第5話 敗戦時の国民生活と意識

1)玉音放送

 昭和19年(1944年)6月、日本本土は北九州において、アメリカの新兵器B29型爆撃機による初めての空襲を受けた。翌20年アメリカはそれまでの高々度精密爆撃では成果が上がらなかったため焼夷弾爆撃に作戦を変更した。3月10日の東京大空襲をはじめ、攻撃対象を軍事施設と限らない無差別絨毯爆撃は日本全土に及び、国内のほとんどの都市は焦土となりつつあった。

この年の6月から日本はソ連を通じ和平工作に動いていた。しかし、アメリカ軍はそれを知りながら結果を待たず、8月6日に広島にウラニウム原爆、9日には長崎にプルトニウム原爆を投下した。また、8月8日にはソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し日本に宣戦布告。満州、南樺太は突然のソ連軍侵攻を受け、日本は10日の御前会議においてポツダム宣言受諾を決定した。

 しかしながら国内には「本土決戦」を望む声が強く、軍部の一部には政府の要人を殺してでも降伏を阻止しようとする動きさえあった。また陸軍の「戦陣訓」に「生きて虜囚の辱めを受けず」とある指針は、新聞報道などにより国民にも広く浸透し、占領され捕虜になるくらいなら自決を、自決するくらいなら最後の一人まで戦おう、という世論も作られていたのである。もとよりこのときの日本人には、国と地域社会・家族への強い思いがあり、戦いをやめること、戦わずに降参することはすでに戦死した方々へ申し訳なくてできないという意識もあったのだろう。ほとんどの国民は降伏・占領という形で戦争が終わることなど想像もしていなかったのだ。

8月14日御前会議において総理大臣鈴木貫太郎は天皇陛下に聖断を仰ぎ、終戦、ポツダム宣言受諾通告が決定した。そして昭和天皇の「終戦詔書」は、昭和天皇ご自身のお声によりレコード盤に録音、15日正午、「玉音放送」として日本全国にラジオ放送され、それによって日本国民は大東亜戦争の終結、日本の降伏を知ることとなった。

宮城事件(玉音放送前に詔書が録音されたレコードを奪おうと、一部の陸軍軍人によって起きたクーデター)など、戦争を続行させようとする軍部の動きはいくつかあったが、いずれも鎮圧された。同年8月30日連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が厚木に到着、GHQによる間接統治が始まる。連合国側として日本を占領したアメリカ軍は、沖縄戦での経験などから、日本人からの激しい抵抗やテロ行為なども予想していたが、そういった事件は起きることなく平穏な進駐が行われたことは、玉音放送により終戦の事実が国民に一斉に伝わったことも大きな要因であったと思われる。

終戦詔書

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

  御名御璽
  昭和二十年八月十四日
  (出典)『官報』号外、一九四五年八月一四日。

2)終戦の日

 敗戦を知った時の国民のショックは多種多様であったに違いない。それまで戦況は軍部統制下の「大本営発表」でしか知らされず、それは戦意高揚を目的としたもので必ずしも正しい情報を伝えられてはいなかった。度重なる本土への空襲、神風特攻隊をはじめとする必死攻撃、日増しに厳しくなる物資の不足、あるいは戦線から帰国した兵隊による情報などから、実は戦況が不利であることは人々も感じていたが、やはり突然の「降伏」はすぐには信じられず、目標を失った茫然自失の状態であっただろう。大人も子供も悔しさをかみしめていた。また、一方で安堵があったとすれば、それは、もう空襲が来ない、空襲警報の度に防空壕に逃げ込むこともない、夜も灯りを点けてすごせる、といったわずかな解放感であっただろう。しかし、それよりも人々は、アメリカに占領されるという大きな恐怖と不安の中にいたのである。

 また、当時日本の領土であった外地と呼ばれる満州や朝鮮などで終戦を迎えた日本人にとっては、引き揚げまでの長い戦いの始まりでもあった。
例えば当時満州・延吉国民学校四年生だった女性のこのような手記がある。

「終戦の日から、日本人と中国人、韓国人の立場が一日にして逆転しました。
連日、日本人家庭への暴動と略奪に見まわれました。南下したソ連兵の宿舎として日本人官舎は立ち退き命令。
 日本兵のほりょ姿は悲惨で筆舌につくしがたい気の毒な光景。あの夏服姿の日本兵が、極寒のソ連へ連行されて、どうして生きのびることができたでしょう。
 父は戦争でいまもって行方不明。昭和三十年に遺骨のない葬儀を日本でいたしました。
私共家族は、日本人集団と共に昭和二十一年十月、博多方面経由で日本に帰国しました。」

             (「8月15日の子どもたち」あの日を記憶する会編)

 朝鮮では日の丸の半分を青く塗りつぶした大極旗と「マンセー」(万歳)の声にあふれる中を、また満州ではソ連軍の侵攻を受けながら、日本人は大変な苦労をしながら、子どもたちの多くにとってはまだ見ぬ祖国である内地を目指した。「そして中国残留孤児の肉親探しなどに見られるように、今もなお引き揚げは続いているのである。」

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