2001年の講釈
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目次

2001/12/28 地方の公共事業のムダを廃す
2001/12/21 住民投票の位置づけ
2001/12/18 自分たちのことは自分たちがやる地方自治
2001/12/16 先進地視察って!
2001/12/12 地方分権の受容器としての自治体規模
2001/12/6 補助金等検討委員会第10回会議を終えて
2001/12/4 政府のあわてた対応/狂牛病について
2001/12/3 ダイオキシンと狂牛病
2001/11/7 市町村合併なら、道州制を検討しよう(1)
2001/11/5 宇和島市補助金等検討委員会開催される
2001/10/7
 広域圏・合併を視野に入れた施設整備を
2001/9/26 日本のかたち「最後に」/宇和島新聞9/26掲載
2001/9/19 市町村合併という将来ビジョン/宇和島新聞9/19掲載
2001/9/12 近頃の物の値段2(水を例にして)宇和島新聞9/12掲載
2001/9/5 近頃の物の値段(水を例にして)/宇和島新聞9/5掲載
2001/8/29 蘇れ頑固オヤジ/宇和島新聞8/29掲載
2001/8/22 「公」と「私」/宇和島新聞8/22掲載
2001/8/15 観光まちづくり?/宇和島新聞8/15掲載
2001/8/8 どうする市立病院/宇和島新聞8/8掲載
2001/8/1−2 まちの家計簿作り/宇和島JCニュースへの寄稿文を素に
2001/8/1 まちの家計簿作り(下)宇和島新聞8/1掲載
2001/7/25 まちの家計簿作り(上)宇和島新聞7/25掲載
2001/6/22 市立病院についての市長答弁を題材として
2001/6/11 責任無能力による刑事不可罰について/四国JCmlへの投稿をもとにして
2001/6/6 市民参加の会議体
2001/5/28 やっと、地方空港の新規建設を凍結
2001/5/18 市立病院の機能特化について/梶原さんからのご意見に対してのお答えを中心として
2001/5/8
 食の基盤「農業」を守れ「身土不二」
2001/5/1
 家電リサイクル法の昨今/デポジットが良いよ!
2001/4/24 市立病院の機能特化について/医療機関についての問題点を中心として
2001/4/19 市立病院の建て替えの前に
2001/4/ 9 財政再建・一律カットかゼロベースか?
2001/3/19 ゴミ処理のコストは誰が(その1)
2001/3/6 商工業者の目から見た市町村合併/北政会講演用レジメ
2001/3/5 市場原理の中で環境問題を解決する為に
2001/2/28 地方分権ではなく主権は地域にある
2001/2/25 今どきの情報公開
2001/2/20 情報公開法で社会はどう変わるか?
2001/2/7 ネット上の世論(1/21読売新聞の記事「IT革命の中国」電子民主より)
2001/2/5 地域づくりにみんなの力を/ネット会議(うわじまづくり会議)の立ち上げ!?
2001/2/1 「21世紀『環の国』づくり会議」
2001/1/29 新しい民主主義実現の形宇和島でも
2001/1/24 健全な市民組織(オンブズマン?)立ち上げ
2001/1/23 ゴミの減量は命がけ
2001/1/12 IT時代の民活


2001/12/28 地方の公共事業のムダを廃す 
地方交付税の減額・地方の高速道路整備計画の見直しだとか、都市と地方が国のお金を引っ張り合いをしていく場面が、今からますます増えていくのだろうと思います。当然、国税である所得税の一部を地方税の個人住民税へ移す(地方分権推進委員会の最終報告)などの地方財政自立の道を確保することが考えられています。けれども、国税が減る政策について財務省が反対するだろうことはこれまた当然に予想されることです。旧大蔵族(財務族というのはまだ無いのでしょうから)は、省の権限が縮小されることに黙っているとは思えません。そもそも、国と地方の財政危機の現況は、明確な国家像を打ち出すよりも、自分たちの言いなりで動く地域政治力のある政治家を排出する地域へ、自分たちが自由になる(それは思い上がりで、預かっているだけであるのに)お金を配分して悦に入る官僚に加えて、国から自分の出身地域へ公共事業を採ってくることに躍起になる議員を選んでしまう集票のシステム(公共事業は票になる)があったことにあります。土木大国日本といわれるゆえんでもあります。事実、土木予算はヨーロッパ全体や米国全体に匹敵するほどの額が計上されていた(極めて近い過去形)という評価もあります。一方地方はと言えば、地方の負担が*割ですむ事業(国の推進する事業で国からの補助がある)で、金太郎飴的な地方が出来てしまいました。そして、地方はその起債の償還(借金の返済)に汲々としているのが現状であります。右肩上がりに経済が拡大している間は借金返済は楽でも、景気が退潮基調となると明らかに地方財政を圧迫していくのです。それ以上に、採算性を考えず単に公共事業を引っ張ってくることを第一に考えてきたことで地方財政は火の車状態です。

  国が地方を支えるだけの資金に事欠くようになると、国と地方が財源を巡って争うことになり、都市と地方が(都市という地方とその他の地方の間で)資金の取り合いをすることになります。そこで、無駄な事業が地方で行われている事を都市という地方は批判をすることになり、社会資本整備など都市との間で劣っている地方は、地方への資金投入を求め続けるということになっています。地方に住む私としては、一言申し上げなければならないでしょう(笑)。都市部の社会資本整備は、民間の力を利用して整備を進めればよいのだと思います。思うに、地方で不要な公共事業が多く行われている理由は、社会資本整備の名を借りた選挙対策であったり土木業者の厚遇の結果であるのです。そして、我田引水的に国のカネをとって来るという感覚がスタート地点であるからではないでしょうか。道路・空港・港湾・河川整備(ダムなども)基幹的な事業は、すべて国がやってきた結果、一県一空港などと言うまぬけな施策がまかり通ってきた(過去形です)のです。「自分たちが納めた税金の使い方を地方で決められる」としたら、採算に関する検討もよりシビアになるはずです、まず不要なものが駆逐されていくという健全化がはかられると思います。限られた予算の中で、道路なのかダムなのか、福祉なのか教育なのか、環境なのか、そう言う選択を地方ができる仕組みに変えれば、不要なものは減って行くでしょう。戻る

2001/12/21 住民投票の位置づけ 
 お隣の大洲市では、山鳥坂ダム反対派の市民グループが計画の賛否を問う住民投票を求める要望書を有権者の53%の署名とともに提出しましたが、否決されたと報道がありました。市長が否定的な意見を着けて市議会に提案し、担当する市議会特別委員会の事前審査でも否決されていましたので予想されていたことですが、この住民投票というのはどう評価されるべきなのかと疑問を感じましたので、今回はこの点について意見してみます。(生意気に)

 今年に入ってからでも20件を超す自治体で住民投票の実施を求める動きがあったと言いますが、実施されたのは新潟県刈羽村(原発プルサーマル計画)、埼玉県上尾市(さいたま市との合併)、三重県海山町(原発誘致の是非)の3件のみでして、ほとんどが議会に拒まれて住民投票条例の制定に至っていません。で、その否決する理由は、「住民投票になじまない」だとか、「住民投票に法的根拠がない」ということとされることが多いようです。でも、憲法を見てみると、憲法の改正も国民投票による承認を要すると規定されていますし、ある公共団体にのみ適用される特別法の制定について、そこの住民の投票による同意が必要である(憲法95条)とされているのです。確かに、憲法改正について、その改正手続き(特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票の詳細)について規定した法律は出来上がっていません。しかし、これは立法の不作為でありまして、最高法規たる憲法の改正の最終承認は国民の投票にゆだねられるということは憲法(96条)で明確に示されているのです。それは国民主権という憲法原理によるものです。

 一方、この国の地方自治の制度はどうなっているかというと、こちらも住民投票(選挙)によって選ばれた代表(首長)並びに代議員(議会議員)による間接民主制で、彼らの責任と判断で行政が営まれるという仕組みであります。そして、住民投票に法的根拠が無いのも確かであります。しかし、私はこれも先に述べた(憲法改正の国民承認の投票制度を規定した法の未整備と同様)立法の不作為と判断するのが正しい解釈なのかと思います。そもそも、首長も議員も住民の投票による相対的多数の得票をその存在の拠り所としています。ということは、間接民主制は、「わが国は、憲法を頂点とした法制度のもと、地方自治制度の基本として住民から選挙により選ばれた長と議会が、住民を代表し、それぞれの責任と判断で地方行政を営む仕組みとなっております。住民投票を含む直接民主制度は、それを補完する一つの手段」(大洲市長が山鳥坂ダム問題を住民投票による判断に委ねることはふさわしくないと考える理由の一番目に上げているもの)として存在するというよりは、最も民主主義的な主権行使の方法である直接民主制を間接民主制で代用させていると位置づけして、本来的には、すべての案件について十分な情報公開と事前の協議の上に直接民意を問うことが民主的選択をするための最適な構造であるという考え方が自然であると考えます。直接民主制を達成するシステムの確立ができていないが故に、代議制という間接民主制に制度的な委任しているものと考えなければならないということです。そもそも住民の政治的意見と「代表・代議員」の意見は事実上一致しなければならないのです。住民が自ら権力行使していると同視しうる政治制度として、治者と被治者の自同性の目的を達成する代表概念は、社会学的代表(半代表)の概念が最も妥当と考えられます。それ故、署名や住民投票などに現れた多数意思を無視することは、自分たちが依って立つところの選挙制度自体まで否定することに繋がると考えます。
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2001/12/18 自分たちのことは自分たちがやる地方自治 
地方分権が進んでいくということは、自分たちの「まち」は自分たちが出したお金(料金として支払ったり・税金として支払ったり)で経営していかなければならないというという一面があります。

 なんだかぴんとこない方もいらっしゃるかもしれませんが、それは日本の税制の中では仕方ないのかもしれません。自分たちの給料明細をみれば、住民税だとか所得税という形で自分たちがどのくらいの税金を支払っているかわかります。また、買い物のレシートを見てもどれだけの税金を支払っているか知ることができます。でも、それら(税金)の殆どが、いったん国に入って、国から県や市町村へ、あるいは国から県を通って市町村へと回り道をして地方にお金が回ってきたりサービスが提供されたりする仕組みであるために、なかなか実感が湧かないのが現実です。そこで、納税者は、「自分が出した税金がどういう形で自分たちの地域で使われているか」ということを意識する(これが本来の納税者意識では!)よりも、「いかに国や県(お上)からお金を引っ張ってくるか」という意識が強く、政策(地域の未来像を描きそれを実現するために施策を選択すること)よりも、「とにかくお金を引っ張ってくる」ことを優先させることさえあるのです(多数の住民の選挙における投票の判断基準が中央からいかにお金を引っ張ってくるかを評価するようです)。

 確かに、中央集権型の社会構造の中で、「国土の均衡ある発展」を目指した時代は、それは効率の良いシステムでありました。しかし、投資効率の検討よりも、地方同士の引っ張り合い(例えば、力のある国会議員が出ている地方へ優先的に資本投下が行われるなど)で資本投下の先が決定していました。また、全国で似たような事業(お上が描いたとおりの地域事業案)が、地方交付税や国庫補助金をもとに行われ、「地方がアイデンティティーを失ってしまう、個性のない地域づくり」が、危機的な財政状況の中で顕在化した「自立できない地方がほとんど」という今の状況を作ったと言えはしないかと思っています。

 民主主義の先輩である、アメリカに目をやってみると、市町村は州から受け取ることはあっても、国から助成金や補助金のたぐいを受け取ることはないといいます。当然、地方同士の間には豊かな地域と貧しい地域があり、税収に差がつき当然行政サービスにも差がついてきます。とすると、ある人は居住地を他へ求めるということもありますが、まず、住民は自分たちのまちを自分たちの出したお金でやりくりしていかなければならないという自治の意識が醸成されています。先に拙文【2001/12/6 補助金等検討委員会第10回会議を終えて】で触れたように、まさに、地方分権の社会というのは、「自己決定ができる代わりに自己責任を伴う社会」であるといえます。そして、その自己責任の一つが「自分たちのことは自分たちでやる」「みんなのことはみんなで力を出し合ってやる」という、いたずらに行政サービスを求めずに、行政から外部化できるものはどんどん外に出して、NPO的にサービスを提供できる市民がどんどんと増えなければ、日本の地方自治というものは生まれ変われないと思います。
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2001/12/16 先進地視察って! 
14日の市議会で、「歴史と伝統文化のまちづくり」旧町名復活事業について、薬師神教育次長が「先進地視察を行って2003年に標識類設置を目指す」という答弁をされました。まちにはそれぞれに歴史があり、通りにも歴史がある。「旧町名を生かした」まちづくり→看板を設置したから終わりというありがちなプランでないならば、そんな「まちの歴史を利用して、まちづくりを展開しよう」という計画に反対するものではありません。宇和島観光協会が作成された、旧町名を配したマップもとても見ていて楽しいものです。でも、こんなことに先進地視察が必要なのでしょうか。これは、全く「いけませんのいけません「いけませんのいけませんと感じます。どこかのまちが旧町名を生かしたまちづくりを行っていると判った上で、そのいくつかの町を訪問してどうなるというのでしょう?なんか新しいことをやるとなると、すぐに先進地視察なんてことになります。先進事例を参考にすること、それは轍を踏まないという意味でも、無駄な労力を費やさずにすむことにもなり、それはとても良いことだと思います。(その分、企画に個性や独創性を失ってしまいがちとなります。その点については、注意!ですが、まぁ、それはそれとして)

 しかし、どう考えてもこんなことで先進地視察が行われること、「どんな規模で」行われるか知りませんが、明らかに自分たちの情報収集力のなさを示すものとしか思えません。目当てのまちから情報を得ようとすれば、それはたやすく得られるはずであります。だって、そのまちはその旧町名や通りの名でのまちづくりを「売り」にしているのですから、当然「売り」の情報はPR用の情報として簡単に入手させてくれるはずです。各地と情報交流を進めて、無駄な小旅行を止めましょう。画像も映像も現在のネット環境で、どんなにでも入手可能です。実際に視察に行かなければ得られない情報というのはどんな情報なのでしょう?

 また、全国に広がる行政以外の組織(建築士会・商工会議所・JCなどなど)を利用するという手もあります。そんな組織の力を借りられれば簡単に情報は集められるはずです。こちらに熱意が有れば、情報は集められます。是非に再考をお願いしたいと思った次第。
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2001/12/12 地方分権の受容器としての自治体規模
 宇和島の合併検討委員会の答申が、県が示した基本パターンである「北宇和郡と宇和島で合併」というものとなったようです。(友人でuwajima_dmlうわじまづくり会議のメンバーでもある藤井さんが委員に加わってらした)さっそく、そのパターンを想定した圏域の各首長の集まる話し合いが持たれたようです。

 「まず合併ありきではない、そして理念のない合併はダメ」という、私のいままでの主張が変わった訳ではないのですが、国家財政の危機的な状態とその地方への
しわ寄せ(例えば、本四公団の負債を地方に負わせる等)を考えると、「地方が大きくなって、力を持っていかないといかん」と最近思うようになってきました。当然、理念は必要でありますが、明らかに今のままの小さな地方自治体のままでは国や県から分権を受ける器としてあまりに非力で非効率であります。そして、自治体規模(政令指定都市や中核市・特例市のように)に応じて、一定の規模用件を備えた自治体がある権限を委譲されるという形は変わることはないと思います。また、仮に、法制度面で規模要件がはずされることがあっても(無いと思いますが、なし崩し的に要件がゆるんでいくことは考えられる)、器にある程度の大きさがなければ、現実にその権限を地方自治の中で有効に機能させることは極めて困難ではないかとしか考えられません。つまり、国や県などから権限の委譲受け、その行政権限の執行が効率的(財政的尺度でもって)であるためにはある規模(人口などの)以上の自治体でなければならないことはたやすく想像できるということです。特に事務管理部門の機能は、対象とする(そのカバーするエリアの)地域規模の大きさが効率と強く相関を持つし、専門的な職員や部局の配置という点を考えても、大きい自治体ほど受容できる幅が広がるのであります。

 与えられた条件の中でもっとも良い選択をしなければならないという今であるはずです、チャンスを生かすも殺すも、私たち地域住民の意識に依るものと思われます。地方分権(私としては、本来地方にあった権限が国や県から戻ってくるというイメージが強いのですが・・・)の受容器として自治体規模を考えてみてはいかがでしょう。その目安(法的な**市をとり得るための要件)が10万人という人口規模であるとも考えられます。住民間の話し合いをすすめ、より、多くの権限が手に入るだろう規模の地方をイメージするのがよいと思います。
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2001/12/6 補助金等検討委員会第10回会議を終えて
 まだまだ、担当課からのヒヤリングの半分も終わっていない、議論百出の補助金検討委員会です。しかし、「なにもかも行政任せではいけない、自分たちでできることは自分たちで、行政と私たちの役割分担を考えよう!システムの変革を!」なんて言っている割には、なんとも情けない感覚を持っている自分に気づかされることがあります。もっとも、大きくとらえると税の負担感(支払っている行政コスト)と行政サービスのバランスがとれていないと感じている市民の感覚と言ってしまえばそれまでなのかもしれませんが・・・。

確かに、実際に民間の会社で経営に近いところの仕事をしていて、この検討委員会の中でも、「民間からの登用」ということで、斬新な(時に突飛な)、しかし、多くが一般の市民の感覚に近い意見であろうという自信を持って意見して居るつもりでおりますが、「自分のことは自分で、でもみんなのことは、当然にお上(お役所)がやってくれるもの」という感覚を持ってしまって、「できるだけお上がやってくれる方が良い」なんて思っている自分に気づくことがあるのです。ひょっとすると、私たちの心の根っこの部分に、なんでもかんでも「これは公のつとめである」と考えてしまう潜在意識があるのではないかと思います。例えば、年をとった親の世話は子や孫や親族がするのが当然であるはずなのに、自分の親の面倒でさえ、他人様まで含めたみんなのお金を集めて(税金や保険料で)まかなっているのが現実なのです。

確かに、「みんなのことはみんなで力を出し合ってみんなでやれば良い」のは確かです。医療保険など、相互扶助で充実した診療環境ができあがっているのも確かです。昨日までばりばり働いていた人が急に働けなくなっても、安心して医療サービスが受けられる、確かに安心のシステム(どっかで聞いたことありそうな)が準備されています。しかし、医療保険の自己負担率の見直しや、ゴミ処理の有料化など、自己責任部分の拡大は、その原因が直接的には(高齢化社会の到来などによる)医療保険制度の財政的危機やゴミ処理費用の増大などにあるとしても、今まで公が無償で提供してきたサービスの中にも、利用者が応分の料金を支払う等、その制度の恩恵を受けるものに新たな負担を求めたりより多くの負担を求めるということが増えてきた時代です。

まさに、市長(県知事とか州知事?)が地域の施策を練るのに、「これこれの施策を実現したい、ついては税金の負担(その他の支出も含めて)を増やしていただきたい」と言った場合に、住民が「NO!(こんな事には税金は払えない)」といえば、その施策は実現しないわけであります。「YES!(そのサービスを受けるために税金を支払って良いですよ)」と言えば、その施策は実現するのであります。
つまり市民が自分の財布と相談して、自らがどういう判断を下すかということにつきるわけです。しかし、とても大切な施策であると住民も思っているのだけど、これ以上税金を払うのはいやという場合もあるはずで、多くの場合が「もうこれ以上払いたくない」であるでしょう。また、地域的な問題から、(これは合併後の市の姿を描く上にも絡んでくるのですが)同じ財布(市の財政とか)を持つ地方の中で、「この地域のためにはとても大事な施策であるが、その他の地域にとってはあまり大事で無いという、地域間のギャップが発生したときにどうするかという問題にも繋がってきます。

そうした場合、私たちがどういう判断を下さなければならないかというと、何か他のサービスを我慢する、つまり優先順位を付けて下位にあるものを我慢するという覚悟が必要であります。そして、自治体任せにしないで、「自分たちのことは自分たちでやろう」という、NPO的な考え方で地域社会を考え直さなければならない(コストのかからない行政システムを目指すべき)と思います。

さまざまに補助を受けている団体や事業があります、中にはよくこんな少額の補助でしかないのに立派に事業をされているものだと関心をする団体や運動もあります。しかし、毎年これこれの補助がいただけるからといって(既得権的に)何の工夫もしないで、会議費と称して自分たちの飲み食いに流用していたり、研修費と称して慰安旅行に使われているようなものもまたいくらかあるようです。担当される課の中でも「こんな使い方はどうか?」と疑問に思っているものがあるようです。具体的に基本的な見直しのルールができつつあり、答申を受けていただく石橋市長の英断によっては14年度予算に具体化ができるものもあると思います。問題と感ずる補助金の仕向を極力排除したものにできれば、新たな取り組みやこれは大切という施策に対して予算を回せるメリハリのある税金の使い方に変えられるのではないかとがんばっております。皆様のご意見をお待ちしております。こちらまでどうぞ。
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2001/12/4 政府のあわてた対応/狂牛病について
 なんともはや、まさか私のページを見ているわけでもないでしょうに、高齢の乳牛を、食用としないという発言を農相がしたそうです。

「武部勤農相は四日の閣議後の記者会見で狂牛病問題に触れ、「高齢となった乳牛は牛乳を取れなくなった時点で全頭検査する方向で検討している。食用に流通させないことが前提だ」と語り、検査体制をさらに強化する一方、高齢の乳牛を食用としない考えを示した。国内で狂牛病感染が確認された三頭が、いずれも高齢の乳牛だったことを受けた判断だ。国内で狂牛病感染が確認されたのは、いずれも一九九六年春に生まれた高齢の乳牛ばかりで、消費者団体などから食肉としての流通を制限する声が上がっていることに配慮する。

 この検査は厚生労働省が十月中旬から実施している食肉処理場での全頭検査とは別に、全国の家畜保健衛生所が実施することを含めて検討を進めている。ただ対象となる乳牛の数が多いため、具体的な時期や方法は今後詰める。」
共同通信社/狂牛病関連ページより全文転載

とのことです、明らかに欧州の感染率を上回りそうな危険を予知してこういう発表に至ったと思われます。当然、乳牛飼育農家からは猛反発が起こっています。
「だって、売り上げが減ってしまうのですもの。」しかし、待って下さい、ここでも人の命よりも自分のお金が大切だという経済第一主義が見え隠れしていますよね!(あっ、隠れてないですかね?)狂牛病蔓延の原因は、本来共食いなどしないだろう牛に共食いをさせて、儲けを多くしようとした人間へのしっぺ返しなのです。またもや、自然は私たちに警鐘を鳴らしてくれています。安全第一、環境第一の考え方を経済に取り込みましょう。今からの経済拡大は、永続可能な地球環境を取り戻すことを第一として、雇用を創造するにしても公共工事をやるにしても、すべての生物種にとってよりよい方法を練って行くべきです。地球全体は、すべてが繋がっています、生物種同士はもとより、水も空気も、気象でさえもすべてが繋がっています。そして、地球の新入りである人間はその繋がりを自分たちの便利快適のために断ち切って、アンバランスをつくり、地球全体に大きな環境変化を生んでいます。そして、このままでは他の生物種と比べて人類がとても短い期間でこの地球から消えてしまいそうだということを科学者のほとんどが認識(主張するかどうかは別問題でして・・・。「だって、霞食って生きられないのですもの、大きい車も乗りたいしーーっ!」)をしています。自らが滅んでしまうのは勝手だとしても、何億年も環境と調和して生き続けている他の生物種を道連れにすることは許されないと思います。
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2001/12/3 ダイオキシンと狂牛病  
 巷では、狂牛病が大騒ぎで、友人の焼き肉屋さんもたいへん困っているようです。しかし、国内で初めて狂牛病に感染した牛が確認されたのが、9月で(千葉県の牛)。その後、検査態勢は整ったのでしょうけど、整ったことの証明?にもなるように、11月21日には北海道で2頭目の感染牛が見つかって、11月30日には群馬県宮城村の乳用牛の廃牛として出荷された牛が感染していることが発表されました。なんと、この乳牛(感染牛)は仕事柄?これまでに3頭を出産しており、3頭とも当然経済原理に乗って前橋市家畜市場へ出荷されているとのことです。これで、全頭検査が始まって以来、11月30日までに約12万5000頭の牛が検査され、このうち2頭がクロと診断されたということになるそうです。約6万頭に1頭の計算になるわけですが、欧州と同じ月齢30カ月以上の牛だけでみると、ほぼ3万頭に1頭と言う同じペースで発見されていると言われています。すなわち、全頭検査以前には、市場にどんどんと3万頭に1頭の割合で出荷されていたことが統計上推定されると言う怖いデータなのですが、それ以前と以後と、何が変わったのでしょう。この汚染は、直接口に入れる食べ物の汚染ということなのです。そして、汚染が判明してから国民が大騒ぎを初めて、肉の売れ行きが落ちてたいへんだと言っているのです。でも、牛肉が売れないことよりも、健康を害する可能性のあるものが検査もされずに市場に出荷されていたということ、そして欧州から日本の牛の危険性が指摘されても、安全性を証明することよりも、その指摘に対する抗議に力を入れることが狂牛病に対する対策であったのです。

安全性の立証と危険性の立証、どちらを優先させるべきでしょう。安全性が立証されていないものは安全と考えない方が良いと思うのです。

それ以上に恐ろしい感覚は、危険性がオープンになると経済性を損なうからと、海外では科学的に立証され、危険物質と分類されるものでも、その何倍もの基準値(ある時期は、二桁違う基準値であることも)でしか規制しないものもあるのです。この情報化の世界で、けして情報化に立ち後れているとまで言えないこの国にあって、以前、某久米宏氏の番組で農作物(植物)のダイオキシン汚染が報道され、農業者が抗議するという事件もありましたが、「安全なものを生産し、例えば土壌の汚染もチェックされ、出荷される作物の汚染もチェックしているのだから安心」という主張ができるのであれば問題ないのに、報道上の表現やデータの中身を批判することに力を入れている姿勢は、まさに日本の今まで犯してきた過ちをまた繰り返すのだろうと思ってしまいました。欧州の土壌(農地・牧草地)のダイオキシンの規制値を日本の農地に当てはめると耕作不適(耕作禁止)となる農地があるとは科学者一般に言われていることであります。

安全性の確保というものに、もっとコストをかける、そういう意識、「安い物がよいのではなく、安全なものがよいのだ」という意識に変えてもらわなければなりません。

緊縮財政が叫ばれている昨今ですが、声高に景気対策は語られるのに、あまり景気刺激にならないダイオキシン対策の予算はあまり問題にされていないのです。来年の十二月には基準(欧州並に低くなった)に達しない焼却施設は運転できなくなり、その基準値を達成できない全国の二百カ所程度の施設は、改修が必要なわけです。しかし、この日本の基準値というのは、欧州のように即閉鎖と規定されたものではなく、あくまでも目標値とされているはずです。

財政当局は、このダイオキシン対策にだけ予算を十分付けるということはできないと言っているそうで、もし、補正でこの予算を増やすと、当初予算ではその分を減らすという話もしているとのことです。このあたりの、国民の安全を確保するための施策については予算面でも優先すべきではないかと思います。予算にはメリハリをつけて、全省庁横並びでなんとか、というお手盛り主義をやめて必要なところに予算をつけるという自然な姿勢が欲しいと思います。

ダイオキシンなどの危険度(今回は狂牛病が問題となっているわけですが)について、情報操作することを考えるより、情報を十分開示して、政策的なメリハリに国民の合意を得ることが必要ではないかと思っています。戻る

2001/11/7 市町村合併なら、道州制を検討しよう(1)
 「道州制」というと、全く目新しくない言葉なのですが、市町村合併と同時に考えると面白いことに気づきます。それは、1957年当時の「地方制」だとか1969〜70年にかけて出てきた「道州制」というのは、もっぱら都府県の改革を主眼に置いて、府や県を廃止して州をつくり、行政を広域化して、経済的な合理化を目指したものであったそうです。ところが、90年頃から出てきた(例えば、日本青年会議所の連邦制構想、8つの州と400〜500の藩)道州制は、その一つ下のより身近な市町村に権限を移し、それをたばねて州をつくるという議論になりました。ちょうど、今の合併の理論、権限の地方への移譲とその受容器としての地域の力量アップを図ろうという理論になるのです。ここで、私は二つの問題提起をしています。

1.行政組織のリストラ(本来の意味よりは人員削減や経費削減という俗に使われている概念に近い)は目的ではなく手段である。権限委譲に耐え得るだけの地方組織を準備しなければならないと言うこと。

2.「身近な市町村」という組織と、効率化し「地域主権の主体としての市町村行政組織」というどちらも市町村が失ってはならない地域行政のあり方のお話であります。
この話題にしばらくふれていきたいと思います。宇和島青年会議所のまちづくり委員会が、11月の下旬に北宇和郡と宇和島市の広域合併の検討を主題とした討論会を準備しております。また、改めてこの場でもご案内いたしますが、合併をもうすこし身近に、ちょっとだけ差し迫った問題として考える機会としてみたいと思います。
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2001/11/5 宇和島市補助金等検討委員会開催される  
 第1回委員会が開催されました。委員長・副委員長の人事案件と平成9年と平成12年の取り組み(宇和島市の)について説明を受け、今後の検討方針について話し合う。5時ぐらいまでにはという話でしたが、5時をすぎても意見百出。メンバーは「大窪市議・薬師神総務課長・松田企画課長補佐・本城出納係長・民間より杉本さん(三和産業)と私」という布陣です。どなたも、なかなかの強者で、答申までの課程で補助金を削られそうな各種団体組織からかかってくるであろう圧力の矢面に立つという役割を進んで受けそうな面々ばかりのように感じました。頼もしい限りです。スタートの委員会ということで、石橋市長もご挨拶においでいただきました。ざっくばらんにご挨拶いただきましたが、ことがことだけに、答申を受ける「市長」の判断というよりは、市民の一人として疑問を感じるような補助金を削っていく、あるいは増額していく緒(過去の2回は市役所内部のメンバーによる委員会設置であったとのことですから)となる答申を作れたらと思います。
 具体的には、補助金等の所管部署からのヒヤリングを受け、その補助金の使われ方をチェックしたり、その運営団体の状況を把握し、その効果の評価をしながら、答申を練るわけであります。
 一つの目標として、平成15年の補助金の内、国や県のきまりごとで支出する補助金・負担金を除いて、すべての案件についてゼロベースで検討ができるようなシステム作りを目指してはどうかと考えています。
(1)補助金申請は、既得権的に継続した支出を避け、より効率的な時流にあった新たな事業・団体への補助が予算的制約をなるべく受けずに検討できるように、減額についてダイナミックな見直しができるような「審査委員会」の設置を検討できればと思います。
(2)審査は、
 決算書類とともに補助金を受ける団体自ら自己申告的に補助額・繰越額・運営費の割合等を明確にし、会費徴収や補助金以外の財源の有無など所定のフォームで自己診断をした書類。
 並びに、補助金が適正に使われているかどうかを審査する審査員が事業活動をそれぞれの尺度で評価して、それを点数評価に変えて事業間・団体間の相対評価に変えるための審査フォーム。この2点で行うこととしてはどうかと思っています。
 審査方法・評価フォームについては、すでに、先進事例は数多くあり、参考にできるものはたくさんあります。それらを参考にしながら、この地域がどうありたいか、すなわち民意を十分に反映した政策にもとづく優先順位を、補助金政策にも具体化させていくことが一番大切なことかと思います。何を増やし何を削るかは、最終的にはどのようなまちにしたいかというまちづくりの理念に帰着するのです。そういう意味では、まず、補助金が活用されているか(繰越金などとしてプールされていないか)とか、事業や運動への補助としてではなく組織を運営するために大方がまわっているということはないか(補助金が運営費へ回っている)といった、最低限のチェック基準は平成14年度の予算にて反映してもらえればと考えています。今後とも、随時ご報告いたします。
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2001/10/07 広域圏・合併を視野に入れた施設整備を
 全国で広域事務組合組織が組まれ、地域連合などの制度が設けられている今になっても、多くの自治体は、自治体の施設整備について、ほとんどの施設を自分の行政範囲で抱え込もうとしています。結果的に中途半端な施設整備につながったり、似たような施設が隣町にもあったりしています。また、その中途半端で類似品の多い施設整備は、市場での競争にさらされ、当然稼働率は低くなってしまいます。そして、財政的なお荷物として生き続けていくのです。
 道路網の整備や情報化の進展で住民の生活圏はますます拡大しています。市立病院のあり方という稿でも触れてきましたし、先日行われた宇和島市・北宇和郡の議員有志との合併についての勉強会+意見交換会(宇和島JC主催)でもお話をしたのですが、今や広い地域を視野においた施設整備はまったく当たり前のことなのでして、財政危機の今、どこのまちに行っても全ての施設がそろっているというような施設整備は財政的にも無理で無駄とさえ考えられるようになってきています。しかし、これが現実にはなかなか調整の付かない問題でして、既に始まった事業を思い切ってストップするということをできないとか、広域で進める施設整備も受益施設は引っ張り合うが迷惑施設は押しつけ合うという、まったく了見の狭い決定が大方であります。そして、それは合併論議を進める時期で、財政的なお上の誘導から期限内での合併を目指す風潮が大勢となりつつある今でさえ、
今のうちから地域内で連携をとって高次の施設整備の役割分担をしようという話はあまり聞こえてこないようです。
 高次のサービスを提供していくために道路網・通信網を軸に連携して施設整備をすすめるべきなのです。A市は、図書館。B町は、美術館。C町は、音楽ホール。D町は、陸上競技場。E町は中央図書館。雑駁でありますが、こんな風に考えていけば、一つ一つの施設により多くの投資が可能となり、より高次のサービスを提供していけるはずです。A市が高度救命救急病院を備え、B町の病院がガン、C町の病院が脳外科、D町の病院が心臓病とかいう風に専門医・専門設備を整備するという考えもあるかと思います。
 身近な行政サービスは、各自治体が(今以上に細分化された地域住民のニーズにあったサービス提供が必要と思います)地域の特性に合わせてきめ細かいサービスを展開していくべきなのでしょうが、より高次のサービスを提供する施設は、地域で連携を組んで合作をする頃かと思います。たとえば、丸山の上の体育施設整備をどう思いますか?長距離走好きの私などは、マラソンのスタートゴールとして使えないような競技施設はまったく大反対なのです、そして十分に駐車場を確保できない大規模施設はナンセンスなことぐらい承知の上だと思うのですが・・・。また、投資効率を考えても、「遊休土地や地代の安い地域を選択することで、造成や土地収用にかけるお金を本体や関連する施設整備に回してよりよい施設を作ることが出来る」そんな大胆な見直し案を考えたいところです。
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2001/9/26 日本のかたち「最後に」/宇和島新聞9/26掲載
 私は日本人。この国に誇りを持ちたいと思っています。私は、この国に生まれたことに感謝をしてこの国を次代へ伝えたいと思っています。私も四十になりました、遺言には早すぎる歳ですが、この国をよりよいものにしていくことが私たちの使命だと考える歳になったように思っています。
 この夏は、ナショナリズムを考えさせる出来事がたくさんありました。拙文の中でも少しばかし触れたこともありましたが、思い切って正面から題材にすることは避けてきました。それは、アメリカがナショナリズムを語るとカッコよくて、日本がナショナリズムを語ると、右翼的で時代遅れであると言われることが多いからだったりします。
 アメリカが200年あまりの歴史(ネイティブを無視した歴史でも)を語ると自由と民主の歴史だと言い、日本が誇りを持って歴史を語ると復古主義的・国家主義的などと言われます。そして、この国で行われている歴史教育はあまりに自虐的なものに成り下がっているように思います。その結果、日本の国旗を立てて走る車に違和感をもつはずなのに、ビルの壁を星条旗でデイスプレーしてテロへの報復を好戦的に語るアメリカを受け入れる日本人が多いのではないかと思います。いったい日本人はどうしてしまったのでしょう。今や、「日本だけが」などという生き方は出来ません。世界の中の日本であり、誰もが平和を愛して、自国だけの利益を主張することなど、全くナンセンスなことを誰もが承知しています。それなのに、現代日本の礎とならんと、500s爆弾と供に敵艦に体当たりした、尊い祖霊さえも、侮辱してはばからない大人がいます。リーダーでさえ、アメリカでおこったテロを戦争行為である「パールハーバー」と、そして民間人を巻き添えにした自爆テロを「カミカゼ」とアメリカに揶揄されても抗議をしない有様です。
歴史として伝えられることの、どの部分が真実で、どの部分が偽りなのか、それを検証する知識も能力も私にはありません。しかし、敗戦国の歴史は戦勝国によって作為的に書き換えられることが常であります。勝者にとって都合の良い歴史認識を植え付け、敗者の誇りを奪い去ってしまう、それが占領・統治政策の常道であります。戦時とはいえ、私達の祖父や曾祖父の世代の日本人が末代に恥ずべき行いを為したとは思えません。日本は、世界の多くの哲学者が、東の端の島国に熟成されたその「道義心あふれる、伝統的文化観念」に驚く、そんな国であったのです。日本再生!生れ来る子供たちのために
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2001/9/19 市町村合併という将来ビジョン/宇和島新聞9/19掲載
 今後のまちづくりを語る上での重大なテーマ「市町村合併」について、今年三月、地方議員さんの集まるある会合で約1時間ほどお話をさせて頂きました。「商工業者の目から見た市町村合併」というテーマで、企業のサービスと行政サービス・企業合併と市町村合併・社内カンパニー等の理論と合併買収の理論といった項目を設け、企業と自治体の姿を対比させて「理念なき合併」は不可、そして「地方の時代という次代を生きる」為の方策は如何に?という風に話を進めました。(<A href="file:///D:/motosuke_net/#2001/3/6">レジメご参照下さい</A>)
国は、巨大な財政赤字を抱え、社会構造の変化(例えば少子高齢化)や景気低迷による今後の税収不足は明らかです。国が地方に分け前を与えるという従来の構造を維持することに無理が生じています。私が、現在の合併論議に否定的なのは、そういう財政的な理由(理念のない)からスタートしたと思える現在の合併への性急な誘導(合併を推進するための補助金制度・合併や合併の準備時期に発生する事業を行うための新たな借入を可能にする特別な制度・国から仕送りを徐々に減して行くという期間を合併すればちょっと伸ばしてくれる等の金に関わる優遇)は、まさに旧態のお上主導の施策でしかないと感じているからです。企業の一部に未だに国頼み・公共事業頼みの体質が残っているように、地方自治体はより一層強いお上頼みの体質があります。しかし、自治体のそれは今の制度上無理もないのです。実質的な権限のほとんどが国に集中していて、地方は常に中央の顔色を見て、たくさんの仕送りをしてもらことに躍起になるという現実があるのです。そんな感覚から抜け出せないままに、市町村合併という問題に対して、それぞれの地域の将来像の根幹になるべき合併ビジョンが、市民に広く具体的にしかもじっくりと語られることなく、先の財政的な優遇措置の期限を目標に合併を進めることは、今までの地域作りで犯してきた『(合併という)ハード先行・ソフト無し』の過ちを繰り返すものと思うわけです。
 どのまちと一緒になるかと言うことよりも、それぞれの地域がどういう町を目指し、その町の規模はどうあるべきで、その時行政サービスはどう提供されるのか。そしてその町に住む人々がまちづくりにいかに関わっていけるのかという議論こそ大切なのです。そういうビジョンを描いてから、地域の実情やニーズにかなった個性的で多様なまちづくりへと繋げなければならないのです。そんなことを置いといて、線引き優先の合併の議論を進めてはいけません。
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2001/9/12 近頃の物の値段2(水を例にして)宇和島新聞9/12掲載
 昨年、カンボジアのある町を訪れる機会がありました。そこで私達の為に準備されたペットボトル入りの水(蒸留水)の値段は、なんと公立学校の教員の給料1日分ほどの価格でした。そして空のペットボトルを子供達は欲しがります。それにボトルの向こう側がかすむような泥水を入れて飲んでいるのです。一方、これまた私達の為に準備された水洗便所と水浴び用に掘られた井戸は警察官の給料のおよそ3年分のコストをかけて掘られました。当然その井戸はその村(仏教寺院を中心としたコミュニティー)に寄贈したのですが、その水さえも私達には飲料不可であるレベルのものだったのです。
 ところで、きれい好きな日本人が、車を洗う水は飲めない水でしょうか?トイレで流す水は飲めない水でしょうか?近年、やっと雨水利用だとか中水道とかいう言葉を聞かれるようになりましたが、そもそも水はそういう努力によって確保されるべき物なのではないでしょうか?命の水を大切に使うこと、そんなことを忘れてしまって、水が足りなければ「ダム」そんな理屈は自然界では通用しません。人間だけが、手前勝手に他の生物の生存環境を破壊して無駄遣いをする権利はないのです。環境を保護保全するコストまで、物の価格に反映させればよいのにといつも思っています。
7月にユニセフのベラミー事務局長から届いた手紙(コピーですが)によると、世界中で毎日約一万人の子供の命が汚染された飲み水や不十分な衛生設備が原因で失われ、何時間もかけて水くみ作業をして学校にも行けない子供達がたくさん居るとのことです。そんな劣悪な生活環境にある人々に対していかなる手をさしのべるべきかという問題は別として、ここでは、今一度、水のありがたさを考える機会として頂ければと思います。子供の命を奪ってしまったり向学心と引き替えの水の価格はいったい幾らと計算すればいいのでしょう。答えに窮するようなこんな事実を知りながら、私たちは、水を無駄にして、水を汚して、目先の快適さを追い求めています。今どきは、ダイオキシンなどの毒物や極めて微量で生殖能力などにダメージを与える環境ホルモンによる汚染など、安全な水の価格はますます先高感が(急騰の気配さえ)あります。水の相場を安定させる為に、私たち一人一人が生活の全体を見直すことと、汚染の実態に目をやることが必要かと思います。
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2001/9/5 近頃の物の値段(水を例にして) 宇和島新聞9/5掲載
 宇和島の水は高い!らしいです。なんでやろう。そう思ったこと無いですか?ここのところ、県内では「山登坂ダム」や「中山川ダム」が話題になっていますが、当地も須賀川ダムができるまで、そして山財や野村ダムからの分水を受けるまでは、雨が降らないと言えばすぐに断水のまちだったのです。(断水を実感した世代でない私が申し上げるのは生意気と思われる方もいらっしゃるでしょうが、本稿は環境保護という観点で話を進めますのでお許し頂ければと思います。)
 そもそも、水の少ないところにはほとんどの生物は住めない(砂漠のように)のでありまして、水の量は極めて強く生存可能な個体数に関わるのが自然界のルールです。ですから、水の確保は都市にとっても死活問題であって自治体が水源確保にやっきになるのは理解できるところであります。そして、財政的にけして潤沢であったわけでもない宇和島が須賀川ダムを建設するという決断をされたこと、先人の英断には深く敬意を表したいと思います。しかしながら、世界では、環境という観点で考え、ダム建設に対して「NO」という判断を下す国が増えています。そしてわたし自身もそう思っています。あの経済優先の国アメリカでさえ、ダム建設のコストの中に将来の環境修復のコストなどを組み込むと経済的に採算がとれないとしてダムの撤去を開始しています。当然新規のダム建設は完無に近く、他国でのダム建設への資金援助も中止し始めていると言います。
ご存じの方が多いと思いますが、森林地帯の保水能力はダムの数倍と言われます。そして、森林地帯で土の養分を取り込んで地下に潜り込んだ水は、長い時間を経て地上に現れ小川が河川になり下流に肥沃な農地を形成していました。また、海までたどり着いた養分は、プランクトンの餌になり豊かな海を育んでいたのです。(森は海の恋人)ダムは、その自然の大きな営みを断ち切り、生物の生態系を破壊します。そんな破壊した自然を取り戻すためのコストまで計算すると今の水の値段は「原価無視の大廉売」なのです。お金第一の日本では、水道料金を今の倍にして、「お金がもったいないから、水を節約する」そういう動機に訴えるほか無いのでしょうか?/つづく
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2001/8/29 蘇れ頑固オヤジ/宇和島新聞8/29掲載
 先週の「公」と「私」という稿でも書きましたが、近頃の日本、「権利の主張しか行わず、義務を放棄する(ミーイズム)」そんな国になってしまったようでなりません。確かに、戦後日本の国づくりは経済一点集中主義であり、二十年ほど前には「JAPAN AS NO.1」と言われたように、敗戦からGNP世界第二位まで駆け上がるという世界史上に例のない金字塔をうち立てました。しかしそのことは、無責任に何でもお金で解決してしまう、そんな国民を作ってしまったように思います。そうして、後回しにされた「心」の問題は、「日本社会の崩壊」と感ずるまでに、社会を荒廃させています。例えば、青少年が起こした事件を見ても彼らの「心」は完全に壊れているように思えます。
 報道は彼らの家庭や学校教育に焦点を当てることがほとんどで、地域の責任に目をやるようなことはしませんが、多くの事件は、事件の起きた周辺地域住民の無関心でその陰惨さを増しているように思います。未来を託す、21世紀の主役になるべき子供たちを育むのは私たち大人の責任です。学校や家庭という視点だけではなくて、地域に住む私たちが、先生や親の役目を負って、はつらつとした逞しい子供を育てる役割を供に担って「共育」に務めなければならないと思います。新潮45という雑誌の昨年の5月号に「普段は親が学校に教育を一切任せているくせに、何か問題が発生すると、学校・教師は信頼できないとして大騒ぎをする。これは親の無責任であり、責任の押しつけあいよりも連携が必要である」という主張をしましたが、学校・地域社会・家庭が連携をとって子育てをしていくことが必要かと思います。特に、心の教育については、地域住民が担える部分はたくさんあると思うのです。教育改革に予算を付けるよりも、そんな意識を私達が持つことで、解決できる部分が多いと思ったりします。<br>
 例えば、昔は近所に頑固オヤジが居たものです。悪さをしていると叱ってくれるオヤジが居たものです。それが、今やオヤジ狩りという時代なのです。何かおかしくありませんか?
 厳しさとともに思いやりや優しさがあった頑固オヤジ。この日本の危機を救うのは、近所に必ず居た「頑固オヤジ」だと思います。蘇れ頑固オヤジ!
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2001/8/22 「公」と「私」■宇和島新聞8/22掲載
 最近、日本という国は、「公共心」を欠き、「私」だけを主張する個人の勝手気ままを許す国になっているのではないかとつくづく感じます。つい今し方、サイレンを鳴らして交差点に通りかかる救急車の前を4台の自家用車が横切るのを見て、まさに世も末(おおげさですか?)だと感じて、今回のテーマを決めました。
 世は、公僕であるべき公務員の汚職や腐敗、未成年者による陰惨な事件、親が実の子の命まで奪ってしまうような悲惨な事件、こんな事件が蔓延しています。今や、これらの事件を例外的で偶発的な出来事と言う人はいないでしょう。日常的に慢性的にさえ感じています。しかし、私達がそう感じることがすなわち、そんな事件が「起こるべくして起こってしまう」社会に、社会が陥ることを許しているのではないでしょうか。いつの世もあってはならないことはあってはなりません。いつの頃からか、私達は誇りを失っています。日本人は、個人としても国家としても生きていくための誇りや自尊心というものを失っているように思います。そんな国になってしまった大きな原因の一つが「経済第一(お金さえあれば)」の「物質的な豊かさ」を追い、「心のあり方」や「豊かな心」というものを後回しにして来たことにあります。耕し続けてきた田んぼや畑は、経済性と言う理由でつぶされています。資源に乏しい国土にあって、無駄を無くして「もったいない」といって循環されてきた資源は、使い捨てという、目先の便利快適を追う愚かな経済拡大戦略に乗って、廃棄され続けています。
 当地が抱える第一次産業低迷「漁場環境の悪化や魚価低迷」の問題も「柑橘類の価格暴落」の問題も、漁場の環境を守ることや園地が豊かで安全な農地であることよりも、近視眼的に経済性を追うことが原因であるといえると思います。しかし、この点についても、今一歩進めて考えると、工業製品を各国に輸出するために、世界の市場から国産農産品や国内で漁獲された水産品の市場を直接的に保護する貿易障壁を設けることは許されず、国内生産者を国際競争の渦中にさらしたことにあるのです。「公」と「私」。「お金と命とどちらが大切ですか?」それは「命が大切」と答えるでしょう。でも、それは「自分の命」のことで「他人の命と自分のお金」を比べたとき、ひょっとして自分のお金を選んでいないでしょうか。日本は、公共心あふれ、私を犠牲に出来る。そんな国であって欲しいと思います。
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2001/8/15 観光まちづくり?/宇和島新聞8/15掲載
先日、県のえひめ観光推進プラザへ出席して参りました。今まで、一貫して、巷にあふれる「観光(地としての)まちづくり」を否定してきた上に、観光についてまったく素人な私ですのに、委員の末席で生意気に意見をして帰って参りました。
バブルの時代に、全国至る所で集客のための施設づくりが行われました。その中にはすでに閉鎖され廃墟となってしまった所もあります。第3セクターやバブルに酔う企業が専門外の観光施設運営に手を出したことがその原因でしょうか?「ハード先行・ソフト無し」という施設は当然のことながら、ハードにそのまちの歴史的なドラマ等を加えて、成功しそうなものであっても多くが失敗をしました。観光は引っ張り合いのゼロサムに近いものがあるのも確かですが、維持費に汲々とする全国の博物館、運営費もでない巨大なテーマパーク、それはバブル崩壊で「失敗」という結果に至ったのでしょうか?原因はともかく、まさしく、鳴り物入りの観光施設造営は、現在、負の遺産としてその地方の背中に負ぶさっているのは確かです。
 一方、TDLの拡大やUSJの活況を見ると確かなノウハウと資金力があれば成功は約束されているようにも思えます。しかし、百歩ゆずって観光で人を呼び、それをまちづくりと呼んだとしても、そんなテクニックで得られる盛況は、けして住み良いまちづくりにはつながらないと思っています。例えば「四万十」、なぜ最後の清流として注目を集めているのでしょう。そこには、水と共に生きる生活があったからです。地域の人々が「都会的な便利・快適」を求めたり、環境よりも経済を優先する「開発という名の環境破壊の手」を入れなかったからであります。現代日本にあって特異なほどに自然環境が残された地域、希なほどに環境汚染の進んでいない地域、食べ物も飲み水も空気も全てが安全な地域、そんな地域を選び、訪れ・住み替えていく時代がすぐそこへ来ていると思います。今後は、住みよい町の環境が、人が集える大きな財産となるはずです。どうも、今の時代そんな環境保全も含めて新しい「観光まちづくり」と呼んでいるようです。失礼。
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2001/8/8 どうする市立病院/宇和島新聞8/8掲載
 宇和島市が直面する問題の中に市立病院の建て替えの問題があります。確かに建物も老朽化しており、より高度な効率的な医療を提供するには現施設では限界があることは皆が認めることでありましょう。しかし、採算に乗らない公立病院をあえて財政危機の宇和島が拡張改築することが必要なのでしょうか?
 大学病院や公的病院は私的病院と比べると規模も大きくきれいなところが多いのですが、それは診療報酬などの医業収入の他に、国や県・市からの補助金や税制上の特典があるからと言っても過言ではありません。宇和島市立病院も補助金等(3億円程)の収入によって黒字の決算を行っているのが現状です。「まちの家計簿」の稿で申し上げたとおり「公」の役割は収入と支出の差(利益)を大きくすることではありません、最小の負担で最大のサービスを市民に与えることが目標なのです。ですから、黒字であるとか赤字であるとかいうことを問題にするのはナンセンスなのですが、市立病院が黒字であるからとして、現状の業態のままで建て替え案を練るということに疑問を感じることからこんな話を冒頭に持ってきました。
 そもそも、市立病院はどういう病院であるべきなのでしょう。今までのようにたくさんの一次外来を迎え、朝一番で受付したのに昼になってしまったなどという病院で良いのでしょうか?確かにプライマリーケア(一次)の外来医療の提供は、利益幅が大きく医業収入を支えるので、経済的動機から手放し難い存在かもしれません。しかし、プライマリーケアの一般的な病気の場合にまで市立病院を選択するのはいかがなものなのでしょう。やはり、一次診療は、かかりつけ医・ホームドクターで受け入れ、場合により市立病院や専門医へ回ってもらうという風に、民間の医療機関と役割分担を明確にして、市立病院は救急や高度医療に特化した病院として位置づけるべきでないかと思います。市町村合併の検討も為されていますが、高知県の一部を含んだ圏域全体を視野に入れ、今後の地域医療のあり方を考えたうえで、その枠組みの中で市立病院が負うべき役割を考え、そのための立地はどこが相応しいのか、そういう議論の順番であるべきと思うのです。全国展開する病院チェーンの進出という市場の変化もあるようです。また、このままでは破綻が近いという医療保険(世界に誇る国民皆医療保険)制度を守る為の厚生省の医療改革案を見ても、まず、民間医療機関との役割分担を明確にした地域の医療提供体制の見直しが必要とされています。身近な病院のこと、他人事ではなく自分事として考えてみませんか。
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2001/8/1−2 まちの家計簿作り/宇和島JCニュースへの寄稿文を素に
 ちょうど、宇和島新聞の「皮てんぷら」に寄稿の機会を頂いておりまして、そちらでもこのテーマについて述べさせていただきました(7/258/1掲載)。なるべく重複しない内容で本稿は進めたいと思います。
 平たく言うと、自治体の財政状況を企業会計の手法で「資産と負債」と「収入と支出」を比較する表をつくり、まず現状を知ろうと言うこと、そして「費用対効果」の分析を行うことによって、今後の政策決定の基としようというものです。さらに、明らかになった危機的な財政を軽減するために、新たな手法を持ち込もうということなのです。
 資産とは、住民の財産であり、行政サービスの源と言えます。例えば、現金・預金・債権・基金などや公有の財産・公共の持ち物、さらに、土地・道路・橋・ダム・公園などがあげられます。負債とは、住民が将来負担しなければならないものです。主なものは、地方債・未払い金・引当金などです。収入は、地方税収入・地方交付税交付金・補助金などで、その収入をもとに様々な行政サービスを提供することに費用をかけているのです。ここで注意をしなければならないのは、企業においては収支の差を大きくすることが目的であるのですが、行政においては租税収入と行政コストの差を大きくするのが目的でないと言うことです。これは単に、住民の負担で行政サービスを提供するためのコストが賄われているかという財政上の健全性を表すに過ぎません。しかし、行政活動の正確なコストを明らかにすることで、住民の満足度を合わせて考えることによって、施策に優先順位をつけたり事業を取捨選択するための意志決定の材料となります。そして、これが一番大切なのですが、費用対効果の効果を表わす「自治体の活動の成果」を一覧として作成して、首長や議員から末端の職員までの優劣を評価しなければならないと言うことです。そうして、施策決定に深く関与していくことで住民一人一人が地域に責任をもち、行政まかせにしない「自己責任」の意識を持つことに繋げなければならないのです。単に投資家(タックスペイヤー)としてその資金の使われ方をチェックする住民と、投資家を裏切らない資金運用を務める企業(行政)との関係以上に、住民本位の社会を作り上げるための自治意識を持った住民と経営感覚を持った顧客志向の行政とが共創するタウンマネジメントのスタートと捉えられるのではないかと思っています。
 まちの財政支出を減らしながらも、行政サービスの質を落とさずに事業を行っていくことが理想です。しかし、危機的な財政は、痛みを伴わない改革を許してくれないのかもしれません。公共事業費の減額は、ある業界には死活問題になることでしょう。
 そこで、まちの財政軽減のための手法として、官・民の境界線を無くした3つの手法を提案したいと思います。
1.PFI(プライベート・ファイナンス・イニシアティブ)社会資本整備に関わる、設備・建設・運営・維持・管理及び資金調達という事業のプロセスを公共が民間事業者に委ね、公共サービスを効率的に提供しようというもの。例えば、八幡浜や宇和島で問題になっている温泉掘削の問題、東京都は、温泉施設開発全体をPFI導入を検討しています。
2.NPO(民間非営利組織)非営利ではあるが、無償奉仕の団体としてではなく、企業に近いコスト意識を持った事業体として各地で各種の活動が始まっています。宮城県の岩出山町ではまちのミュージアムの運営をNPO法人に業務委託し、町営時の約3分の1にコストが抑えられたと言います。
3.コミュニティービジネス
 行政よりも地域住民により近い、生活者意識と市民意識のもとで地域コミュニティーの問題の解決や生活の質向上をビジネスとして確立する考え方。例えば、公園等の清掃などを請け負う地域企業(企業組合とちぎ)は高齢者や障碍を持つ方の労働の場として確立しました。すみだリバーサイドネットワークでは、子育て中のお母さん向けにパソコン教室を企画し、下町情報のホームページを作るなど地域密着のビジネスチャンスを作っています。
 情報の共有と住民参加で生活者本位の市民社会を実現いたしましょう。
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2001/8/1 まちの家計簿作り(下)宇和島新聞8/1掲載
 宇和島市のバランスシート作りには、1月の市長選で公開討論会を開催した実行委員会メンバーで立ち上げた「うわじまづくり会議(仮称)」の仲間を中心として、会計の専門家や銀行マン・企業経理に明るい人が協力してくれます。なるべく早い時期に誰にでもわかる形で発表できればと話し合っているところです。 私達の目指すバランスシートは、専門用語を使わないで、まさにお家の“家計簿”のような言葉を使い、誰もがまちの財政の様子を掴むことができる、そういう情報をイメージしています。自治体の公会計に企業会計の手法を導入して表をつくり、そして使う言葉をなるべく簡単にしようというものですから、簿記を勉強した方やお店の経営をされている方なら、私達が目指す家計簿の姿がどういうものかご理解いただきやすいのではないかと思います。まず、年度末などのある時点に財産(現金や債権から学校や公民館などの建物、道路や土地など)や負債(借金や将来発生するコストのための引当金(退職金を支払うための準備)など)がどれくらいあるかをしめす表(貸借対照表)。そして、1年間にどれだけの収入(市税収入や国からの仕送りも含めて)があり、どれだけのお金を使ったかという表(収支?計算書)。そして、行政においては収入と支出の差を大きくするのが目的ではありませんから、それだけのお金を使って1年間にどれだけのことが出来たかという成果の一覧(これが大事です)が必要です。
 企業は投資家に対して、経営状態を一定のフォーマットで公開して説明する責任を負います。その情報によって、投資家は投資先やその投資額を変えていくことになります。そして、社員は会社を見きって転職をしていく昨今であります。ところが私達市民は、税金の支払先や支払額を自分で決めることは、住まいを変えるなどの負担によってやっと可能であるという社会なのです。現実的に、今住んでいる「まち」に見切りを付けて他のまちに住み替えるということは簡単に出来ることではありません。ですから、私達は出来上がった「まちの家計簿」を見て、限られた収入をどう使っているのかチェックしなければ為りません。そして、ひょっとして、私達の世代のわがままや贅沢で将来へ負債を残そうとしているのではないかということにも気づかなければ為りません。すなわち、台所事情を知った限りは、勘弁できるところは勘弁して、不要不急の事業を中止したり休止して、より効率的な使い方が出来るように協力することが必要です。様々な行政サービスの費用を住民の負担内で納め、財政を健全化していきましょう。次代の宇和島市民に笑われないように!
 まちの財政軽減のための最近はやりの手法については、機会があれば・・・。
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2001/7/25 まちの家計簿作り(上)宇和島新聞7/25掲載
前回 前々回とゴミ処理費用について、ほとんどが税金で賄われていて、その点ではごみを減らす努力をしてもほとんどお家の家計簿に影響しないというお話をしてみました。でも、ゴミ処理費用は莫大で、まちの家計簿には大きな影響があることおわかり頂けたのではないかと思います。
 近年、地方自治体の財政が危機的な状態であると良く言われます。一方、国の財政も今までのように地方を支えることは出来ない状態になっています。しかし地方は稼ぎが少なくて、国からの仕送り無しでは生活できないのが現実です。また、仕送り(国からの補助金や交付金)は、良い子にしていないと沢山もらえませんから、自立できない地方は、国が組んだメニューの中で社会資本の整備などの地域作りを進めることが大方となります。結果的に個性のない画一的なまちづくりしかできず、それが元気のない地方を沢山生んでしまっているようです。その上に自治体の財政管理は、予算に基づいて歳入と歳出を管理することが中心で、予算消化額に応じて翌年度の予算が決定されます。予算をうまく使って大きな効果を上げたとか、工夫して予算を使い切らないで事業の目的を達せられたとかという場合であっても、予算消化を判断基準にする予算配分では、そのがんばった部署は予算を減らされる可能性さえあります。つまり、予算を効率的に運用しようと言うより、ある予算を使い切ることを考えがちの現実があるのです。そんな問題を解決するために出てきたのが、“事業評価システム”の導入であったり、“バランスシート”づくりなのです。事業評価もバランスシートも企業経営では常識です。まちの運営を経営と捉え、資産の状態や負債の状態を明らかにして、その情報を市民が共有することで、個人個人が責任を持って、行政任せにしないで、自分達の意志でまちを経営していくことに繋げようということなのです。
 現在、自治体の多くは、稼ぎ(税収等)も仕送り(地方交付税等)も減っているのにあまり支出を減らせないでいます。その原因の一つに私達住民が何もかも行政任せでいることがあります。しかし、歳入と歳出の様子が広報等で公開され、公債費率だとか経常収支比率だとかが示されても、私達公会計の素人には実体を掴みづらく、危機感なく今まで通りの行政サービスを求めているようでさえあります。先般、石橋市長とお話をして、宇和島市でもバランスシート作りを始めることになりました。これを、新たなまちづくりのスタートとしたいと思います。つづく
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2001/6/22 市立病院立て替えについての市長答弁を題材として
新聞によると、6月市議会の「徳州会病院から県に367床の病院開設許可申請が出ているが」という田島議員からの一般質問に対する市長答弁で、「宇和島市立病院の立地について秋までに結論を出したい」という発言があったようです。また、「規模について、愛媛大医学部長、圏域公立病院長、圏域の医師会長らからベット数を減らす必要はないと聞いた。」とも発言しています。しかし、これって市民の感覚ではないですよね。なんで、大きな病院の進出という市場の変化があるのに、市立病院の規模や役割について【今まで通り】変えないことにこだわるのでしょう。確かに、徳州会病院に反発する人たちは、「風評で言ったら悪いが、過剰サービスに近い面があり、国保会計への影響もある」と主張しています。(私の方では、検証しておりません。)以上「」内は、市議会の一般質問を取りあげたうわじま新聞(愛媛新聞の子会社)の記事からの引用(石橋市長の答弁)です。

 しかし、もう一方の風評では、徳州会は総じて地元の患者にとっては歓迎されることが多く、しかしながら地元医師会は反対するという傾向があるようです。
24時間・365日体制で患者を迎える徳州会病院を快く思わないのだろうかと思ったりします。

 また、徳州会の理事長を務める徳田虎夫氏は自由連合の代表も務めている国会議員です。ですから、言わば既得権を守るために政権政党に多額の献金を続けるという政治的一面を持つ医師会と対立する立場にあるともいえると思います。しかし、医師個人の意見はというと、比較的まばらで、徳州会の医院システム(営業時間や情報流通など多くの面)の中でも、良いものは良いと評価されるのが一般的になっているようです。特に、薬害・副作用情報の流通は、その薬剤メーカーのそれより早く全医師に行き渡ると言います。徳田氏は、「一部の都立病院の運営を徳洲会が引き受けてもいい」と石原都知事に提案したといい、この提案が実現すれば、公設民営の医療機関という新しい方式が導入されることになります。石原氏は徳田氏の選挙応援に駆けつける間柄であり、その主張も楽しいものです。

 まっ、徳州会に対する評価は置いておいたとしても、力のある競合他社の算入がある市場で、そして医療保険制度の破綻の危機や現状医療の問題点から医療構造の改革が叫ばれている中にあって、その役割論を置いておいて、立地の決定を急ぐことには疑問を感じます。


 
私の以前からの主張は、今の形の市立病院を改築・移転する等の検討の前に、地域医療の将来像を描こうというものです。その地域医療の枠組みの中で、市立病院が負うべき(医師会と徳州会の間に争いがあるとすれば、漠然とした言葉で言うと「公正なリーダー的地位」かと思いますが)役割を考え、その上で、規模はどういう規模がよいのか、そのための立地はどこが相応しいのか、そういう順番で議論されるであるべきと思うのです。
環境の変化を考えず、外来診療(それも一次外来)を役目ととらえた市立病院を、新たな投資の上に設置したとするなら、将来の宇和島にとって、大きな財政的お荷物となることでしょう。石原東京都知事と徳田氏の戦略も興味有りますが、宇和島でも是非、検討していただきたいことです。
思えば、昨年5/31の我サイトのまちづくりの主張の初っぱな
市立病院についてでした。 戻る

2001/6/11 責任無能力による刑事不可罰について/四国JCmlへの投稿をもとにして
 大阪でおこった小学生が殺傷される事件について、繰り返される再犯者(あえてこう表現いたします)の凶行に、国民の人権を守るべき法の未整備を改めて確認いたしました。そして、強く憤りを感じています。この件については、ちょうど当日の夜開かれた宇和島JC理事会の監事所見で触れてしまいました。論調は、翌日報道のあった小泉首相が事件後の会見で述べられたことに近く、「まさに立法の問題である」という主張であります。つまり、私達の意思の問題であるということ。加害者の人権(たとえ、刑事未成年であろうと、心神喪失・心神耗弱による責任無能力の評価が成された者であっても)より社会の安全を守るべきではないか。そのための、新たな立法を求めるべきだというものです。そういう意味からも、JC四国地区mlになされた法皇JC前谷さんの問題意識と行動提案に敬意を表したいと思います。<br>
 まず、法律は原則不遡及でありますから、過去に行われた行為についての適用はありません。しかし、行政処分である措置入院制度の運用に対する指導が省令等で出て来れば、当該地域の知事名によって為されるその制度の運用が見直され、より長期の治療行為が施され、退院のための要件をよりきびしいものとする事が(とりあえず)可能であろうと思います。(当然、特定の事件の加害者に対してのみ適用することは出来ませんけど)しかし、こういう制度の改革に対して、人権を制限するものであるとして、人権派のみなさんは目くじらを立てて反対されることでしょう。<br>
 しかしながら、どう考えても、「人」を「殺した」(構成要件に該当する行為をなした)のに、そして違法な行為(正当防衛や職務行為等によって、人を死に至らしめた場合には違法でないと評価される=違法性阻却事由により違法性がないとされる。また、<font SIZE="3">交通事故などで誤って人を殺した場合と、ピストルで撃ち殺すなどした場合とでは世の中の悪い奴だという評価は当然違っていて、人が死んだという法益の侵害だけで違法性は評価できませんから、故意で殺したのか過失で殺したのか等の行為者の行為態様によって評価される。</font>)であるにもかかわらず、未成年者(刑法で処罰されない年齢であるという意味)や心神喪失者はその責任を負わない(責任阻却事由有り)とされて、結果として「刑罰」を背負うことなく、「無罪もしくは不起訴とされて、措置入院」という処分が科される(刑事処分ではなく行政処分)という制度のもとに、とても沢山の被害者が出ているように思えてなりません。<br>
 確かに、「自分のやっていることが良いか悪いか判る能力があって、それに応じて自分の行動を制御する能力がない者を刑事的に非難が出来ない。そしてその能力が著しく低い者は非難の程度を軽くする」という刑事無能力の制度趣旨は理解が出来ます。しかし、その趣旨に基づいて刑事的に責任能力がない者は責任を問わないというこの制度で救済され(刑事処分を受けない)、治療行為(精神病者も刑事未成年者も)を施された者が、再び違法行為でもって他人に被害を与えることが多いことは紛れもない事実であり、現行の制度のもとで多くの被害者を生んでいるのは事実です。<br>
 法律を変えましょう。そうしなければ、被害者は減りません。現行の措置入院の制度をより充実したものとして、再び加害者となる可能性のある間は社会に出られないようにするべきです。ただし、それは犯罪の処罰ではなく、治療として治療が完了すれば、退院できる制度として確立してはと思います。なぜなら、犯罪者のほとんどが犯罪を犯してはならないと言う反対動機がおこるはずなのに、病的に価値観のゆがんだ犯罪者(厳密には加害者)は、その性癖を治さない限り、反対動機の形成は期待できないからです。(もっともそういう意味では、怨恨等の特殊な事情があったり貧困等という社会的な背景があって、加害行為を選択してしまった犯罪者よりは、治療を施す時間がかかってしまうと言うことが多いのではないかと思うのですが・・・。)<br>
 法による処罰を終えて出所してきたとしても、犯した犯罪の態様(年少者向けの性犯罪などのように)によってはその後の生活に制約をかけられるのが当然かと思います、そういう性癖が刑期の間に治療されずに出てきてしまう、その「再犯者」による被害者が多いのですからそれも当然のことだと思うのです。同様に措置入院の行政手続きによって拘束された入院から退院してきた患者についても、その後の生活には制約をかけ、二度と被害者を生まない制度の確立が必要かと思います。<br>
 応報と治療の二面性が刑罰にあるとしても、犯罪の態様による刑罰規程の見直しはなされるべきでしょう。そして、刑期を終えた者の更正支援・再犯防止の管理制度の確立も必要です。措置入院にかわる治療制度と治癒を判断する基準の見直しも必要です。<br>
 人権派の一部の方に、被害者の心などよりその加害者の人権侵害を防ぐことに重きを置くように思える論調があり、素人の私にはまったく理解できないコメントを発信することに憤りさえ感じています。立法の不作為や不備は、私達の責任です。それを自覚いたしましょう。被害者が出てからでは遅いのです。戻る

2001/6/6 市民参加の会議体
 
愛媛新聞に、松山市が環境施策についての意見を聞くために、「環境市民会議」を設置したという記事が出ていました。 委員の半数を公募で選んだといいます。そして、残りの半数は環境団体や企業の代表が委員であるそうです。 40人を「地球温暖化対策」「ごみ減量化対策」「環境美化」「環境教育」の4つの分科会に分け、市長への提言を目的とする会議体であるとのことです。 どのような提言が行われるかという結果も注目したいところですが、 それよりも、こんな市民会議を設置する松山市・中村市長に敬意を表したいと思います。 宇和島には、こうして公募で構成員を選定するような委員会等の会議体はあるのでしょうか? 石橋市長が選挙戦から提唱されている、「市民参加や市民との対話によるまちづくり」の具体化を望みます。 最近、国会では小泉新首相がダイナミックな発言を続けています。宇和島市でも、今にそんな動きが活発になってくることを期待したいと思います。 

 現在市政の政策立案に関わっていらっしゃる方の能力をどうこう言うものではありませんが、市民がより市政に関わっていける環境作りが求められている昨今であります。結果や効果を云々言う前にそんな組織を一つ二つ作ってみると良いと思うのですがいかがでしょう。

 ※関連2001/2/25 今どきの情報公開

      2001/2/5 地域づくりにみんなの力を/ネット会議(うわじまづくり会議)の立ち上げ!

         2001/1/29 新しい民主主義実現の形宇和島でも戻る

2001/5/28 やっと、地方空港の新規建設を凍結
前々から愚かさを指摘して参りました(11/1511/16付け)が、国土交通省がやっと公共事業見直しの一環として地方空港の新規建設を原則凍結の方針を打ち出してくれました。できれば、現在建設中のものでも、需要予測をやり直すなどして欲しいのですが(多くの地方空港の需要予測が間違っていたことを総務庁が国土交通省にいい加減な需要予測をしないよう勧告し、一時マスコミも注目した)、現長野県知事の田中康夫氏等が反対運動をし、推進派の神戸市長に前の選挙で投じられた票よりも多くの人が住民投票(神戸空港建設の是非を問う「神戸市民投票を実現する会)を求め、数万の反対署名が集まったという神戸空港や能登空港などは計画通り整備を進めるといいます。環境破壊という側面を除いて、経済性という点を考えても、多くの地方空港整備計画は、土木建設業者に対してしか経済効果を生んでいないように思えてなりません。鳴り物入りで着工し、オープンした空港も、それらを抱え込んだ地方自治体にとっては年々起債の償還に追われ、その上に採算に乗らない空港経営の赤字を県や市・町村が仲良く分け合って(関西空港の追加負担金の拒否問題はまだ記憶に残っていますが)負担しているのです。

総務省の発表によると、89年から98年までに供用開始された15の空港の内なんと9つの空港の利用実績は事前の需要予測(採算計画ではないことに注意、採算計画ははなから黒字を想定していないものもあるといいます)を下回ったといいます。現在、道路特定財源の一般財源への繰り入れの論議がなされています、そしてその際にも通行量予測のいいかげんさが指摘されています。偽りの需要予測や通行量予測が歳出の地方への配分を否定する論拠となっています、正確な需要予測をもとにして財源の配分を議論し、地方対都市の構図を利益誘導や既得権の保護という色から脱するべきかと思います。
 今後の関係は、機能分担です。特に自然破壊が進んでおらず安全な食物で自活できる地方と生物の生存を危うくするほど環境破壊が進み危険な食べ物が集まってくる都市部という新たな色分けがしたいところです。戻る

2001/5/18 市立病院の機能特化について/梶原さんからのご意見に対してのお答えを中心として
私の意見掲載以降、石橋市長からご返事も頂き、梶原さん・佐々木さんからご意見を頂いておりましたのに、コメントが遅くなってしまいました。

 現状の市立病院について、やはり、みなさんがお感じになっている点、大方同じようですね。
ひとつひとつ、お話を進めて参りましょう。
まず、「長時間待ち、短時間診療」という問題、現場の医師は日々の外来対応に忙殺され、患者一人一人に使える絶対的な時間が不足しているという傾向はとても顕著なようです。
一方、市民の間では、「重い病気は市立病院」という時代が終わって、「重い病気は松山」などと言われていたりします。今の一般外来者数と医師の人数バランスでは、高い能力を持った医師が配置されたとしても、外来に(それも、風邪程度のことで)対応するために時間をとられ、どうしても十分な診療・診断ができないという現実を産んでいるようです。実際、現場の医師は接する市民に対しその辺りを吐露されることが多くあるようです。それは医師の思い上がりなのでしょうか?けして、そうではありません。十分に時間をかけて、診療を進めたいにもかかわらずそれが叶わぬ現状の問題点を指摘する正当な意見ではないかと思っています。

 やはり、一次診療は、かかりつけ医・ホームドクターで受け入れ、場合により市立病院や専門医へ回ってもらうことがよろしいのかと思います。市立病院をそうしておくことが、自分や家族がなにか大きな病気であったり緊急な処置の必要な事故・発作等に遭った場合に十分な診療体制で待っていてくれる施設の維持につながるのです。
確かに、日本は、国民皆医療保険制度が確立していて、だれもが自由に医療機関を選択して保険診療を受けられるフリーアクセスの環境が整えられています。しかし、その結果、はしご診療(同じ病気で病院や医院を転々とすることで、同じ検査が2重3重に行われたり、似たような薬がダブって処方される等が起きています。けしてセカンドオブニオンの効果を否定するものではありませんが・・)や大病院志向(一般医よりも専門医、まちの個人医院より大病院が良いという価値判断)で、総合病院だから信頼できるなどといった、単純な思いで医療機関を選択して、医療費の高騰(医療保険制度の破綻も近い)や結果的な医療の質の低下を招いているといわれています。自分だけはとか、自分の家族くらいはという意識は捨てて、賢明な医療サービスの選択を進めるべきです。

 たとえば、個人の診療・医療情報の管理を一元化(保険証をICカード化して)、薬が余るほどもらえるとか何回も同じ検査をするという無駄遣いをしないですむような体制をとればいいのです。現状、過去に受診した各医療機関に散らばって存在するデータを、カードで一元的に管理すれば、過去の傷病歴やアレルギー等の体質情報を事前に把握することもでき、より迅速に高度な医療を施せる、そして医療事故の確率を低いものにすることにも繋がると思います。

 この、医療機関同士の連携という点について、宇和島の場合、市立病院に京大系列の医師が多く勤務していたころから個人医院との連携は比較的取れていたと聞きます。しかしその連携が、「悪かったらどうせ市立へ回るのだから、最初から市立へ」という価値判断を産んだのも否めないようです。
今は、「市立は混んでいるだけ、**の治療以外は、○○が良い。」なんて医療通はのたまわったりいたしますけど・・・。

一方、逆に「様体の安定」「高度医療を必要としない」患者を個人病院へ転院させるシステムはどうでしょう、確かに望むべき役割分担の一つであります。しかし、現在、個人の医院では多くの医院で入院患者をとることをやめ、医院の経営コストの低減を計っているところが多いようです。これらを解決するためには、今の個人医院と病院の中間的な規模の「診療所(日本では医療施設の共同利用に制約があるため、数人の医師が勤務する診療所は病院という形態をとることになる)」という形を再考して、それらを地域医療の担い手にするということも考えなければならないと思っています。 

 次に、市立病院がカバーするエリアと市立病院に対する投資元のバランスの問題ですが、この点については、先に触れましたように市立病院は、災害拠点病院救急救命センター・結核予防法による指定医療機関として指定を受け、助成措置・優遇措置を受けています。それ以外の一般外来・一般病床について、確かに「北宇和郡や南宇和郡、高知県西部地域の患者も結構おられるわけで、それらの市町村から共同出資等という形をとるとなると、益金や損金の分配とか立地の問題等、クリアするハードルが増えてくるように考えます。しかし、この病院は、名実ともにこの地域の基幹病院として機能すべきであり、受益者がこの地域一円に広がっていることを考えると、市立病院を市立で運営することへどこまでこだわるかと併せて、少なくとも広域でこの病院のあり方を考えていかなければならないと思います。
 もうしばらくすると、この宇和島市立病院の建て替えをテーマにして市民の声を聞く審議会とか公聴会、市民参加の検討委員会などの設置が市のキャビネットの議論のテーブルに上ってくると思います。
私達の財産にもなり、お荷物にもなりうる大きな施設・施策の決定であります、今後とも皆さんのご意見をお待ちしています。

 社会的入院とは?

 「医療よりもむしろ介護が必要な高齢者等が医療ベット(急性期患者用ベット)
を使ってしまって、その入院費等が医療費としてカウントされる」という問題です。そもそも、社会保障費として支出されるべき経費が医療費として支払われているという不整合部分なのです。
家庭が受け入れられないからと言う理由で、医療行為を施す必要がないにも関わらず、入院をさせといて下さいという入院のことです。戻る

2001/5/8 食の基盤「農業」を守れ「身土不二」
 5/6の読売新聞の社説は、食料の多くを海外に依存して、主要先進国の中で最低の食糧自給率を誇る(40%=供給熱量ベース)日本の農業の再生をというものでした。
 私が常に主張していることなのですが、食の海外依存はとても危険(食糧安保とか言って)です。そして、世界の人口増と自然環境の悪化は、世界的な食料不足というシナリオを示唆しています。そんな中で、日本は十年後までに自給率を45%まで引き上げる目標を掲げていますが、どうすれば自給率が上がるというのでしょう。この自給率の低い日本でいまだに減反が行われています。どうしてでしょう。平坦な農地ほど、工場やスーパーやいろんなものに姿を変えています。何十年も何百年も田んぼだった土地があっと言う間に駐車場や住宅に変わっています。どうしてでしょう。また、ウルグアイラウンド農業合意以降、自由化の波はたくさんの農家を飲み込んでいきましたが、商社はお金儲けの為だけに価格の安い農産物をどんどんと輸入してきます。果たして、このことを、「消費者の選択を拡げ、恩恵をもたらしている」などと悠長なことを言っていて良いのでしょうか。価格競争力のない国産農作物は、市場から駆逐され、生産農家は瀕死の状態であります。そんな国が豊かな国と言えるのでしょうか?国民の食糧を確保するというもっとも大切な政策は、工業製品を輸出することによって得たお金(経済力)を背景にして「足りないものは輸入すればよい」という時代がいつまで続くというのでしょう。自国の国民を飢えさせてまで輸出する国があるでしょうか。いまでこそ、肉を食べる量の少ない途上国ですが、肉を食べる量が増えていけば、飼料としていまの十倍以上の穀物が必要となります。それだけでも、今の耕地面積(地球全体の)では、賄いきれないのです。
 ここで三重の施策をご紹介してみましょう。三重県では、昨年7月から「地産地消推進県民運動」を展開しています、外食産業で提供される食材に県産品の表示を行ったり、農産加工品の表示認定制度などを推進していると言います。
日本の農政の大部分が、農業土木政策であったように感じます。そろそろ、食の基盤たる「農」の再生を真に進めるべきです。セーフガードの発動もありましたが、輸入制限をしなくとも輸入できなくなる事態が地球上に訪れることに気づくべきです。我々消費者は、国産の農作物により高い安全を求めましょう、そうしていくらか高い買い物であっても、健康というサービスがついているとして国全体で日本の農業を守る時代が来ることを願っています。戻る

2001/5/1 家電リサイクル法の昨今/デポジットが良いよ!
 家電リサイクル法が施行される前月(今年3月)は、特需があったそうですね。なぜかって、4月以降に同法の対象となる家電製品を処分する際には、それを購入した店舗や同じ種類の商品を買う店舗へ、所定の収集運搬料+リサイクル費用を支払わなければならないのです。だから、その費用がかからない3月末までに買い換えをしようと言うわけです。買い換えの特需ということです。環境破壊が叫ばれる時代にあって、未だに、そんな愚かなことをする人がいるのかと思うと情けなくなったりするのですが、今回はその話はおいといて、もっと愚かな「けしからん」話であります。この制度の上では、対象の電化製品を持っていた人が使っていた物を店舗に持ち込んで新しく購入しようする場合と、それらを持ってなかった人あるいは持っていたけどどこかで処分して販売店に持ち込まない人が購入する場合では、負担する費用は、倍半分の違いがあるのです。つまり古い対象家電の処理を店舗に依頼しなければ、その費用は支払わなくても良いのですから、けしからん奴らは、こっそりとどこかへ捨ててしまったりするのです。各地で不法投棄が問題になっています。この問題は、今からこの4月以前に購入したもの(家電リサイクル券のない物)が寿命を迎える何年か後まで続く恐れもあるのです。
 景気が悪くて、収入も減っている。環境のことより自分のお金が大事という輩は、きっと不法投棄を続けるでしょう。この問題に対して、不法投棄した者に対して罰則を設けて防止しようという自治体が増えていますが、やはり、これはデポジット制にして、今までに販売されたものも含めて、販売店に持ち込めばお金がもらえる(新たにデポジット制を導入して、その制度導入後購入した物を販売店に持ち込んだ場合の半額でも)こととすれば、山の中に廃棄されている物までリサイクルに回り、リサイクル率を上げることは間違いないでしょう。
リサイクル法施行以前に需要者に購入された製品について、こうしたなんらかのメリットがなければ、どうしても自分の身銭を切らないで良い処理方法(不法投棄)に回る割合を下げることは出来ないと思うのですがどうでしょう。そして、対象の家電製品を持ち込まれた際の返金は、製造メーカーによって負担されるべきであります。今まで、売るだけ売って、処理を地方自治体等へ回していたつけなのです。当然、メーカーが負担すべきであります。そして、メーカーがそれらを回収して、リサイクルするコストは、場合によって、今後販売する製品価格に転嫁して消費者に負担をさせればよいのです。全ての商品は、その商品(容器・包装類も含めて)が寿命を終えて、新たに生まれ変わって製品の原料資源として利用されたり、環境を害さないレベルでの廃棄物としての処理を行うまでのコストの大部分を含めた原価計算がされて、価格決定されるべきなのです。今までのように、環境負荷についてのコストをほとんど計算に入れない原価計算に問題があったのです。日本でも、やっとリサイクル法が出来ました。しかし、この日本のリサイクル法という制度は、環境先進国においては、20年も前に失敗をした中途半端な制度でしかないと言われています。もう、法制度の不備を嘆いたりするよりは、私達が意識を変えることが必要なのかもしれませんが、その望みが薄く感じられるので、制度で消費者の行動を制御しなければならないという主張です。戻る

2001/4/24 市立病院の機能特化について/医療機関についての問題点を中心として
 我が国が、戦後早い時期に国民皆保険制度を完成し、国民が医療機関を自由に選択(フリーアクセス)でき、国民のほとんどが質の高い医療が受けられるようになったことは世界に誇れることであります。しかし、急速な人口の高齢化や医療の高度化等によって、医療費が増加しており、経済基調の変化(デフレスパイラル)に伴い、医療費の伸びと経済成長との間の不均衡が拡大してきている現状があります。そして、将来的な医療保険制度を含めた福祉行政施策そのものが国民の不安を増幅するものになっています。介護保険制度も導入されましたが、老後の不安を解決することになっていません。将来にわたって、国民皆保険制度を保ちながら質の高い医療を安定的に供給し続けるには、効率的な医療提供体制が必要なのです。
 それでは、指摘されている、現代の医療の問題点を上げてみましょう。程度の差こそあれ、すべてが、市立宇和島病院も抱えている問題では無いかと思います。○長時間待ち、短時間診療。○医療に対する情報不足(医療機関選択の情報不足・医師と患者のコミュニケーション不足・カルテ開示等で提供されうる情報の不足)○医療従事者の地域偏在。○薬価差益に依存した経営体質。○はしご診療。○社会的入院。○長いといわれる入院期間(国際比較)○病院志向。などであります、多くが皆さんの耳にも入っていることかと思いますが、それぞれが独立したものではなく、医師の説明不足ははしご診療を呼び、医療に対する不安が病院志向を産み、ますます混み合った医療機関を作っているのです。
 そういう問題点を踏まえて、保険制度(上記のような問題を解決すれば、相互扶助的な保険制度で、幾分自己責任部分を増やす程度で保険制度を存続させた方が国民の健康と福祉のためによいという立場をとります。完全に自己責任を追求し、国民皆保険制度の維持にこだわらないという立場はとりません。)の信頼と安定を維持する為には、無駄のないより効率的な医療提供体制の確立を目指さなければならないのです。今後の医療提供体制のあり方とその中で市立宇和島病院がどうあるべきかは、次の機会に譲ります。戻る

2001/4/19 市立病院の建て替えの前に
 多くが採算に乗らない公立病院が多い中、あえて財政危機の宇和島が「市立宇和島病院」の拡張改築を進めようとする理由にその病院が黒字で経営を続けているということをあげる方がいらっしゃる。果たして実体はどうなのでしょう。皆さんご存じの通り、企業会計の中では、購入した資産には、年がたつとともに価値が下がっていく物(建物も機械や車も)があり、それらの価値を正しく評価するために、減価償却という資産・設備の評価替え(減価)を年々行います。そういった償却が成されておらず、単にお金の出と入りを計算して黒字経営だとしているのが実態です。そして、過去の黒字部分は設備更新のための積立金に回されることなく市の一般会計に繰り入れされているのが実態です。
 さて、この市立宇和島病院は、災害拠点病院(南予では市立八幡浜総合病院と市立宇和島病院)・救急救命センター(県内で県立中央病院と県立新居浜病院と市立宇和島病院)・結核予防法による指定医療機関(国立愛媛南病院の代わりに)の機能を持っています。そして、収入は550床の入院患者から70%、一日1200人の外来患者から30%を得ていると言います。
 そこで、石橋市長は、現在の規模で現状のままの機能を守ることが地域ニーズではないかとして、入院病床数を500床に減ずる他は、現機能のままで建て替えすることを私案として持っているようです。立地については現在地周辺を考えているようです。
 しかし、三時間待ちで三分診療(長時間の待ち時間に対して、説明の不十分な診療)だとか、医療機関の機能分担が不十分なための大病院志向であり、その結果の見せかけの黒字であることに目をやるべきではないかと考えます。すなわち、今後の地域医療のあり方を考えたうえで、その中核として、この病院がどうあるべきかを考えて、建て替えを語るべきと考えます。戻る

2001/4/9 財政再建・一律カットかゼロベースか?
 予算の一律カットなら、各部署は努力しても努力しなくても別に関係ない、「どうせカットされるのだから」と言うことになります。やはり、ゼロベースで予算を見直すことが必要でしょう。それでは、具体的にどの様にして、「ゼロベース」を導入するのが良いでしょう。まず、既得権という大きな壁、そして人事評価が減点主義になりがちな役所の組織を変えることを考えなければならないと考えます。一律カットでは、既得権は大方が守られたままになりのす、施策の重点分野は変わらないことになります。また、減点主義では、懸案への新たな取り組みや独創的な取り組みを積極的に促すことはないでしょう。長年懸案であったことに挑戦したり、独創的なアイデアで成果を上げたことを評価する加点制度を作らなければ、変革への動機は起こらないと思います。与えられた職務だけを去年と同じように行っていれば減点されないから、俗に言う「お役所仕事」がまかり通ってしまうのです。何をなすべきかを自らの意志で決定して、その目標を達成するために努力して結果を出した職員を評価しなければならないのです。
 そうすることで、「削るべきところは削り、加えるところは加える。」そういう、メリハリの効いた行政へと改革ができるのです。戻る

2001/3/19 ゴミ処理のコストは誰が払うのか(その1)
 94年に宇和島青年会議所では、創立40周年の記念事業の一つの柱に環境運動をあげ、宇和島市域のゴミ処理有料化促進運動を行いました。半透明ゴミ袋導入とゴミ袋の指定・有料化によるゴミ減量を目指したものでした。具体的には、分別の具体例を示したポスターと半透明袋をパイロット的に市内の1000の世帯で使ってもらって、減量状況などをアンケート(結果)で集めるという事業であります。ゴミ袋は3種類。燃やすゴミ・燃やさないゴミ・リサイクルゴミの3分別を目指したものでしたが、市では約1年半後96年4月から燃やすゴミ・燃やさないゴミ2種の半透明ゴミ袋で「指定ゴミ袋での有料化」が始まりました。
 さて、あれから各地で指定ゴミ袋(主に半透明なものなどで)の導入が進むなど、家庭ごみの有料収集に踏み切る自治体が増えていますが、結果はいかがでしょう。全国で何らかの有料化を実施している自治体は42%だそうです。有料の指定ゴミ袋やステッカー制を採用しているところが多く、その価格が袋は平均32円ステッカーは84円(全国都市清掃会議調べ)といいます。宇和島でも2割以上の減量の効果があったのですが、どこの自治体でも2割から3割の減量の結果は出ているそうです。しかし、数年を経てこの小手先のゴミ減量策は、根本的な対策ではなくゴミが将来的に減っていくことまで約束するものではないことが明らかになったのです。
 つまり、こう言うことであります。例えば、ゴミ減量をあまり心がけていないお隣さんと半分にゴミを減らした家庭とのゴミ処理のために直接支払う費用の差は、月に8回の収集日に2倍のステッカーを使ってゴミを出したとしても、月々の支出の差はたかだか84円×8枚の672円なのです。ですから、ゴミを出す量が少ない人ほど経済的にメリットがあるからゴミをどんどん減していこうという動機として継続して感じるには不十分な負担額であるということです。確かに、ゴミを少なく出す人は少ない負担で済み、多く出す人はその量に応じて多くの負担を負うシステムという形は採っています。しかし、自治体のゴミ処理の費用(もっとも、このコストには昨今問題になっているダイオキシンの問題や環境に極めて危険な処理を続ける最終処分場の問題などを解決するコストは入っていないのですけど・・・。また、この話は後日)を全額各家庭の負担で賄おうとすると月額で3千円から5千円の出費が必要であるといわれており、現在そのほとんどは税金で処理され、その一部(1/5にも満たない額)が有料になったに過ぎないということなのです。やはり、電気代や水道代などのようにゴミを出せばその処理代を負担するのが当然なのだという位置づけが必要なのだと思います。ゴミ処理を完全に有料化して、住民税を下げればいいのです。もしくは、ゴミ処理費用で浮いた資金を明確に環境整備に使うなど使用目的を定めた財源として利用すればいいのです。一番解りよいのは、ゴミ処理を一般財源から切り離して、袋やステッカーの販売代金で行うことです。宇和島も含めて、八割の自治体で一般財源の中でゴミ処理が行われていますが、そろそろごみの問題解決に本腰を入れるべきです。
 本当は、各自治体のごみ処理費用についてまで、製造者の応分の負担で賄われるべきであろうと思っています。だって、メーカーの工場の無い自治体はそこから税収を得られないのに、国の財政が苦しいからと、地方交付税は減額されると言うし、このさい消費サイドに処理費用のほとんどを負わせる現在のゴミ処理システムを見直すことが必要だと思います。容器包装リサイクル法が施行はされていますが、ごみはいっこうに減っていないでしょ?戻る

2001/3/6 商工業者の目から見た市町村合併/北政会講演用レジメ
先日、北宇和郡内の町村の議員さんの勉強会に講師としてお招きを頂きました。その際に、お配りしたレジメを掲載いたします。

1.ビジネスサービスと行政サービス
  @車を走らせ、情報を発信し、人が移動してビジネス。
   サービスの提供に、市町村・県境という認識は無し
    ビジネスも、昔は地域の立地による寡占・独占状態
      理由)特約店制・交通網の未整備・情報技術の未発達
   A行政は地域最大のサービス業 しかし競合が少ない状態(寡占>独占)(今までは)
  B地域間競合の激化・地域への帰属意識が希薄に・交通網・情報技術
2.企業合併と市町村合併
3.社内カンパニー等の理論と合併・買収の理論
  @社内カンパニー等=分社・事業部制・出来高払い・歩合制
    自主責任経営の確立
    中小零細企業づくり⇔他人事から自分事
    リストラ危機⇒自分の雇用は自分で守る
    自らの事業を成長させれば本社を上回る賃上げも可能!
     東芝=製品ごとの小さい事業単位のほうが、ライバル企業や市場環境を見据えた戦略を立案しやすい。
  A合併は生き残り策?
    伊藤忠と丸紅の鉄鋼部門=単純な企業合併は生き残り策として必ずしも有効でない。「総合」の看板を下ろし、それぞれ部門別に最適なパートナーを見つけて組む "部門統合"
    国際的な情報関連事業体の離合集散
    生保・損保・金融の複合提携や石油元売の合併
4.理念無き合併/お上からの合併
  @広域連合よりも市町村合併?
   補助金・交付税政策による誘導に乗る?
  A理念のない合併に未来はない?
   まず、合併ありきではない。(愛大・藤目教授)
5.「地方の時代」という次代を生きる
  @CI戦略(その1)
    コーポレート・アイデンティティ⇔コミュニティー・アイデンティティ
    広報⇒広報する情報が必要
    イメージアップ⇒発信する地域イメージの創造が必要
  ACI戦略(その2)
    役所のCI
     住民のために何ができるのか?
     心の通う、開かれた分かりやすい行政
  B理念⇒地域の独自性・特徴
     先立つものが必要か? 金⇔理念
  C財政権限を伴った地方分権 ⇒主権は地方にある
  D地域の自立 ⇔歳出統計の2/3が国から地方への仕送り、租税総額の1/3が地方税収入
    法定外目的税⇒創設
            =特定の政策目的の財源に充てる地方税(三重の産業廃棄物埋立税)
    法定外普通税について許可制(自治大臣の)⇒協議・国の同意制へ
            =条例で普通税(使途制限なし)を課税(核燃料税・砂利取得税)
  E住民参加による行財政の効率化 PFIやNPO、コミュニティービジネスの活用  戻る

2001/3/5 市場原理の中で環境問題を解決する為に
 規制緩和が趨勢の昨今でありますが、改めて行政の仕事は何かと考えますと、一つに短期的に市場原理にのみ任せていると将来的に大きなコストを負担しなければならなくなるような問題、例えば環境破壊の問題を法的規制によって市場の中に組み込んでいくことだと思います。自由競争の経済優先の社会がどれだけの環境を破壊してきたことか、水俣病やイタイイタイ病も薬害エイズも公法による充分な規制が有ればこれらの悲劇はありませんでした。また、環境ホルモンの問題も、化学汚染、地球温暖化、オゾン層の破壊なども、全ての環境問題は、国家権力が国民に対して制限を加える法の不備によるのであります。生物の生存環境の維持を第一に考える価値観で企業の経済活動が行われたり消費行動が行われるよう、グリーン経済の確立を目指す施策(強制力のある)をとることが行政の役目ではないかと思います。自由経済の中で生存環境や資源の保全、環境修復を義務づけるためには、そういうコストを製品の価格に組み込める規制が必要なのです。環境税の種類は、リサイクル税(ドイツの廃棄物規制令)、環境修復税(森林修復税)、原料税(途上国からの輸入原料と先進国の再生原料の価格差のせいでリサイクルが進まないことが起きる、そこで輸入原料から作られた製品のほうが高くなるように輸入原料に課税するというもの)、ペナルティー(環境に有害なものに対して中止を促し、代替品の開発を助成する規制/フロン税・炭素税等)、大口需要税(大口需要に対しては累進的に割高にする税金)などです。環境コストを製品の価格に組み込み、経済の減速があったとしても、環境の保全修復に資金を回すべきだと思うのです。戻る

2001/2/28 地方分権ではなく主権は地域にある。
 戦後復興の日本の行政の目標は、「社会資本整備(その名を借りた環境破壊である部分もあったと思いますが)」であり、ほとんど行政主導で国・地域づくりが行われて来たと言っても良いでしょう。それは民間に社会資本整備にまわす力がほとんどなかったからでもあります。しかし、現在、民間の能力は行政をこえていると言われています。当然でありましょう、民間は多くが市場という土俵の中で競争して訓練を受けているのですから。そして、護送船団方式などと揶揄されるように、政府が大企業や業界を保護し、本来なら負担すべき行政からのサービスの対価を充分に負担せずに国際社会で勝ち抜いて来たのです。そうして、国だのみ・公共事業だのみの企業体質が出来上がったのです。その体質は、地方自治体も同様に持っているようです。実質的な権限は国に集中しており、地方は常に中央の顔色を見て、国から少しでも税の再配分の分け前をたくさん取ろうと躍起になっているのです。そもそも、地方には地方の自治が認められ、憲法94条で、「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。」とし、「財産を管理し」とは、財産を取得・利用・処分することをいうとされています。つまり、けして地方自治に関する規定が充分であるとは言いませんが(アメリカで、各州レベルの憲章や基本法を制定す.権限を与えられるているのと比べても、法体系の中で下位にあたる条例の制定権しかない)、一応は自治権を持つと考えても良いでしょう。
 一方、国は巨大な財政赤字を抱え、今後の社会構造の変化(例えば、少子高齢化)、景気低迷による税収不足は明らかです。国が地方に分け前を与えるという従来の構造を維持することには無理が生じてきたように思います。そこで、自主財源を中心とする地方財政基盤の確立を促し、中央省庁からの縦割りの画一的な施策・システムから脱却した地域社会の形成(合併議論もこの部類)が必要とされています。
 つまり、ポリシーのある規制緩和(後日、触れてみます)と例外のない情報開示によって、民間の活力と自治意識のある自治体行政でつくる「地域経営(タウンマネジメント)」が必要になっています。国のすべきことと、地方のすべきことを明確にし、分権ではなくそもそも主権は地方にあるという意識でもって、あたらしい国の形を作る時かと思います。戻る

2001/2/25 今どきの情報公開
 情報公開というと、なんだか市民の側から「行政に関するある文書を、隠さないで公開してください」と要求していくものと思われている方がいらっしゃるかもしれません。そして、事実、情報公開法は請求があった場合に開示することを義務づけるものなのです。しかし、情報公開に先進的な行政体は、要求によらず全て?の情報を公開しようという方向にあります。たとえば、北海道のニセコ町は、町民向けの予算説明書を作っています。「ある路線の道路工事をいくらかけてやる。」ということをオープンにします。すると町民は、「そんな工事よりも、こういう事業をやってほしい」という意志決定ができますし、それぞれが意見を持つことにつながります。すなわち、行政と市民が情報を共有することで、政策決定は行政だけでなく、みんなが一緒に考えて行おうということになるのです。(もっとも、都合の悪い情報まですべて開示されことはないでしょうから、そういう点について、ポイントを捉えて公開を求め、示された情報を検証していくことも大切だとは思いますが・・・)
 また、行政の情報公開に応えるためには、まず私たち自身が地域の問題を自分のことと捉えること、そして、その情報を分析する力を持つこと、どういう情報をチェックすれば良いかという情報を得ることも必要です。そして、情報公開で出てきた情報を「市民の中のあらゆる人材を人財として」行政参加してもらうための道具として使えればと思います。戻る

2001/2/20 情報公開法で社会はどう変わるか? 
 北海道ニセコ町「情報公開条例」は有名ですが、今日の読売の論陣は必見です。テーマは、この4月からスタートする「中央省庁の情報公開法によって、日本の政治と行政がどう変わるか」です。
 前にも、触れたことがありますが、三重県知事の北川さんの論調は、まったく今まで私がこのページで主張してきたことに近いと感じています。すなわち、情報公開が行われると、@市民は当事者として地域づくり(政策決定)に責任を持たなければならないと言うこと。それを北川さんは「観客民主主義」よ、さようならと表現しています。そして、A私の主張する「新しい民主主義の形」を北川知事は、「お任せ民主主義」から「国民や住民と『協働』で国や地域を作る民主主義」へ変わると表現し、要求型民主主義から理論的枠組みの変化があると言っています。また、BIT革命で、情報は誰でも求める者が瞬時に得られる状態になり、そうすると、人と人が対等にパートナーシップによってつながった社会へと構造変化が起こるだろうということ。そして、私が最近念仏のように唱えるC「タックス・ペイヤー」という意識であります。政治家のつとめが「税金を納める側の理論」で動くことであるのは当然でありますが、(北川さんは、「タックスペイヤー」の論理に立たない政治家は成り立たないと主張しています)私達自身が税金を払ったらそれで終わりではなくて、「道路を造ったり、ゴミを処理したりといったすべての行政サービス」は、我々の税金で賄われていることを意識しなければならないということであります。すなわち、この情報公開でもって、生活者に軸足をおいた新しい「国の形」が作れるのではないかという事まで感じています。情報公開と革命的に発達するITによる情報交流は、政治や行政の姿をがらりと変えてしまうはずです。不正を行う輩を権力の座から追い落とすためには、情報を武器として戦っていくのが一番良いのでしょう。さぁ、情報という武器でもって既得権に群がる輩を駆逐いたしましょう。(引用部分は文字色を変えています)戻る

2001/2/7 ネット上の世論(1/21読売新聞の記事「IT革命の中国」電子民主より)
 中国共産党機関誌「人民日報」のインターネット版「人民網」には投書欄「強国論壇」があり、このネット投書欄は、99年春に開設され今では国内外から日に20万件のアクセスがあるそうです。その人気の理由は、辛辣な投書をも掲載するその自由度にあるようです。当然匿名の投書も受け入れ、法規に反しない限り、自由な投稿が許されているのだと言います。担当者による削除は、5%程度といいます。「市民には訴えたいことが増え、政府もその多様な意見を集約する必要が出てきた。民意を重視する一部の指導者も『論壇』を見ており(同欄の継続を)支持している。政策の参考にする部門さえある」と蒋副編集長はコメントしています。また、党機関誌は読者離れが進んでいるということですが、「影響力のあるメディアに育てるには、アクセス数と広告収入を増やして経営体力を付けることが必要。その目玉が『論壇』の自由さと民主機能」(編集者)であると考えているといいます。
 また、記事の中に、北京市人民政治協商会議ネットへの市民の匿名メールが紹介してあります。それは、「ラーメン屋の騒音がひどい。何とかならないか」というもので、政協委員が関係当局に連絡し、同店は翌日、休業に追い込まれた。とのことです。他に北京五輪誘致、大気汚染や交通渋滞・・・。約300通のEメールが年に1度の会期中に寄せられ、議題に取り入れたり委員がネットで回答したりした。このネットは、「当局と市民間の風通しをよくするのが目的」といい、来年には737委員のネット私書箱を設置するといい、「今後利用層が広がれば、行政に対する市民の監督機能が高まるだろう」とネットを開設した戴副主任は話しています。「村長の不正は直訴しかなかったが、今は匿名メールで告発できる。」広大な地方組織の汚職を監視する手段としてもネットが活用されている。ともいいます。別に、目新しいことが書いてあるわけではないのですが、中国での取り組みであるという点、そして、当局者がその効用を素直に認めているところ、ひょっとすると、宇和島は負けているかもしれません。匿名メールでも、それが改革のヒントになる可能性もあるわけで、市民の声である限り、全てに目をやるべきです。すべてを公開するべきだとまでは言いません、しかし、自分たちに都合の悪いことでも公開して、それに答えるだけの度量を持って欲しいと思います。
(引用部分は文字色を変えています)戻る


2001/2/5 地域づくりにみんなの力を
 今日は、市議の上田さんと、津野さん、梶原さんと居酒屋談義いたしました。公開討論会の企画のために立ち上げたメーリングリストで出会った4人(個々にはお付き合いのある方もいらしたのですが)です。今後のネット利用の話から、インフラ整備、それぞれが今まで経験した仕事やプライベートで行政と接したり(サービスの受け手として)、行政参加した(構成員として)際の出来事など、沢山の話が出来ました。7時から11時まで割り勘で2千円。とても有意義な話だったとおもいます。何を成すにも、人材であります。ただ、人材は隠れています。いまのご職業からは思いの寄らない経験がある方、常に外に目を向けて自社のサービスの拡大を続けている方。たった4人集まっただけで、人材が人財であるとつくづく感じてしまいます。やはり、この能力(活力)を活かさない手はないのです、そして、その活力を活かすためには、自由闊達な意見交換の出来る場、沢山の人の意見が聞ける場というものが必要だと感じました。先の石橋新市長とお話しした際にも出てきた話ですが、@ネットワーク活用の継続と拡大A(真の)市民参加による地域づくりのための会議体の設置を考えていらっしゃるようです。そんなとこから、草の根でネット会議(うわじまづくり会議)の立ち上げを考えてみました。ご意見いただければ幸いです。戻る


2001/2/1 「21世紀『環の国』づくり会議」 
 森首相が、環境政策を官民一体で検討する私的懇談会を発足させるとのことです。「地球と共生する『環の国』日本の実現」というお題目を唱えて、「大量生産、大量消費、大量廃棄」の社会構造を脱し、資源の有効活用で環境への負荷を減らす「循環型社会」の実現を目指すという。いつのころからか、政府もさかんに環境の時代と言い始めました。ところが、経済産業省(通産・経企)やその取り巻きは、環境への取り組みをストップすることさえあります。どう考えても、「大量生産・大量消費のバブルよ再び」という、誤った経済政策を採っているとしか思えないのですが・・・。例えば、有明海の海苔の問題(自民党の取り組み)(民主党の取り組み)、多くの環境学者・環境保護団体は「NO」と言ったはずです、事業効果のこじつけはまだしも、省のメンツや土木業者の為の公共事業という感さえある景気刺激策は、すぐにやめるべきです。公共工事は全て見直し、環境先進国に習い、環境を元に戻す事業への投資に変更すべきです。もう、便利快適を追い求める時代は終わったはずです。便利さや快適さ以上に生存環境を子供達の世代に残すことの方が大切なはずなのにね。森首相の施政方針演説のテーマの一つ「環境」でありますが、どう変わるのでしょうか。戻る


2001/1/29 新しい民主主義実現の形宇和島でも。
 昨日の市長選挙で当選した石橋氏とお話を致しました。お祝いを申し上げ、二点ほどお願いを致しました。一点目は、(現在のメーリングリストのメンバーに引き続きご参加いただいて続けるか、このまま「eGroups」のシステムをお借りして続けるかは別にして)市長と意志ある市民が直接対話できる、メーリングリストや掲示板などのシステムを残していただきたいということ。これは、このメーリングリストが石橋新市長と私達(この複数というのが大事)をつなぐ、便利なツールであると考えるからです。メーリングリストの開設からの経緯でみなさんご承知の通りでありましょう。つまり、市民の誰もが参加できて(加入時の垣根は一切設けておりません、また発言内容の検閲も致しておりません)、「誰が」「どういう発言」を「いつ」され、そしてその発言が石橋氏本人に届いているということが参加者(mlに登録している人みんな)に全て公開される、そういうツールは、今まで審議会・委員会メンバーに加わらなかった人がまるで会議に参加したように意見を伝えられる機会(それも安価(殆どコストの要らない)に参加できる)を得られる便利なもので、まさに真の民主主義の実現の手段となりうると考えるに至りました。そして、弁舌よりもひたむきに説明しようとするテキストでもって平等に会議に参加するチャンスが得られると言うこと、また、殆どが手弁当で参加してくれる(日当や交通費無しで)というツールなのです。また、「IT」「IT」と言われる、今や世間一般では、常識になりつつあるツールでもあります。そして、特に強調したいのは、議論の過程(過去のメッセージの閲覧が可能な)がオープンであるため、誰が発した意見であるかと言うより、その意見の正当性でもって意見が採り上げられる可能性が高いという意味でも、とても良いツールだということです。
>石橋氏からのコメント/文責武田
>石橋氏は、メーリングリストのメッセージにすべて目を通しているとのことです。
>また、今後も、この情報ツールの利用については、積極的に利用しようと考えて
>ますとのことです。
 そこで、当面、このメーリングリストを利用して、期待の声やご要望をどんどんぶつけて参りましょう。

 そして、お願いの二点目は、今までの形骸化した審議会・委員会委員制度を見直して、真に市民の意見の聞ける市長直通のオープンな組織を作って欲しいということです。これは、市民の一般的な感覚からかけ離れた選択を過去の審議会・委員会制度のもと(外形だけ民主主義のルールに則った形で)なされてきたことが疑うべくもないことであるからです。審議会や委員会を充分に機能させるためには、市民がその社会的立場や発言力によらず、意識の高さや知識や経験・意欲でもって審議会委員や委員会委員として参加できて、オープンに議論が出来る。そして、そのことによって、市長の施策形成の段階に影響を与え、施策決定後は施策に市民の世論のバックアップを与え、そして施策の実行のチェックを怠らない、そんな市民参加の出来るシステム改革をお願いしたいとお話をしました。例えば、行政改革を進めるにも、市民が平凡に一般的に持っているだろう、一部の市職員の仕事とそれに対する給与評価のアンバランスの問題や入札における談合の疑念などなど、今までクリアできなかった、行政の長として判っていながら大鉈を振り下ろせなかった部分については、私達市民の声の後押しで改革を進めて行くほか無いと思っているのです。


>石橋氏からのコメント/文責武田
>今考えているだけでも、3・4の新しい市民の意見をフラットに聞ける組織を作
>りたいとのこと、行財政改革推進・市立病院の建て替えの問題・まちづくりの問
>題等々です。

以上、今までのように行政任せにするのではなく、このメーリングリストにご参加の皆さんを中心として、市民として、新たなる要請に応える準備が必要かと思います。

21世紀の地域づくりの緒とならん。uwajima_dml!  
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2001/1/24 健全な市民組織(オンブズマン?)立ち上げ
 今回市長選の公開討論会を企画してみまして、100人を越えるメーリングリスト(当初、市長選の公開討論会の準備や立候補表明者への質問の場として設置したもの)の参加者がおられました。みなさんがまたそれぞれに問題意識を持って集まった機会を無駄にするのはすごくもったいないと感じています。たとえば、ボランティァ(ここでは、自らへの直接的便益を求めないという意味で使っています)のアドバイザリースタッフ(個人)や政策集団を目指すのも良いでしょう。「是は是、非は非」として行政とバランス感覚(偏った考え方をしない)でもって対峙する健全な市民組織は作れないものかと思っています。この日本や宇和島を今の状態にしてしまったことは、タックスペイヤー(税金を払う者)としての自覚に欠けていたことに原因があると言っても過言ではないでしょう。株主でさえ、あまり経営に口出ししないという国民性があったのですから、殆どの国民が親方日の丸に全幅の信頼を寄せて、野党支持者を白眼視したりすることがあってもしょうがなかったのでしょう。しかし、もう政治屋や官僚に政治を任せていてはいけないということに国民の多くが気づき始めたのではないかと思います。政権に対峙する健全な勢力の存在は、為政者の緊張感を増し、健全性・透明性を高めるでしょう。なんでもかんでも反対の政治組織としてでなく、当事者(その国やまちに住む人間)として、当然のこととして、行政や立法(議会)をチェックできる組織や個人が必要だと思います。「ありばい民主主義」とも揶揄されるように、外形としては、外部(市民や専門家の)の監査が行われているように装うことで、ここまでこの国や地域はだめになりました。そろそろ、この地域でも、健全な市民運動としての政治参加が必要と思います。戻る


2001/1/23 ゴミの減量は命がけ
 少々古い話ですが、岐阜県の御嵩町の町長が襲われて重傷を負う事件がありました。氏が処分場建設に慎重な姿勢を示していており、事件前に処分場建設に関する脅迫が続いていたことから、同件に関わる暴力事件ではないかといわれています。
 御嵩町では、産業廃棄物処分場の是非を問う全国初の住民投票もありました。当然、結果は「NO」でありました。全国で今後ますます処分場の立地は難しくなります。しかし、その迷惑施設を受け入れる地域に、見返りとして大量の資金を投入することをいつまで続けていくのでしょう。まず、必要なのはゴミを減らすことなのです。ゴミを出さないこと、そしてリサイクル、処分場の無害化。そういうコスト負担が必要なはずなのです。ところが、この「ゴミを減す」という事業、ゴミ処理を生業とする方々にとっては、死活問題となります。ゴミの減量は、土木工事と同様、巨額な予算組がなされるゴミ処理予算の減額を意味します。そうなると、既得権を守りたい業界の中の悪質な者の中に暴力に訴えてまで処分場の建設を推進しようという者が出てくるのではないか?いえ、少なくとも脅迫して自分の都合のために物事を進めようという輩が居るということは確かのようです。宇和島では、宇和島青年会議所が40周年の記念事業でゴミ処理の指定ゴミ袋による有料化という減量策の推進を行ったのですが、幸いなことに、私に嫌がらせなどはありませんでした。戻る


2001/1/12 IT時代の民活
 このページからはご無沙汰をして、心苦しく思っています。さてさて、ご無沙汰の原因の一つに宇和島市長選立候補表明者による公開討論会の準備にかかっていることがあるのですが、ホームページのアップロード、BCでのメール配信(私のつきあいの範囲内の)、メーリングリストの立ち上げ、プレスリリース、事前告知記事とまいりまして、私の元へのメール・電話・FAXなど多数頂いています。そのほとんどが好意的な内容ですが、そういった励ましもさることながら、こういう新しい(もう、世間にあふれているのだけどあえて)媒体を使った、情報交流の力をつくづく感じています。公開討論会の準備はほとんどはメールを使って行っております。昨今、ビジネスシーンでの利用は当たり前ですが、まさに市政運営の中にも有効に機能するという時代が来ているだろうと改めて感じています。旧態の縦型社会の中で外形こそ民主主義的な手続きをとっているような風があっても、その実いつも同じ顔ぶれの審議会や市民懇談会が(私が経験した公職はこちら 参考までに)現在の地方の財政的・政策的危機の一端を担っていることは確かだと思っています。守旧的な、悪くすれば既得権益を守ろうとだけする人の害で今の地域があると思いませんか、今回のわたしのトレーニング(公開討論会の準備)の最中に耳に入ってくる言葉は、ほとんどが、「自分達の声が届かないので、なんとか届けて欲しい。」とか「誰もが、みんな平等に地域のあり方について意見が述べることができて、誰の発言かではなく、どんな発言かで発言の評価をする価値観に変わっていくることを望む」意見が多くございました。限られた時間で開催される公開討論会ですから、全てを網羅して質問することはできません。しかし、市民の皆さんから頂いた質問は、全ての候補者に平等にお示ししています。全ての候補者に対し、この機会に出された市民の疑問や意見がすべて届いている状態です。それらをヒントにして候補者の皆さんが、いかに選挙戦で自分の意見を伝えてくれるか、市民の疑問に答えてくれるか、まさにその点を見きわめることが大切なのかと思っています。
 人は、全てを備えた神のような存在ではありません。市民が皆で知恵を出し合うことが必要です。行政サイドからは、市民一人一人に知恵を出すことを求めて知恵を集める努力をし、活かすことに努めるべきです。今まで行政が得ていた民間からの活力で十分などとはまさか思っていますまい、活かせるものは活かす、そういう効率化が必要です。そして活かすためのツールとして、インターネットを中心とした情報技術は最高の役目を果たしてくれるのではないかと考えています。戻る