3)文明開化と岩倉使節団

 廃藩置県が断行された後、新政府は、散髪・廃刀の許可、華士族・平民間の婚姻許可、職業の自由選択、華士族の農工商従事の許可など、一連の文明開化政策を展開しつつ、明治4年(1871年)11月には、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文など、新政府の中心的指導者が大使節団を結成、2年間に及ぶ欧米への「文明開化」実見の旅に出発する。

 また、福沢諭吉、西周など、主として旧幕臣出身の知識人が、明治6年(1873年)8月に「明六社」という学術啓蒙団体を結成した。彼らが共通して課題としていたのは、旧来の因習や価値観を否定し、人々を新たな文明開化の人間観や社会観に向けて啓蒙することであった。

 福沢諭吉は、「人々がそれぞれ自由な活動を追求する結果、社会が『人事繁多』あるいは『多事争論』といった忙しく活発で変化に富んだ多元的な有様を呈しつつも、秩序が維持されていることが文明の特筆すべき成果である」と主張したのである。

 このように廃藩置県以降、新しい社会観に立って、四民平等のもと、旧来の道徳的抑制を打ち払い、人々の自在な活動とエネルギーの喚起を図る啓蒙活動によって、次第に開化志向が政府や民間に顕著になっていくのには、こうした知識人たちの活躍も大きく寄与していた。

 ところで岩倉使節団は、直接には、翌明治5年に到来する条約改正交渉の期限を前に、国内の体制が整わない状況下での交渉を延期すべく、また、将来の条約改正に備えて、西洋文明諸国の法制度や機構についての新政府指導部の知見と理解を深めることを目的としていた。

 祖国の命運を背にしながら、彼らがいかに毅然とことに処したかは『「堂々たる日本人」泉三郎著』に詳しく記述されているので参考にされたい。

使節団首脳
(「中学社会 歴史」教育出版より)

 彼らは、廃藩置県に至るまでの政府内部の対立に鑑みて、留守中、政府機構の現状を維持し、帰国後に自分たちの指導を通して新しい国家建設を遂行すべく、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らの留守政府との間で、廃藩置県に直接かかわる業務以外、大きな改革は凍結するという約定を結んで出かけた。

 それにしても、新政府の基盤を固めるべく重大な改革を断行する最中、新政府の中心的指導者を含めて総勢100名を超える大使節団の2年近くにもわたる外遊が実施できた背景、言いかえれば、にわかづくりの明治政府の安定の根拠が何によるものであったのかは大変興味深いところである。

 それは偏に、「日本が統一国家の建設に成功するためには、天皇を中心とした合議体制が必要不可欠であって、明治政府はそのためにつくられたものである」との国民的合意が歴然とそこに成立していたからに他ならないのである。

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