地図のない旅 54

- 新月の罠 1 -


 そろそろ一人の旅人に戻りたいものだとリオラが考えていた矢先、ロストールには二つの悪い情報がもたらされた。
 まず最初に、大陸の商業と文化の中心地、自由都市リベルダムがディンガル帝国の青竜将軍カルラにより陥落したとの一報が入る。
 ロストールにとってこれは大きな脅威であった。
 リベルダムは独立都市ではあったものの、その中心を担う豪商たちはエリス王妃と手を組んでおり、いわば同盟国家ともいえた。カルラはこれら豪商たちを反乱分子とし一夜のうちに町ごと掃討してしまったのである。
 もっとも、手引きを行ったのはリベルダムの最有力者である豪商アンティノ・マモンであるらしく、そのアンティノ自身も今はカルラに追われる身であった。
 この内通によりリベルダムはあまりにも速やかにディンガルの手に落ち、おかげでロストールは防波堤を失った。
 次にディンガルとの戦火が上がれば朱雀将軍のつかった山越えのルートに加え、北東リベルダムからのルートも警戒せねばならない。つけ加えるならば、外海への足場であるロストール有数の都市アミラルはリベルダムの南方すぐに位置するため、こちらの死守も必至である。
 ただでさえ先の戦いによる人的損害が著しく、国内の治安にさえ混乱をきたしているというのに、同時に複数の方面への派兵など限りなく不可能であった。
 まだその対策すら定まらぬうち、更なる一報が届けられた。
 ディンガル帝国白虎将軍ジラークにより水の都アキュリュースが陥落した、と。
 アキュリュースは分断の山脈の向こう側に位置する都市であり、リベルダムに比べて危急さは劣るものの、万が一山脈を越えロストール西方の未だ開拓がなされていない広大な森林地より侵入されれば目も当てられない。
 現在、白虎将軍自身は北西の神聖都市アルノートゥンへの出兵準備を行っているようではあるが。
 こうして一丸となって着々と大陸制覇の実現を遂行しているディンガル帝国にひきかえ、ロストール王国は……いや、ロストール上層部はひたすら不協和音を奏で続けていた。
 ロストールの有力貴族の大半は自らの領地の保全を第一とし、私有兵を国軍として提供することを渋っている。
 軍会議にゼネテスの──ロストール軍総司令の副官として出席していたリオラは万事控えめに振る舞っていた。が、ある日とうとう我慢ならなくなり、国なくして何が領地かと鋭く突きつけたものの、結局、いつものように物別れに終わってしまった。
 うんざりとして暗い面持ちで回廊を歩いていたリオラは、少し先の柱の陰に人影を見つける。
「ご立腹のようだな、ノーブル伯」
「王妃様……」
 半ば柱に身を隠したままひそめた低い声のエリス王妃に、リオラは足を止めた。
 日が落ちた王宮の回廊は薄暗く、ある程度の距離を置いている二人の互いの表情を隠している。
 宮中の他の場所は煌々と明かりが点されていることを見れば、恐らく、エリスによってこの一画だけ人払いされているのだろう。
「そなたの言い分はまったくの正論だが、あまり声高に主張すればそなたの兄の立場もなくなろう。誰でも我が身はかわいい。勝ち目の薄い戦いに備えるより、敗れた後に思いを巡らすことも道理というものだ」
「軍備に散財するよりも、戦後、ディンガルに取り入るための財を蓄えておこうとでも考えているのでしょうか」
「あるいはもっと積極的に動いておるやもしれぬな」
「まさか……」
「忘れたのか、ノーブル伯? リベルダム陥落の立役者はかの地で一、二を争う豪商であり裏切り者のアンティノだったのだ。ロストールの貴族が同じ道をたどってもおかしくはあるまい?」
 エリスの嘲笑を含んだ冷ややかな声に、リオラは重いため息を吐き出した。
「まさにアンティノの二の舞を演じることになるとは考えないのでしょうか?」
「ふふ、さすがに聡いな。その通りだ、ノーブル伯。だが、自分だけは特別だと思うのが特権階級に共通の理念であろう?」
 アンティノはディンガルにリベルダムを売った。もちろん、その見返りは彼らの間で約束されていたのだろうが、現在のアンティノは逃亡者としてそのディンガル軍に追われる身である。
 ディンガルは裏切り者を信じるほど甘くはないということだ。
「そなたの兄には、今のところディンガルに与する兆候は見当たらぬようだが」
「そこまで愚かではないと思っています」
「普段のエリエナイ公ならばな。貴族たちの中では珍しく、真面目に国の行く末に心を痛めておるからな。が、ファーロスへの並ならぬ反発心が公の目を曇らすことにならぬかな?」
「……何を仰りたいのですか?」
 刺すような沈黙が降る。青白い夕闇に広がる静寂の中で、二人は互いの心を探り合っていた。
「レムオンと……兄を味方につけたいとお望みであれば、直接、御自身で話されるほうがよいかと存じます」
「なるほど、そなたを使ってエリエナイ公を懐柔するという策も悪くはない。だが、いま聞きたいのはそなた自身のことだ、ノーブル伯。もしエリエナイ公が……」
「王妃様。一体何を考え、どのような答えをお望みかは分かりませんが言えることは一つ。問答無用の武力による侵略という行為が許せない、わたしにあるのはそれだけです」
 きっぱりと言い切ったリオラの耳に、エリス王妃の忍び笑いがかすかに届いた。
「つまり、この不利な状況でも、そなたはロストールを見捨てずにいてくれるというわけだな。よく分かった、頼もしく思うぞ」
 いかにも仕立てのよい柔らかな衣擦れの音を残し、王妃の姿は闇の向こう側へと消えていった。
 完全に人の気配がなくなってからも、しばらくその場に佇んだままでいるリオラ。
 エリエナイ公──レムオンがディンガルに内通することなど、到底、考えられない。それは恐らくエリス王妃とて確信しているはずなのだ。
 ファーロス家への対抗意識もロストールという国があってこそだという事ぐらい、レムオンが分からないはずはないのだから。
 そもそも、レムオンは驚くほど私欲が薄い。当主としてリューガ家の繁栄を第一として努めてはいるが、さてレムオン個人は……となれば必要以上に権力を誇示するでもなく、豪奢な生活におぼれるでもなく、ロストール王宮の腐敗に心を痛める一人の青年だった。
 どう考えてもあり得ないことだが、レムオンにロストールを裏切る気配が見えたのだろうか?
 だが、リオラは頭を振った。
 もしそんな片鱗でも見せようものなら、エリス王妃はリオラの元を訪れたりしないだろう。疑いの目を向けているのだと教えるなど、それこそ敵に塩を送るような真似だ。
 いくらリオラに目をかけてくれるとはいえ、エリス王妃がそこまでしてくれるとは信じがたい。
 ゆえに、ディンガルに内通している者があるとしても、それはレムオンではない。
 起こり得る可能性の芽を摘みとるというのなら、レムオン自身に言うほうがどう考えても手っ取り早いだろうし……。
 あれこれと考えては見たものの、結局、王妃の真意を量りかねたリオラは軽く頭を振って歩き出した。
 王宮を出る頃には、辺りはすっかり夜の景色になっている。
 釈然としないままのろのろとリューガ邸の前まで下ってきたリオラは、エリス王妃と何かあったのかそれとなく聞いてみようと屋敷の中に入っていった。
「ああ、リオラか。ちょうどいい所にきたな」
 出迎えたレムオンはリオラに向かって折りたたまれた紙片をよこした。
「ティアナから手紙が来てな」
「ティアナ様から?」
 渡された紙片を広げると、確かにティアナ・リューの署名でしたためられた短い手紙だった。
 相談したいことがあるので空中庭園で待っているという用件と時間だけ。
「お前にも一緒に来て欲しい」
「でも、相談があると書いてあるではありませんか。わたしが付いて行っては、話すものも話せなくなるのでは?」
 ティアナの相談ごとが何であるのか、今のリオラには分からない。
 けれど、もしかするとそれは自分との関係についてかもしれないと……そうであったならいいのにと、リオラは少なからず期待したのだ。
 本当にもしも拒絶状態にある関係についての相談ならば、自分はいるべきではない。
 そう思い遠まわしに断ったのだが、
「そうか。ならば、俺も行くまい。お前抜きでティアナには会わない」
「ティアナ様はわざわざ手紙まで出して、レムオンと話したいと言ってるのですよ?」
「俺はお前の前でしかティアナと話したくはないのだ」
「な……何を言ってるんです?」
「以前に言っていただろう、俺はティアナを傷つけてばかりいるとな。放っておいていいのか?」
「……」
「では、行くぞ」
 リオラが黙り込むのを見てとると、小さな苦笑を浮かべレムオンはさっさと出かける用意を始めてしまった。
 もう何度目か数えられないほどの重いため息をさらに増やしつつ、たったいま出てきたばかりの王宮へと舞い戻る。
 月のない空には星の瞬きがくっきりと浮かび、吹き渡る風は澄んで冷たく、空中庭園は夜に包まれていた。  
「ティアナは……まだのようだな」
 辺りを見回してみても、ティアナはおろか他に人の気配すらない。
 が、程なくして威勢のよい足音が近づいてきた。もちろん、ティアナのものではあり得ない。
 ひょいと現れた大きな人影はきょろきょろと辺りを見回す。
「なーんにもねぇな。すごい悪のニオイがしたのにな……」
 茶化すような残念がっているような口ぶりのその声には、兄も妹も十分に聞き覚えがあった。
 早速、レムオンが眉をひそめる。
「……ゼネテス?」
「レムオン?」
 足早に近寄ってきたゼネテスは、二人の姿を認め口の端を楽しげに持ち上げた。
「こりゃ、面白い。おい、お前がこの手紙の主か?」
 そう言ってゼネテスはヒラリと小さな紙片を手渡した。
 受け取ったレムオンは目を落とすと同時に、顔を紅潮させる。
「だっ、誰が貴様などに恋文を出すものかっ!!」
 傍らから紙片を覗き込んでいたリオラは、レムオンの絶叫に大きく首をすくめ、ゼネテスは心底おかしそうに笑い声をあげた。
「冗談だ、エリエナイ公。そんなに怒っちゃダメだぜ。もっと人生を楽しまないとな。そう思うだろう、リオラ?」
「……」
 明らかにレムオンが怒ると分かっていてのゼネテスの行動に、リオラはやれやれと小さく息を吐き出す。あえてその事には触れず、話題をそらした。
「ゼネテス様をお慕い申し上げております……ですか。確かに立派な恋文ですね」
「本気で恋文だと思うか? 差出人は書いてねぇは、そのくせ王宮の空中庭園なんて所に呼び出すわ、胡散臭さが爆発してるだろ?」
「ええ……」
「これを作った奴は俺のことがよく分かってるよ。これ程あざとくも稚拙なおびき寄せの罠なんて、俺にとっては挑戦状みたいなもんだ。……てなわけで、ちょっくら危険に足をつっこみに来たわけだ。ま、お前さんがいるなら、なお面白くなりそうだな」
「……」
 ロストール軍総司令並びにファーロス当主としての日々によほど退屈していたのだろう。
 ゼネテスの瞳には我が身に降りかかる危険を心から楽しみにしている節が、明らかにあった。
 親しみをこめて笑いかけるゼネテスにリオラが軽く肩をすくめた時、レムオンが一つ咳払いをこぼす。
「ファーロス司令。俺の妹にちょっかいを出すのはやめてもらおうか」
 低い声の警告に、だが、ゼネテスは大げさに両手を組んで懇願の姿勢をとる。
「お義兄様! そんなつれないことを仰らないで下さい!」
「誰が貴様のお義兄様だっ!!」
 冷血の貴公子の通り名が逃げ出すほどのレムオンの大声に、リオラは軽く眩暈を覚えて額を抱える。
「冗談だ、エリエナイ公。だがな、それを言うなら、リオラは俺の大事な友だ。手を出すのはやめてもらおうか?」
「手を出す、だと? だ、誰が実の妹に手を出すか!」
 三度目の絶叫にはさすがに慣れたものの、リオラは呆れ果てて声も出せずにいた。
 頭一つほど大きな男二人が──レムオンは絶対に否定するだろうが──じゃれあっている様子は、傍目に見てもおかしかった。まして、本人を目の前にして。
 のけ者にされている話題の当人であるリオラは、冷ややかな目で二人を見守っている。
 ゼネテスはレムオンのペースを乱すのが楽しくて仕方ないらしく、当然レムオンはそれを快く思うはずがない。ファーロス家云々の前にそちらの方がゼネテスを嫌がる原因なのかもしれないとさえ思える。
 大きく肩で息をついて、どうにか平静の表情をとり戻したレムオンだが、眉間に刻まれたしわだけはどうにもならないらしい。
「大体、俺は総司令殿と違って女性関係は潔癖なのだ。そういう警告は無用」
「だからこそ、言ってるんだよ」
 不意にゼネテスは真顔を見せた。
「女の扱い方も心得ていないような奴に、リオラといる資格はない。特に、手を伸ばせば届く幸せにさえ、あれこれ理屈をこねて手を出さない臆病な手合いなら、なおさらだ」
「何が言いたい?」
 一転して、二人の間に夜風のようにひんやりとした空気が漂った時、遠くからかすかな物柔らかな足音が届く。
「リオラ様……」
 リオラにとっては久しぶりに聞くティアナの声だった。
 それは怯えたような声音で、今にも逃げ出していくのではないかと不安にかられた。
 せっかく会えたのだから何としても話をしようとティアナに向かって一歩踏み出したところに、ちょうどティアナのいるの逆の方から軽やかに弾む足取りが駈けて来た。
「リオラ様! 私、手紙をちゃんと自分で読んで参りました!」
 星明かりにも負けず瞳を輝かせて飛び込んでくるアトレイアを辛うじて受け止める。
 アトレイアの言う手紙に、リオラはまったく心当たりがなかった。
「俺たちは全員、罠にハメられたようだな。そら、今回の罠の仕掛け人のご登場だ。詳しいことは奴から聞いてくれ」
 ゼネテスの細めた視線の先には黒い霧が立ち昇り、間もなく人の姿が現れる。
「ようこそ、みなさん! 闇の王女のための血の晩餐会へ!」
 すでに見慣れた子供の姿。
 伸ばした黒髪を夜風の中にとかしこみながら、無邪気に笑うシャリがそこにいた。


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