第4話 近代国家の樹立

1)大政奉還と王政復古

 政治は国の進路をとる営みである。多様な思考を持つ人間が存在する中で、当然方向性を巡る信念の相違が生まれる。そして妥協を経ながらも自身の信念を貫いた者が影響力を増し、政治の世界でのリーダーシップを得る以上、権力を自らのものにしようとする政治闘争が生じるのも自然の成り行きだといえよう。

 私達は、大政奉還と王政復古にこの権力闘争という側面が多分に含まれていたことを、歴史教育の中でほとんど教えられてこなかった。しかしまさにこの二つの事象は、幕府と薩摩・長州に代表される倒幕派による権力奪取の闘争という一面を色濃くもっていた。

 安政元年(1858年)の開国以降続いた幕府権威の失墜は第二次長州征伐の失敗によって決定的となった。このまま事態が進めば幕藩体制の瓦解は決定的なものとなる。倒幕派は朝廷内工作を仕掛け、瓦解の決定打として慶応3年10月に倒幕の密勅が発せられた。

 追い詰められた徳川慶喜がここで起死回生の一手として行ったのが同年冬の大政奉還である。すなわち自ら朝廷に政権返上を申し出ることによって倒幕派の大義名分を奪ってしまい、幕藩体制を一旦廃止し、朝廷の下に諸侯を加えた新たな議会体制をつくることで、徳川家を中心とした政権秩序を再建しようというのが正しく慶喜の意図したところであった。

 この試みが成功すれば倒幕派の戦略は完全に頓挫することになる。そうはさせまじと倒幕派が画策したのが、武力による徳川家打倒、すなわち同年12月の王政復古のクーデターだ。これは西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視の三者を中心に計画されたもので、薩摩藩を中心とする藩兵が御所の要所を固めて反対派公卿らの参内を阻止し、朝廷内に外部から隔離された政治空間をつくることで天皇を中心とする新たな政治秩序をつくろうとしたものだった。神武天皇の昔に戻り、天皇を奉じてその裁断による政治を行い、朝廷内の役職の改廃を実施して倒幕派の公家・志士たちが官職に就く。そのために御所封鎖直後に発せられたのが王政復古の大号令で、そこでは「総裁、議定、参与」という新たな役職設置をうたっている。これは政治意志の決定を担うものが明確に代わるという宣言であった。

 しかし慶喜は執拗に巻き返す。王政復古の大号令後の御所での会議で、倒幕派が主張した慶喜の内大臣の官位剥奪と領地没収は土佐藩前藩主山内容堂や佐幕派公卿らに猛烈な抵抗を受け、慶喜は大政奉還に至った行為を正当化する文書を朝廷に提出する。さらに慶喜は諸藩に兵を率いて大坂に参集するよう呼びかけ、同時にイギリス、フランス等六カ国の公使を大坂で引見し、引き続き日本の外交権を掌握していることを誇示したのである。手詰まりに陥った倒幕派は幕府を挑発して戦闘を仕掛けさせ、朝敵の汚名を着せて武力打倒する方針を固める。

 ところでここで当時の政治状況に目を向けたい。いつの時代もそうだが、政治闘争においてはどちらが政治的正当性を有するかが勝敗を大きく左右する。そしてそこで決定的に重要なのは政治的「旗印」である。例えば平成6年の政治改革関連法成立を巡る自由民主党内部での権力闘争では、「改革派」「守旧派」というレッテル貼りが、国民の支持を得ることを目的として立場を異にするものの間で行われた。

 この時代、討幕派・幕府側双方が政治闘争を勝ちぬく上での「旗印」、すなわち大義名分の役割を果たす言葉として用いたのは、「公儀」「辰断」「神武創業」「朝敵」等だった。「旗印」を掲げた倒幕派と幕府側それぞれの動きが状況を目まぐるしく変え、それに伴って「公論」、すなわち当時の政治的空間内部での世論も変化する。当時、多くの藩は未だ日和見的態度をとっていた。巧みな政治的駆け引きによって「公論」を引き寄せることが、こうした藩を引き込み勝利をもたらすのであった。

 当時実質的に薩摩藩を代表する存在だった大久保利通は、王政復古の大号令を実現するためには武力による倒幕しかないとの決意を記すと同時に、万が一手法を誤った場合には「公論」を相手に与えてしまい、それが倒幕派就中薩摩・長州等雄藩に致命的打撃を与えることを認識している。そして大久保や西郷は決死の覚悟でこの路線をとることを決意するのである。大久保は後々、この時の覚悟のことを「丁卯の冬」という季節を表す言葉で繰り返し言及している。

こうして慶応四年、鳥羽・伏見において戊辰戦争の戦端が開かれ、倒幕軍は優位に戦況を進めて江戸開城を迎えたのである。

                  【目次】 【次へ】