第7話 日本国憲法の制定

 日本国憲法が制定される直接の原因はポツダム宣言の受諾であり、その根本精神はアメリカ人の草案に基づいていることは周知の事実である。新憲法制定は連合国軍総司令部(GHQ)の日本民主化政策の根底をなすものであり、この新制憲法は戦後半世紀以上たった今でも、一度の改正も、修正もされていないが、果たして、現在の世の中に即しているのだろうか。この日本国憲法の下で、日本は、国際社会の中で応分の地位を得て、応分の役割をこなせるのだろうか。 また、現在の日本の経済的繁栄にも貢献したのも事実である我が国の憲法が国民に誇りに思われていないはなぜであろうか。その成立過程に原因が潜んでいるのではないか。

1)アメリカ人草案の日本国憲法

 GHQの指示により時の幣原内閣は、1945年、明治憲法改正のために「憲法調査委員会」を設け、国務大臣松本蒸治を委員長に任命した。1946年GHQに提出された松本案( 憲法改正要綱 )は天皇陛下の統治権を残そうとするものだとして拒否された。GHQは自ら作成した改正原案(マッカ−サ−草案)を日本国政府に示し、これを最大限考慮して新憲法を作ることを要求した。GHQの要求の要点は、「天皇陛下の象徴性と人民主権」を定めた第一条及び「戦争放棄」を定めた第九条であり、この二点を日本政府が受け入れない場合には天皇陛下の安泰を保証できない旨強調した。現にオ−ストラリア、ニュ−ジ−ランドは天皇陛下を戦争犯罪人名簿に含めGHQに提出したのも事実である。天皇主権 (天皇陛下が統治権を総攬すること) に固執する事が、事実上不可能である事を悟り、せめて我が皇室の安泰を願い、天皇陛下を戦争犯罪人にすることだけは回避したかったのである。続く吉田内閣はこのGHQ原案を基に作り直した改正案(日本政府草案)を「日本国憲法」として同年113日公布し、1947年月3日より施行した。 以上の制定過程を見ればわかるように、新憲法制定という一国の一大事業が全国民の議論を待たずして性急におこなわれてしまった。その性急さとは、要するに民衆が敗戦の空しさ、虚脱感から立ち直り、やがて、自分たちの手で国民生活、社会、政治のありかたを決める憲法制定の機運が高まる前に、ということだ。国民の要求が、天皇制の全面的な廃止に向かうのか、もしくは、天皇統治権の続投か、あるいは社会主義に向かうのか、GHQにも、また日本政府にもわからないままだったのではないか。日本の社会主義化は当然アメリカの望むところではないし、天皇陛下を日本統治の手段として上手く利用したかったGHQには、天皇陛下の身分が不安定なことも避けたかった。このあたりに、日本国民の自発性による変革を阻止し憲法問題に早急に決着をつけたかったGHQの事情が伺える。 実際、現行憲法の雛形となっているマッカ−サ−草案は彼の腹心、ホイットニ−率いるGHQ民政局によって、僅か6日間で完し、その2週間後の1946年3月2日には最初の日本政府案が作成された。その後たった2日間の討議を経て、3月日には「日本政府草案」ができあがり、3月7日には即刻全国に向けて発表された。余談になるが、8月の衆議院での上記草案の採決では、421票の賛成に対し8票の反対票がでた。その内の6票が共産党で、皇室の廃止、日本の自衛権を要求してのことであった。

2)アメリカ民主主義

 戦後マッカ−サ−率いるGHQは、日本の非軍事化を徹底するため、アメリカ流の民主化を日本に要求した。もちろん前文と本文11章103条からなり、主権在民、平和主義、基本的人権の尊重を三大原則とする新憲法制定もアメリカ要求するところの一つであり、またその根本であったことは、先に述べた通りである。しかし、ここで忘れてはならないのは、新憲法が日本国民の世界に誇るべき民主主義憲法、平和憲法であると言い切れるかという問題である。それは、民主主義の親であることを自負するアメリカ自身が平和主義ではないし、非軍事化もしていないことだ。ここ10年の軍縮は平和主義の思想によるところであると言うより、単に、予算の都合であることも明らかだ。そもそも太平洋戦争を終結するために日本に大量殺戮兵器の原爆を投下したアメリカが平和主義を唱い「軍国主義に対する自由の勝利」を宣言し、またスタ−リンの言うところの帝国主義の西洋諸国が「ファシズムに対する民主主義の勝利」を唱えるのは不自然きわまりない。彼らは、アジアに植民地を作らなかったのか、昭和初期世界を襲った恐慌のとき閉鎖的なブロック経済を構築しなかったのか。日本の大戦敗戦後アジア植民地政策を再開しなかったのか。ここに欧米諸国の美辞麗句に対する不満と欺瞞の念を抱かざるをえない。欧米諸国の行う植民地政策は侵略戦争的な色合いが無いとでも言うのか。日本に民主化を要求したアメリカをはじめとする欧米諸国の偽善に今や多くの日本人が気がついていることも、米国製日本憲法が日本国民に愛されず、遵守されない理由の一つに挙げられるのは間違いない。また、抽象的な表現になってしまうが、未だ米国流の民主主義が日本で定着していない現実をみると、それは、日本人の体質、気質、魂、文化に根本的に合わない性質のものだと思えてならない。

3)象徴天皇

 新憲法の明治憲法との決別を最も端的に表していることの一つに象徴天皇制があげられる。象徴天皇とは主権を有する国民の総意に基づいて認められた御立場であり、万世一系の天皇陛下が統治権を総攬されるとされた天皇主権の明治憲法と180度転換した地位である。GHQの占領政策が終わり、占領法体系の再編が試みられ、日本国憲法の全面的見直しの気運が高まったことがある。1954年成立の鳩山内閣の時である。動機は、再軍備化、天皇陛下の元首化、9条の改正等が柱であった。しかし1964年ごろ再び憲法改正が政治問題になる頃には天皇陛下の元首化論は既に下火になり、当時の改憲論を唱えた代表的な人々さえ、「天皇の元首化の主張がかえって天皇制に対する反感を煽るようなことがあったら、なにも、無理してまで明文化する必要はなかろう。既に実際の運用においても、諸外国の取り扱いにおいても天皇は国家元首とされているのであるから。」と述べている。そもそも1946年(昭和21年1月1日)の年頭詔書(俗に言う人間宣言)において天皇陛下が超憲法的神格を持たない旨述べられたが、それとて国民意識に対してさほど大きな影響はなかったといえる。神格といっても誰も一神教の神のように思っていたわけでもなく、「かけがえのない御方」の意味であったからだ。キリストや仏陀を否定するのとはそもそも次元が違っていた。重要なことは、戦前も、戦後も同じ天皇陛下がおられた事であり、同じ天皇陛下がおられるという安心感・一体感によって日本国民は敗戦による非常に大変な時期を乗り越えられたのだろう。「象徴天皇」という憲法上の立場は問題視する程のことではない、というのがこの問題の正しい現状認識ではないだろうか。

4)他国の例

 国民に親しまれ大切に守られる憲法は、自国民の手によって作られなければならない。外部のものが作ったものを、硬直的に守っているのは先進国で日本だけであろう。実際、イギリスは成文憲法を持たないから始終手直しをしているようなものだし、世界最古の成文憲法であるアメリカ合衆国憲法も既に27条もの修正条項がある。そして、修正とまではいかなくても微調整は始終行っている。また日本国憲法より古い憲法を持つ国は14あるが、いずれも度々改憲している。50年以上も改正していないのは日本国憲法だけである。他国もしたから日本もやれと言うわけではないが、時代変化、社会情勢、国際情勢の変化に合わせて、修正しているのが国際社会における慣例になっていることも留意する必要がある。条文解釈を極端なまでにゆがめて解釈し、社会の現状に合せ、こじつけ、容認する(自衛隊の存在、私学助成の問題等々)といった今までの日本流のやりかたは、とても正しい態度だとは思われない。

5)憲法第九条

 日本国憲法で最も多く論議をされているのは間違いなく戦争放棄を唱う第九条である。第九条は第一項と第二項から成る。第一項の後半「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」とあるが、ここがよく論議を呼ぶところである。戦争、武力威嚇、武力行使の放棄が全面絶対的なものかあるいは、条件付きかという問題である。これは「国際紛争を解決する手段としては」の捉え方にかかっている。国際法上の歴史にのっとっても、親、兄弟、家族、子供を守りたいという、人間の本来持ち合わせている善良なる本能を考えてみてもこの部分を「侵略戦争、武力威嚇、武力行使」を禁じたと解釈するのが妥当であり、自衛戦争を否定したものではないと思う。しかし、第二項において、戦力の不保持を規定した為に、実際には自衛戦争すら出来なくなった。第九条の解釈としてはこの考え方が最も自然なのではないか。

 しかし、肝心なことは、我々日本人はこの立派な平和憲法を保持しているだけでは国家と家族を守れる訳ではないということだ。もし、仮に外国から先制攻撃を受けたらどうするのか。「日本は平和憲法は持つが、戦力は持たない平和国家だ。」と唱えているだけで攻撃にさらされるままでよいのか。日米安全保証条約を根拠に多数の米軍が日本に駐留しているが、日本人は「日本国土と日本国民はアメリカが守るもの」と本気で思っているのか。もしそんな人がいるなら平和ボケも甚だしい。日本が外国に攻められ、それをアメリカ兵が血を流して守り、日本人達は第九条を理由に戦わない姿がアメリカの茶の間に流れたら、市民は猛反発し、米軍は撤退を余儀なくされるだろう。現に戦争状態にない今でもアメリカ社会に日本の安保ただ乗り論(実際には日本政府は莫大な金額の税金を駐留米軍に投入している)が叫ばれているというのに、緊急時に日本人は戦わないで、アメリカ人が命をなげうってまで助けてくれるという発想は夢に等しいだろう。

 また、敵国による攻撃下での、米軍撤退後の日本の無様な姿は想像に難くない。ここで一つ付言しなくてはならないのは、「駐留米軍は日本を睨んで」と言う見方も現に存在し、その恐ろしい見方を完全に否定し、恐怖を完全に払拭するに足る明快な理由も見あたらないこと。

 話を元に戻すと、日本の非武装化政策を強行したGHQのマッカーサー元帥自身が、朝鮮戦争勃発という歴史の皮肉によって日本に7万5千人に及ぶ大規模な警察予備隊の創設を命じたのは周知のことである。この警察予備隊がいまの自衛隊の基礎になったのは言うまでもない。その後マッカーサーが戦力放棄の憲法第9条と自らの関わりを否定すべく立ち回ったのも当然のことであったのだ。自分の先見性の無さ、判断ミスに気がついたからだ。

 いずれにせよ、自分たちの国、社会、家族は自分たちで守っていこうと思うことが責任ある大人の考え方ではないだろうか。

 以上考察してきた通り、現在の我々の日本国憲法は、様々な矛盾、不具合を含んでいる。その制定過程からくる生来の矛盾、時の流れと共に時代に合わなくなってくる矛盾、環境権、プライバシー権等あらたに追加すべき条項の不足。

 今、我々日本人に必要なのは、アメリカを非難する態度でもなく、マッカーサーを恨む事でもなく、自分たちの国をどうしようか、国の方向性を定める憲法は何を言っているのか、不具合は無いのか、といった国家や憲法に対する愛着、興味を持つことではないか。もし、不具合があるのなら、「衆議院と参議院のそれぞれの総議員の三分の二以上の賛成でもって国会で発議し国民投票で過半数の賛成を得る」という非常に厳しい条件付きではあるが改憲の手立てもある。もし、現憲法と実社会に隔たりがあるのなら大いに議論すべきだし、それをしないのならそれは日本人の怠慢であると言えよう。

 今、日本人に失われている愛国心を呼び起こす為にも、冷めている若者達の心を喚起する為にも、戦争を体験している年配の方々の実話に基づいた意見を聞く事が出来るうちに是非全国民の絶大なる関心の上に大きな憲法論議を呼び起こしたい。自国の伝統ある文化、歴史に純粋に誇りを持つという、他の国々では当たり前過ぎるほどに当たり前な事を日本でも実現するためにも。

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