第2章 近代国家への道のり(江戸・明治・大正時代)

第1話 泰平の時代 <江戸時代>

1)徳川政権

 日本の歴史上、260年もの間政権を維持した徳川政権は、幕府開府以来、幕末まで平和維持した。その要因は何なのか、どのような時代背景があったのかをまず知る必要がある。

 豊臣秀吉の死後、豊臣政権を存続させようとする石田三成と、政権を握ろうとする徳川家康が、慶長5年(1600年)関ヶ原で戦い、東軍の徳川家康が西軍石田三成を破り勝利して天下を取る。この関ヶ原の戦いそのものが第一の徳川政権安定の基となった。

 徳川政権は、家康が武力で勝ち取った軍事政権である。家康は秀吉とは違い、永続的に政権を維持することを考え、朝廷から征夷大将軍に任ぜられ鎌倉幕府以来の武家政権となる江戸幕府を開府する。しかし、幕府を開府したものの大阪には豊臣秀頼がおり、その後、大阪冬の陣・大阪夏の陣(1615年)で豊臣家を滅亡させ政権を盤石のものとした。

 家康の永続的な政権維持の志向には、戦乱の世をなくし、平和な生活をという願いもあったようだ。

 江戸幕府は、統制支配力の強化することによって長期間政権を維持したが、その課程で、武家諸法度、禁中並公家諸法度、諸宗寺院諸法度、五人組制度、キリシタン禁止令といったいうような様々な法を定めていった。

 幕藩体制の基盤は、初代家康・二代秀忠・三代家光とでほぼ完成するが、その中にある武家諸法度(金地院崇伝が起案)は、徳川秀忠の名で元和元年(1615年)に出された元和令以降、七代家継、十五代慶喜以外の12人の将軍の代替わりごとに出されている。

 また、三代将軍家光の時には、新しい統制策として林羅人に参勤交代を付加させている。

 なお、参勤交代は、元来「覲」の字を使い「参覲交代」と書く。「覲」の字には“挨拶”という意味があり、参覲交代とは、大名などが隔年で出府し、将軍に挨拶をするというのが本来の意味なので、「参覲交代」と書くべきであるが、「覲」という字は常用漢字にもなく、また参勤交代でも何とか意味がとれるため、現代では参勤交代という表記が定着している。

 軍事政権としての性格を有しながらも、徳川政権下の江戸時代は平和であった。それは、基本的には大名が幕府に逆らえなかったからである。ではなぜ逆らえなかったか。

 これも一口で言えば、諸大名に対して幕府が圧倒的軍事力を有していたからである。一万石以上を大名といったが、この石高を単に経済力を示すものとみることは誤りで、元来石高はそのまま軍隊の動員力を表すものであった。(慶安の軍役令で一万石につき200人)最大の大名である加賀前田家が通称100万石、ところが幕府は旗本領も含めて通称800万石。これでは諸大名が逆立ちしても勝ち目はない。

 幕府はずいぶん諸大名に無理無体なことをいったこともあるが、それでも大名が「いざ一戦!」とはいかなかったのは、戦っても勝ち目がない、そんな戦いに自分もさることながら、家臣とその家族まで犠牲にするわけにはいかなかったからである。大阪の陣の折りに、福島、浅野などの豊臣恩顧の諸大名が大阪方に味方をしなかったのも、この理由からといっていいだろう。

 また、参勤交代も軍役の変形と見ることができる。諸大名が幕府の命令で戦争に出ることも、江戸に上ることも基本的には同じ事であり、江戸幕府は戦国大名以来続いていた軍役による家臣統制を実施していたわけである。

 家康、秀忠、家光、五代将軍綱吉までの時期には多くの大名取り潰しがおこなわれ、この中には、一族の松平忠輝(家康六男)も含まれていた。

 家光の死後、四代家綱が幼少で将軍となるが、この頃には幕府組織の草創期は過ぎ、戦国動乱の記憶が遠ざかったこの時期以降、幕府の権威は高まりを見せていた。その余裕として、五代綱吉の時代には、政治に朱子学(儒学)の考えが取り入れられ、政治方針は文治政治へと移行する。

 綱吉は、母桂昌院のためと、自分に男子が生まれなかったことが機縁となり仏教を信仰し、湯島聖堂、寺社造営に金をかけすぎ、幕府財政を破綻を来す。また、悪法「生類哀れみの令」も綱吉の仏教思想から生まれたものである。

 以降、六代家宣、七代家継と継承されるが、家継を最後に徳川直系での血筋は終ることとなる。

 幕府改革の時代には、御三家紀州藩の徳川吉宗が八代将軍となる。吉宗は、幕府の財政再建のため、享保の改革(足高の制、倹約令、公事方御定書、目安箱、相対済令、町火消し、小石川養生所の設立)を行う。と徳川直系に近いということで登場し、享保の改革で幕府財政は再建され、以後、寛政、天保改革のモデルとなった。

 吉宗は幕府にとって中興の主とされているが、農民に対する米制度(年貢)につては、定免法という方法で年貢をとった。以前は、検見法といって、作物の出来高で年貢が決められていたが、定免法は凶作でも一定の年貢を取りたてるため、それが農民を苦しめることになり、百姓一揆・打ちこわしの原因となったのである。

 十代将軍家治の時代になると、老中田沼意次(おきつぐ)が登場する。意次は、賄賂政治で有名であるが、政策においては農業経済から商業経済へ移行、株仲間を認可し、税(冥加金)を徴収したり、長崎貿易の拡大、新田開発等を行った名老中であった。

 田沼意次以降、吉宗の孫になる松平定信が老中となり、寛政の改革を断行する。思想・社会統制(倹約令)農村政策を行い幕府権威を高めようとしたが、これも政治的には成功するが、民の不満を拡大したにすぎない。

 その後に十一代家斉は自身で幕政を行なうが、無策であったために見るべき政策の改善は無く、世の中と幕府体制が腐敗して行く。何もしなかったが、世の中が泰平であったということであろう。しかしながら、文化面ではこの頃に、江戸文化の完成期を迎えることになる。

 天保12年(1841年)には、老中水野忠邦が、政治の改革を行うべく天保の改革を行う。これが江戸時代の三大改革(享保・寛政・天保)の最後のものとなる。

 水野忠邦は人返しを行い倹約令を出し、文化的動きも取り締まった。天保の改革は享保・寛政の改革とは比較にならないぐらい風俗・文化の取り締まりを実施する。その実行者である江戸町奉行鳥居燿三(甲斐守)は、そのために江戸の町人から“ヨウカイ”として恐れられ憎まれた。

 この頃、諸藩においても積極的に政治改革と財政再建が行われ、成功した藩としては近年有名になった上杉鷹山の米沢藩があげられる。

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