定権を持つ者の政策を具体化する大切な手段なのです。なのに、三百近い補助金の説明を聞いても、宇和島の将来を明確にイメージできるものはほとんどありませんでした。これは、昨年のこの時期(予算の市長査定の時期)が、当選直後であったこと、その上に悪夢の「えひめ丸事故」があったことから、それに関わる作業で忙殺され、石橋新市長がその新しさを政策に反映する時間が足りなかったこともあるのでしょう。しかし、宇和島市(この地域)は、過去から連続して存在しているわけであって、自治の本質(国家からの起源によるもの「制度的な保証」か、自然権的な起源によるもの「固有権」なのか)を議論しなくとも、地域を作るのは地域に住む住民であり、その住民の構成が大きく変わったりするはずもなく、宇和島イズムというのは、綿々と続いてきているはずのものなのです。市政の方向性を議論する市会議員の構成も、過去に公職選挙法違反で公民権停止の処分を受けた方々が離れた時期がある程度で、一度に首がすげ変わってしまうということはなかったのです。ですから、これは私の持論であるのですが、地域の有り様は、市長であったり国会議員であったり、県会議員・市会議員らを選択する(選挙で)市民の責任によるものなのです。情報公開や住民参加が広く進んでいくことによって、市民の責任が重くなったと言われる昨今ですが、今までもその責任は負っていたのでして、その責任の重さに気がついて居ない人が多かっただけなのです。それは、まるで、高度成長の波に乗ってどんどんと売り上げを伸ばしている間は、会社の行く末など心配しないでも働いて居られたのに、今は社員すべてが問題意識を持って、厳しい環境を生き残るための責任を負わなければどんな大企業もダメになってしまう状態と似ているのでしょうが・・・。(もっとも、そんな時代であっても、社員の意識の差は企業力の差となって市場は評価していたのですけれど)財政状況が逼迫して、ご近所さんから「宇和島と一緒になったら苦労するねーー」と悪い評判がたつほどになって、市政を批判しても、そりゃーー始まらないのです。だって、その政策を良しとして、だんだんと冷めていくぬるめのお風呂で、ウトウトとしていたのは私たち自身なんですからね。風邪を引いてしまいます。
 個々の補助金交付について、その団体の活動や補助金の使われ方を良しとした中でも、補助金の減額もしくは廃止を答申したものがあります。その団体から「ブーイング」が出ているという話も聞きます。でも、既得権的に毎年続けて支出される補助については減額や廃止をしてはという答申の趣旨について、説明を差し上げるとほとんどの方がご納得頂いています。外見上、意義のない補助金の支出などはありません。すべてについて、なんらかの必要性があり、その支出が決定された経緯を持つものばかりです。しかし、時を経て、毎年定額の補助が続いてくると、年度によっては、予算消化的な事業・運営に陥いってしまう可能性があることはだれも否定できないと思います。
 補助金の支出については、事業費補助を原則として、事業案ありき、前年までの事業決算・総括ありきのメリハリのある支出が望ましいのです。運営費の補助は、ある程度の年限を区切って、サンセット方式をとるなどして団体自らに自主運営を目指した努力を求めるべきなのです。社会が必要とする団体・活動であれば、補助金をあてにしなくて、社会が十分なサポートを授与してくれるはずです。
 各自・各団体が、まちづくりの当事者として、地域を構成するメンバーとして、限られた資金をよりよい事業計画で競争して分け合えば良いと思うのです。苦労する団体同士、協力をしあって事業成果を上げていくことも可能でしょう。自分たちの団体だけが特別に補助金を毎年受けられるという考えは捨てていきましょう。市が得られる財源は限られています、しかし、各種団体が持っているさまざまな資源は無限の可能性を持っています。既得権的な補助金はお断わりになって、誰もが、「OK」を出してくれるような、ダイナミックなプランを組んでみてはいかがでしょう。新しいプランには、「新規補助で行きましょう!」が、補助金検討委員会のスタートの市長見解でした。(ただし、「すべてをゼロベースで見直す」が条件でありましたが)
 市長や議員さんを知っていれば、補助金がもらえるという時代は終わりにしましょう。市民自らが、自分たちの税金の使われ方を、理解して納得して「OK」を出す、そういうまちづくりに取り組んでみませんか?
 まちの姿は、その住民の意思そのものであります。選挙に限らず、何事についても積極的な意思表示が必要かと思います。

 ご無沙汰のお詫び
  補助金検討委員会で忙しかったのもあるのですが、それ以降も、「我が子に伝える誇りある近代史」の完成に時間をとられて失礼を続けています。途中稿はアップロードいたしております。ご興味のある方はこちらからどうぞ。なんと、このページ、大方2ヶ月ぶりのアップロードです。 戻る