2)平和条約と日米安保条約

 昭和24年(1949年)夏以後の国際情勢は、大国の協調は乱れ、世界は民主、共産の両陣営に分裂し、民主陣営は共産陣営の活発な浸透を受け、その抑制と均衡の回復に苦悩する状況にあった。アメリカを指導者とする民主陣営は、ヨーロッパと極東でドイツと日本に独立を回復させ、対等の協力者として民主陣営の防衛体制内に迎え入れる政策を考えていた。だから平和条約は戦勝国と敗戦国の立場に立った戦後処理とは違い、敗戦国が自由に国力を回復し、伸張しうる条件を設定して、日本(またはドイツ)を、自己陣営の防衛に協力させようとするものであった。従って連合国が、自らの安全と日本の安全を考えた平和条約と安保条約は、ふたつの条約として別々のものでありながら、その成立は密着不離の関係にあった。

 日本は平和条約を締結することによって、東西の間に中立をまもり、全面平和が可能となるまで気長に待つか、それとも民主陣営の一員として国の安全をはかり、世界の平和に力をかし、共産諸国との関係を正常化するか、この2つのどちらに進むべきか、はっきり選択をしたのである。それは日本という国家の在り方に関し、最も重大な選択であったといえる。

 国連憲章からいえば、中立はあるべかざるものであり、真に中立に徹しようとすれば、スイスのように国連の外に立つほかない。国連に国の安全を依頼し、国連の一員として、世界の平和のために働く、といいながら中立的態度をとることは、弱者の態度であり、勇気のない態度であり、国家永遠の策として、とるべきではあるまい。従って日本が、アメリカと安保条約を締結するに至った日本の立場は、たやすく理解できるであろう。(両条約とも発効は昭和27年4月28日)

                  【目次】 【次へ】