2)廃藩置県という社会革命

 廃藩置県の本質は、民と税という国民国家の基礎となる二大要件の帰属を、藩から「国」に移すことに他ならなかった。

戊辰戦争は明治元年(1868年)に官軍の勝利に終わった。しかし「新政府」の実態は薩摩・長州を中心とする有力諸藩と宮廷勢力(公卿)の連合体であり、統一国家の指導部というには程遠い状況だった。木戸孝允、大久保利通、岩倉具視ら新政府指導者にとっては、官軍を構成する武士階級の討幕・攘夷運動へのエネルギーや階級としての既得権益喪失への不安(それらは外国人襲撃という形で噴出しつつあった)を新国家建設の方向へ転換させながら、同時に各藩がもつ領民の帰属と徴税権を新政府に移行させるという重要課題を、いかに暴発を防ぎながら円滑に行うかが喫緊の課題だったのである。

しかるにこの問題は、二百七十年余にわたって続いてきた制度を根本から変えるという一種の社会革命であった。当然藩主の抵抗も予想され、漸進的に変革を進める必要があったことから、まず藩主から朝廷に版籍(領地と領民)を奉還させ、その上で藩主を知藩事に任命し、さらに彼らの家禄を石高の十分の一に定め、各藩の藩政と家政を財政面から完全に分離させ、藩士を「士族」とすることで藩主―家臣の主従関係を完全に絶ったのである。

こうして漸次封建制度を変えていく中、新国家建設のため鉄道、郵便、電信等数多くの事業が実施に移されると同時に、逼迫する財政事情に耐えかねた大蔵省から、財政基盤の整備が火急の課題だという声が沸き起こるのは自然であった。徴税制度の確立を急ぐためにも完全なる「郡県」の実施、すなわち廃藩置県を求める動きが高まり、新政府指導者間の様々な疑心暗鬼を克服しながらも、最後は強大な軍事力を有する薩摩藩の指導者、西郷隆盛の支持が決め手となり、明治4年7月、在京諸侯が朝廷に参集する中、廃藩の詔勅が下された。知藩事の諸侯達は領地を去り、華族となって東京に住むこととなる。

 維新後、新政府への集権化をすみやかに図るため、廃藩置県は不可避であった。しかし数百年つづいた制度を、抵抗するエネルギーを逓減させながら変えることは至難の技だったに違いない。明治天皇も廃藩置県がうまくいくかどうか宸断を悩ませ、西郷を召してご相談されたところ、西郷が『おそれながら、この吉之助がございますれば』と奉答したので安心されたとの逸話が伝わる。

 このように新政府の指導者達がそれをなさねばならぬという確信を持ち、また実行に移す政治的力量を有していたことに、私は瞠目したいものである。また、身分を廃止された武士達が、エネルギーの昇華先を求めながらもこの大変革を受け入れたこと、更にその前提として、天皇を国家の中心、「公」的なものの源泉とする意識(幕藩体制も朝廷から征夷大将軍が政治的統治の権限を授けられたことを形式的には前提としていた)の根強さが、廃藩置県を実現ならしめたことに、改めて目を向けたいのである。

                  【目次】 【次へ】