3)開戦責任の法律的、政治的な問題について

 それでは、昭和天皇の開戦に関する責任について法律的な問題はどこにあるのだろうか?帝国憲法第13条には「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ諸般ノ条約ヲ締結ス」とあり昭和天皇が内閣の秦請に対して「開戦の詔書」に署名なさった行為は、この条文に基づいた国務大権の発動であり法的には全く問題がない。

 他方、後にも述べるように、『国家主権の発動である交戦権』というのは、過去も現在も、国際法上認められた合法的な行為である。合法的な国家主権の発動について国際法上の法律的な責任を問われるいわれはないのである。ましてや、国際法上最高の独立性が認められた国家主権の行使にあたって、これをなした元首が他国に法律的な責任を問われるということはありえないのである。

 我々は今の価値観でものを考えやすいが、法律というのは時代により社会の要請に応えて変わるものである。逆に今の日本の法律では何ら問題とされない行為でも、未来の法律では、「違法」と見なされるかもしれない。しかし、後に出来た法律で過去の出来事を裁くことは不合理であり(注)、そんな事を許していれば、我々も将来思いもよらない過去の罪で裁かれるかもしれない。また帝国憲法第55条には、その一に「国務各大臣ハ天皇ヲ補弼シ其ノ責ニ任ズ」とあり、その二に「詔勅ハ国務大臣ノ副署名ヲ要ス」とある。これは、法的には天皇の「責任阻却事由規定」である。つまり明治憲法においては、天皇の統治大権は国務大臣の補弼を要し、かつその責任は補弼した大臣が負うことになっている

 開戦行為に関しても、東条首相以下、各国務大臣の補弼(全員が一致して賛成)によって適法になされたものであり、憲法の解釈に従うならば、この行為に関しては法律的責任も政治的責任も全く生じない。驚かれるかもしれないが、これが事実である。

(注)「法はさかのぼらず」=遡及的立法の禁止、「法律なければ刑罰なし」=罪刑法定主義の原則

4)立憲君主としての昭和天皇のお立場

 先に述べたように、天皇の統治権がなかったというわけではない。統治権はあったが、立憲君主制に基づく運用上の実態が、責任ある補弼当事者が正式に上秦した事柄は原則としてご裁可になったということなのである。さらに、昭和天皇が、政策の決定に直接的に関与されるのを自制される事件が起こった。それは、張作霖爆死事件の関係者の処分を巡り、責任者の処分を求める陛下のご発言がきっかけで、田中義一内閣が総辞職してしまった事件である。これ以来、陛下は、議会と内閣の決定に直接的な異議を唱えないという姿勢を強められた。開戦にいたる昭和16年4月から、11月27日に米国からの最後通牒とされる、「ハルノート」を突き付けられるまで、日本は必死の外交交渉を進め、できるなら日米衝突を避けるべく努力を続けていた。その間、昭和天皇が9月3日の御前会議をはじめとして、たびたび「間接的」表現であるが、戦争回避のお気持ちを吐露されている。間接的というのは、陛下が立憲君主としてのお立場を尊守されたからである。

 開戦時において陛下には、閣議の決定に対して、「形式的な裁可を下された」という事実はある。しかしここで問題とされるとすれば「道義的な責任」のみであり、道義的責任とは立場や見方で変わる相対的な責任である(注)。繰り返すが、開戦の決定自体は、法的、政治的には何らの責任も発生しない。

(注)「平和に対する罪」
 天皇の道義的責任を追及するとすれば、戦勝国が戦後作り出した「平和に対する罪」、すなわち「戦争を起こし平和を乱したこと自体に対する罪」であろう。
 そもそも、これは
『法はさかのぼらず』=遡及的立法の禁止、『法律なければ刑罰なし』=罪刑法定主義の原則に違反するものであり、近代において重要な法律の原則に反する。行為時に違法とされていなかった行為について、後に出来た法律によって処罰を受ける不合理は誰の目にも明らかである。

 現在でも、「国家主権の発動である交戦権」というのは国際法上、一般に認められており、)「平和に対する罪」を当時の日本にだけ適用するのは不合理であろう。少なくとも戦勝国に日本を裁く権利があるとは思われない。なぜならば、アメリカも共産国もあれだけ多くの戦争をしながら、その後「平和に対する罪」が問われた事例はない。この事実から、国際政治上、「東京裁判」で言い出された「平和に対する罪」というものが如何に一過性で、アメリカの都合で作られた罪であったかが分かるというものである。過去100年のレンジで考えて、このような「裁判」は国際法的に無効であり、従って「平和に対する罪」への「責任」(当然天皇の責任も)そのものが成り立たないと考える。

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