第3話 教育について(教育基本法)

1.教育基本法

1)終戦

昭和20年(1945年)8月15日、国民はそれぞれの場所、たとえば子どもたちは集団疎開中の田舎のお寺などで、ラジオから聞こえてくる天皇陛下の、「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び,,,,,」という玉音放送を聞いた。
 15年に及ぶ長かった戦争は、多くの都市を焦土と化し、310万人以上の犠牲を出して、終戦を迎えた。国民の多くは住む家も無く、衣類や食料にもこと欠く状態であった。それでも人々は平和の尊さを実感し、「戦後」を受け入れようとしていた。

2)新日本の教育方針

焦土と化した国土と飢餓にさ迷う国民を背負って、多難な明日の日本を歩んでいかなければならない戦後初代の東久邇内閣が成立したのは終戦三日目の昭和20年(1960年)8月18日、文相となった前田多門は、ラジオで疎開地や学校が焼けたりしていわゆる“寺子屋”で不自由をしのんでいるこどもたちを元気づけるため、いい体をつくり、知恵をみがこうと放送した。

次に、「青年学徒に告ぐ」という放送も始まった。その内容は、武力を持たぬ我々の進む道は、文化の日本の建設であり、それは青年学徒の双肩にかかっている。科学的思考を養い、徳と知を高めなければならない、というものだった。

 現代からすればいたって平凡なものではあるが、わずか一ヶ月前には学徒出身の特攻隊員が体当たり攻撃を繰り返していたことを思えば、どれほどか新鮮に感じられたことであろう。

こういう手順からすればこんどは全国民に対して新たな教育方針を訴える番だろう。

同年9月15日教育の新しい理念が「新日本建設の教育方針」という表題で文部省から発表された。

 前文では、文化国家、道義国家建設のための文教諸施策を行うことを簡潔に述べ、方針のくだりで「今後の教育は、ますます国体護持に努むると共に軍国的思想および施策を払拭し、平和国家の建設を目途として、謙虚反省、ひたすら国民の教養を深め、科学的思考力を養い、平和愛好の念を篤くし、知徳の一般水準を昴めて、世界の進運に貢献するものたらしめんとしている」と、決意が述べられている。

 あとの各論には教科書や教職員の措置、社会教育、文部省機構の改革など10項目にわたった。

GHQからは教育方針についてまだなんの指示もない段階ものであり、今後、GHQの判断によっては修正される可能性があるとしても、終戦からわずか一ヶ月後に発表されたこの「教育方針」は、教育の大きな転換点であった。

3)民間情報教育局 Civil Information and Education section

 先に発足したESS(経済科学局)につづいて、GHQ内に文教政策を担当する部門、すなわちCIE(民間情報教育局)が正式に発足し、日本の文教政策が日本の「自発自立」では行えなくなってきたのは、「教育方針」発表の一週間後、9月15日である。

 他の八局が10月に発足するのに、それにさきがけて作られたのは、アメリカ側がいかに日本の軍国主義教育の一掃に神経をとがらせていたのかのなによりの証明であろう。

そしてCIEは東京・千代田区内幸町の旧NHKビル(放送会館)の四階に本拠を置いて、日本の教育改革に向けて、まっしぐらに走り出す。

GHQは10月に憲法の自由主義化と人権確保の五大改革を指示したのに続いて、10月22日、前文「日本新内閣に対し、教育に関する占領の目的および政策を充分に理解せしむる連合国最高司令部はここに左の指令を発する」と始まる、教育についての主要指令「日本教育制度に関する管理政策指令」が発せられた。その内容を簡単に紹介しよう。

「A門」として、「教育内容は、左の政策に基づき、批判的に検討、改訂、管理せられるべきこと」として、二つの項目があげられている。

第一は軍国主義、国家主義の禁止で、軍国主義的及び極端な国家主義的イデオロギーの普及の禁止、軍事教育・教練の全廃。

第二は言論、思想、集会、信教の自由の確立である。議会政治、国際平和、個人の権威と思想、集会・言論・信教の自由など基本的人権の思想に合致する諸概念の教授と実践の確立を奨励すること、というものだった。

 「B門」は「あらゆる教育機関の関係者は、左の方針に基づき、取り調べられ、その結果に従い、それぞれ留任、退職、復職、任命、再教育または転職せられるべきこと」とあって、5項目がある。

 総合すると、教師や教育関係の関係者は、できるだけ早く、公的機関で軍国主義者だったかの調査を受け、そうだったものは追放される。戦時中、自由主義、反軍主義者として追放されていた者はただちに復職させられるし、人権、国籍、信教、政見などの差別待遇は禁止される。学園内での理知的な授業批判はむしろ望ましい。これらと並行して占領軍の目的は大いに知らされる必要がある。

「C門」は教育の実際面について触れ、第一項では、現在の教科書や教育指導書などの中から軍国主義的な一面を速やかに削除すべし、と言い、第二項で「平和的かつ責任を重んずる公民の養成を目指す新教科目、新教科書、新教師用参考書、新教授用材料は出来る限り速やかに準備」せよと言う。そして第3項で、初等教育の教員養成を急げと指示する

あとはこの、「指令」を実行するための、具体的な手順をしめしたものだった。

2.三教科の停止

敗戦という歴史的な事実を経験した昭和20年(1945年)は、激動のままに新たな年に移ろうとする12月31日「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」が出された。CIEは関係の教科書50冊を調べたが、大部分が古代史を扱っており、うち43冊が広範囲にわたって好ましくなかったという。

 したがって3教科とも、教科書の部分的な削除で処理できないことがわかったため、3教科の全面的な授業停止に踏み切り、新教科書(21年春から二年間使用する暫定教科書)ができるまではCIEが認めた方針にそって、討論会方式で社会、経済、政治の真実を学ぶことが望ましいとの意向をだした。

 軍国主義追放のための大手術ではあったが、一時的にせよ小中学校から、修身、日本歴史、地理の3教科の授業が停止されるという事態は、教育関係者に改めて敗戦の意味の重さを感じさせたに違いない。

3.教育使節団

 昭和21年1月5日の新聞によれば「マッカーサー元帥は四日、米陸軍省にたいし日本の複雑な教育制度の再建とその民主主義的発展のために、有力な米国教育家よりなる使節団を日本に派遣して、連合国最高司令部役員、日本文部省及び教育委員会との間に教育の技術的事項につき協調せしめるよう要請した。

 これをうけ。米国務省を中心として人選が始まり、大学教授など二十六人が来日し、調査研究の上、報告書(いわゆるミッションリポート)が作成される。

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