第5章 結論として
「明るい豊かな社会を築き上げよう」


第1話 教科書の周辺について

1)「採択」、実質採択するのは教師である。

 教科書のひどい歪曲の現状を「教科書の現状について」や「南京大虐殺」「従軍慰安婦」で見てきたが、なぜこのような教科書が採択されてしまうのだろうか。教科書を取り巻く状況について少し触れてみたい。

 採択は各市町村の「教育委員会」によって検討され採択される。しかし、現状は全教科の教科書を教育委員会だけで選定することは困難であり、その下に「調査員」が設置される。調査員はほとんど教師によって構成されている。そこで検討され、良いとされる数社の教科書が最終候補として絞り込まれる形になる。絞られた中から最終決定するのが教育委員会の仕事となる。(他に学校投票制もある。国立私立は校長が決定する。)二つとも自虐度の高い教科書が最終候補として残ってしまえば、そこからいい教科書、よりましな教科書は選ばれるはずはない。

 そこで問題になってくることがいくつか見つかってくる。調査員は誰なのか、なぜその教科書が選ばれたのか、決定に至るいっさいが情報公開されていないという点である。

 明らかな不自然さが、教科書の周辺に起こっている。たとえば、新潟県議会の風間直樹氏(当新しい教科書づくり委員会委員)の質疑中、調査員と教科書会社の関係について質された義務教育課長が「自分の教員在職中、両者の間に物品の供与を通した関係も、事実としてあったと聞いた」と答弁し、議会に波紋を呼んだ。現在県警によって調査されている。宮城県で使用されている公立小中学校の社会三教科(歴史・公民・地理)は、過去10年間東京書籍に独占されている。原因として考えられるのは、教育委員会のOB四名が東京書籍の関連会社に天下っていた癒着の事実が指摘されている。

 まだまだ周辺から出てきそうだが、私にはもっと深刻な問題があるように思える。それは、調査員が誰であれ、普段直接関わっている筈の教師達が、なんの違和感を覚えずにこの教科書で教えているという事実ではないだろうか。微妙なニュアンスを言うのではない、「教科書の現状について」で見てきたようなあきらかな歪曲の内容についての指摘が、外部からしか起こらないこと。これが大きな問題だと思うのだが。気づいて個別に授業で補おうとした教師もいるであろうが、なぜこの問題を自分たちの手で取り上げ問題にしなかったのか。一部の調査員の判断を云々するより、この問題の方が深刻ではないだろうか。外部からの指摘がなければ、あの「乳房切り残虐壁画」は今もなお掲載されていただろう。

 教育界の異常と思える事態について、新聞その他のマスメディアから知り得たことをもう少し触れておきたい。ひとつに関係者の自殺が、組合勢力の活発なところで多発していること。広島世羅高校の校長など耳目にまだ新しい。他県では勤務評価オールBでも、過去につるし上げで自殺者(三重県四日市教育長)が出ている。ほかにもまだでている。幾度となく不幸な結果を招いたことに対し、果たして真摯な改善が行われてきたのだろうか。あるところでは就業中に組合活動を慣例として行って来て、不正給与の実体が明るみに出るまで何ら疑問を持ってこなかった。教科書問題と同じく、外部から指摘がなされるまで現状に気づかない特徴があるようだ。さらに問題点を指摘した常識ある教育者達に、何処よりか卑劣な脅迫・圧力がなされるなど、教育界とその周辺では、人間教育とほど遠いと思える首をかしげるような事柄が続出してはいないだろうか。校長と徹底的に戦うためのマニュアルを作ったり、反日の丸、反君が代で教育をそっちのけにしてイデオロギー闘争に子供達を巻き込んではいないだろうか。教科書・教育界のありよう、このような「教育」にふさわしくない自浄能力の欠如した状況に読者は何も感じないか。

 「教育の現場では、教科書がどうのといってい.暇などない。大変なんだ!(だから素人が口など出すな!)」と言って逃げおおせるものではない。確かに教師たちのストレスも近年強くなっていると聞く。学校に問題が多いことも知っているつもりだ。しかし子供を救えるのは大人達しかいない。この現状を大人が解決しなければならないことなのだ。

2)「反戦平和教育」と「愛国心」について

 「反戦平和教育」「教え子を再び戦場に送るな!」、その聞こえのいい言葉の真の意味は、「近・現代の歴史学習を大切にし、加害の面に視点をあてた実践が重要」(日教組第35回定期大会資料/運動の過程と今後の課題1999,5/295/30)と明言されているとおり、自虐教育を意味している。つまり「反戦平和教育」は、自虐教育そのものであると言えるのではないか。太平洋戦争において「日本は悪かった」と教え、どんなことがあっても二度と戦ってはいけない、アジアに謝罪し続けなければならないとても罪深いことを祖父達は行ってきたんだと教えることが平和教育だとしている。さらに多感な子供達を「平和博物館」なるものに連れて行き、いいかげんな残虐写真を見せ、ひたすら強烈な印象を与え罪悪感を植え付ける。「詳細な事実確認よりも、ひたすら日本軍の酷さが伝わればいい」(ある現役教師の文書)と思っているのであろうか。子供達への影響は大きすぎる。(あなたたちの地域の子供達は、そのようなところへ連れて行かれていないか?)そして国家意識を世界に類を見ないほど低くするのに、現在の教育が大きな役割を担っているように思えてならない。

 総務庁が発表した「第4回世界青年意識調査」(1988年調査)によると、「あなたは自分の国のために役立つことであれば、自分自身の利益を犠牲にしてもよいか」と言う質問に対して、「はい」と答えた者は、「アメリカ70%、シンガポール70%、中国65%、韓国62%、スウエーデン48%、英国48%、西ドイツ41%、日本は13%」で、この国の愛国心は世界で最低と言える。読者は読みながら軍国主義を思い浮かべ気にしていると思うが、世界の中で、「愛国心」の言葉さえ使えない国は、おそらく日本だけだろう。

 我々は、決して軍国主義者ではないし、これからも軍国主義に陥ることはない。世界の意識とあまりにもかけ離れた今の日本の状況第1章・第1話世論調査から見える自信の喪失や上記アンケートの愛国心の欠如)が、いつか回復不能なところまで落ちてしまわないうちに、少しでも修復したいと願うだけである。今の日本はそれさえも受け付けない状況だろうが・・・。

 「教え子を再び戦場に送るな」の気持ちは分からなくはないが、筆者にはどうしてもそのスローガンは正しいとは思えない。「人間らしく生きる」ことを守るためには、命がけでそれを守らねばならない場合も時にはあるのだということを、子供たちに教えることが大切な人間教育のひとつだと思うからだ。人間らしく生きたいという気概や、命よりも大切なものがこの世にあることを教えられない教育など必要ないと思う。そんなもの絶対いらないのである。全てを失ってからいったいどうしようというのか。

 日教組が掲げる反戦平和主義の、湾岸戦争時にも見せた、戦争や侵略で混乱している国を救ってもいけない。アメリカなどの後方支援をしてもいけない。この趣旨のどこに、平和の思想がある? あるのは一国平和主義の、世界に通用しない愚かなエゴではないか。独りよがりの理念に酔いしれて、大切な友人を見殺しにしろといっているようにしか聞こえない。

 我々は、教師だけにすべての責任を押しつけるつもりは毛頭ない。日本を包んでいるうす甘い自虐に対して、大人がまず変わらなければいけない。歴史と教育にもっと関心を持って、積極的に関わっていかなければならないと考えている。この国の教科書をいっしょに考えいいこう。

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