其の壱 その歩み 杯を求め

 広大な大地、バイアシオン大陸の南にロストールという名の王国がある。
 その王都ロストールでは、悪質な貴族が民衆をいたずら半分に苦しめていた。
 そして、それと時を同じくして、古代の神々にまつわる神器をめぐり闇の僕達が動き出そうとしていた……
 大いなる魂の物語の一つは、ここから始まる……


 ヒューゴ=エルザードは剣を抜いて、緊張していた。
 ロストール王国の王都ロストール。平民地区とスラム地区、貴族地区のそれぞれを繋ぐ噴水広場。普段はあらゆる階級の人間が往来し賑わっているその憩いの空間は、今に限っては戦場となっている。
 目の前にはミミズめいた巨大な生物。体長は三メートル程もあるだろうか、ぬめぬめとした赤紫の毒々しい表皮は、見る者に生理的な嫌悪感を引き起こさずにはいられまい。花弁のように大きく開いた口は、ナイフの様な鋭い鉤爪を生やしていた。神経が細い者ならば見ただけで失神しかねないような醜悪なモンスターであった。
 モンスターは意思の疎通には使えそうもない鳴き声を発しながら平民地区に向かって進もうとしている。それを阻止せんとしてヒューゴはこの場にいるのだ。
 隣には剣術道場の師範であるオッシ、師範代と、同じ道場に通う幼馴染みの少女であるアイリーンが同じように長剣を片手に、一様に緊張した面持ちを見せていた。
 背後ではモンスターが暴れた事によって出た怪我人と、それを手当するべく駆けつけた平民地区の住人達が騒いでいる。先程道場の兄弟子がその怪我人に仲間入りしたところであった。
「くっ……!」
 どこかぎこちない仕草で左手の剣を振るい、表皮に弾かれたオッシが忌々しげに舌打ちする。危なげなくモンスターから距離を取り、ぼやいた。
「こんなモンスター、どっから沸いて来やがったんだかな……」
「そんなの決まってるじゃないですか、先生」
 小刻みに距離を調節して攻撃の機を窺っているアイリーンが悔しげに視線をずらした。ヒューゴも同じように憎悪を籠めてそちらを見やる。
 噴水の向こう側、貴族地区の手前で貧相な男が楽しげに高笑いをしていた。隣にいるでっぷりと太った男に上機嫌に何か言っている。
「タルテュバのクソ野郎の仕業でしょうよ、こんなモン」
「御貴族様の戯れでございってか」
 吐き捨てる様に師に告げると、オッシは苦笑と共に言葉を漏らした。
「道理で騎士団が救援に来ねぇワケだ。連中、貴族の事しか眼中にねぇからな……」
 言いながらも二度、三度とモンスターに攻撃を仕掛けるがいずれも牽制程度の効果しかないようだ。鋭さに欠ける斬撃はその表皮に弾かれる。しかし無理もない。オッシはかつて負った傷が元で、利き腕である右手の握力が酷く低下しているのだ。剣筋がぎこちないのは、慣れない左腕で剣を振るっているからに他ならない。
 それでも、実戦経験が豊かな彼は実戦の空気に呑まれまともに動くことさえ出来ない他の三人とは違い、危なげなくモンスターの進行を阻んでいる。
「くそっ! 絶対町には入れんなよ! 平民地区は俺達が守るんだ!」
 此処でこのモンスターを斃さねば、平民地区の誰かが傷つく。あるいは死に至るかもしれない。そして騎士団は期待できず、不運にも腕の立つ冒険者は今近くにはいない。故に師は古傷を押してこの場に立っている。そして、自分達を鼓舞するために叫んでいるのだ。
 それは分かっている。だが、ヒューゴはモンスターに斬りかかるだけの気力を奮い起こせずにいた。それどころか出来ることなら今すぐこの場を逃げ出したかった。目の前の怪物がどうしようもなく怖い。それをしないのは、背後に怪我人を庇っている事実と――何よりもタルテュバへの憎悪の為だった。
 あんな頽廃した貴族の思い通りになどさせてたまるものか。その一念が、辛うじて彼をこの場に踏みとどまらせている。だが、それだけだ。そこから先に踏み出せない。
 戦えば怪我をする。怪我をすれば痛い。そしてその決着は、いずれかの死を以てしか付かない。それが恐ろしいのだ。
 痛いのは怖い。死ぬのが怖い。そして――命を奪うのが怖い。周囲の血臭、モンスターの悪臭、苦痛の呻き声と狂乱の叫び声。そうした周囲からの刺激がヒューゴの中の恐怖をひたすらに刺激し、際限なく増幅していく。手の中の磨き抜かれた刃すらが、恐怖を助長するために綺羅綺羅と嘲笑している気すらする。
「うわぁぁぁぁぁぁ!」
 そうした恐怖は、他の二人も似たようなものだったのだろう。緊張の糸が切れたのか何処か捨て鉢な雄叫びを上げ、師範代が剣を大上段に振りかぶる。
「バカ! やめろ!」
 慌ててオッシが制止の声を上げるも既に遅い。躍りかかった兄弟子は、剣を振り下ろすより先に怪物の体当たりをまともに食らい、もんどり打って地に伏せた。
 その光景はヒューゴにはやけにゆっくりと見えていた。何処か遠くで起きている出来事の様に現実感が伴わない。
 モンスターは犠牲者を美味しく頂く積もりなのか大きく身をたわめる。そして溜めた力を解放し――
 このままでは師範代は死ぬ。それを理解した時、自分の中で何かが弾けた。頭の中が白くなる。全ての恐怖が喪失し、あらゆる感情が消滅した。
 残ったのは師範代を護るという意志のみ。それ以外の何事も考える事は無く、彼はモンスターの前に立ちはだかった。
 時の速度が元に戻る。モンスターの姿が一気に大きくなり、その牙が防御の為に構えた剣にぶつかり、耳障りな音を立てた。凄まじい力に踏ん張ることなど全く出来ず、彼はそのまま吹き飛ばされる。
「ヒューゴ!」
 アイリーンの悲痛な叫びの中、受け身を取ることもままならずに背中を激しい衝撃が突き抜ける。そのまま石畳を転がった。
 意識が掻き乱され、視界が歪む。全身が痛み、平衡感覚が揺らされる。それでも手放さなかった剣に意識を引き戻され、起きあがろうともがいた。
「ヒューゴ! 退がれ! 無理すんじゃねぇ!」
 いや師匠。それも無理ですって。
 苦笑と共に言葉を吐き出そうとするが、口から漏れたのは苦痛の呻きのみだった。尚ももがくが逃げるどころか地面に手を付く事さえままならない。どうにか首を巡らせると、モンスターが再び飛び掛かろうと体をたわめているのが目に入った。
 嗚呼、死ぬかな、これは。
 妙に淡々と、落ちた皿が割れるのを予想するように理解する。今更恐怖も沸いてこない。ただ、ぼやけた光景の中でモンスターの醜悪な口が緩やかにこちらに向かうのを眺めていた。
「させない!」
 しかし、その赤紫の姿は不意に消え、代わりに視界が青い影に覆われる。次いで、魂消るような絶叫が響き渡った。
 ボディアーマーを返り血で黒く染めながら、アイリーンがモンスターの胴に長剣を突き立てている。その背に重なる様に、剣を構えた剣士の姿が浮かび上がった。
「ヒューゴは!」
 彼女はそのまま剣を強引に振り抜き、返す刃を剣気と共に更に深く抉り込む。視界が再び暗くなっていく。
「私が――!」
 引き抜いた剣を大きく振り上げた幼馴染みの姿を最後に、ヒューゴは意識を手放した。



「ヒューゴ……」
 漆黒の世界で、遠くから声が聞こえてくる。
「ヒューゴ……あなたは、私が護ってあげる……」
 それはいつも聞いている声で。しかし今まで聞いたこともない優しい声。幾度も幾度も呼び掛ける。
「ヒューゴ――」
 呼びかけの中、世界が徐々に光を取り戻し。黒を白が塗りつぶしていく。
「ヒューゴ! いい加減起きなさい!」
「がっ!?」
 突然一喝され、同時に背中に衝撃が走る。びっくりして目が覚めると、呆れた表情の幼馴染みがこちらを見下ろしていた。
「あれ、アイリーン……?」
「ベッドから落ちたりして、寝ぼけてるの? 全く、しょうがないんだからぁ」
 差し出された腕を掴むと、一息に引っ張り起こされる。しかし、何が何だか分からない。一つ大きく深呼吸をし、しばらく集中して記憶を手繰り寄せる。
「えーと……あ。そっか、俺……あのまま気絶したのか」
「そう言うこと。もうお昼よ。まあ、無事で良かったけど……しっかりしてよね」
「面目ない」
 結局何も出来ずに倒された事を思い出して気落ちすると、アイリーンはやれやれと首を振った。近くの棚に置いてある長剣を手に取って、渡してくる。
「はい、おじ様の剣。先生に挨拶して来なさい。心配してたから」
「ああ……」
 父の形見、長剣「アルゲントゥム」を受け取り腰に剣帯を巻き付け、固定する。引き抜いて刀身を検分してみれば、巨大なモンスターの体当たりをまともに受け止めたハズのそれは、いつもと同じ様に白銀の輝きを放っていた。折れるどころか歪んだ様子もない。流石は、父が愛用していた剣だ。
――だが、今の自分には過ぎた代物だ。
「……ふう」
 溜息混じりに鞘に収める。視線を上げると、既にアイリーンは姿を消していた。こちらに気を使ってくれたのか――はたまたいつも通りのゴーイングマイウェイか。それは分からないが取り敢えず胸の裡で礼を言って、部屋を出た。
「おう。昨日の怪我は大丈夫か?」
 住んでいる家――アイリーンの実家のエルメス家――のすぐ近くにあるオッシの道場では、いつも通りオッシや先輩達が修行していた。昨日の大立ち回りの事など無かったかのように。
「ええ……大丈夫です」
「派手に吹っ飛んでたからな……ちょいと心配ではあったが、それなら良かった」
 師は晴れやかに笑い、次いで表情を引き締める。それだけで何事か起きたのが分かった。
 オッシは基本的に飄々としている。かつてどんな経験をしてきたかは知らないが、昨日のモンスター騒ぎの最中ですら余裕を保っていたのだ。その師がこんな顔をするのはちょっとやそっとの事件ではあるまい。
「実はな。ちょいと厄介な事が起きてんだ」
「……昨日の今日で、ですか?」
 一切の笑みが無いその声音にこちらも緊張する。予想は当たっていた様だ。
 タルテュバの下衆な行いは、連日起きる事は少ない。であれば、師がこれほどまでに余裕を失う事件とは如何なるものか。
「ああ。その昨日のモンスター騒ぎの最中だ。何者かがこの街に保管されていた禁断の聖杯を盗み出したらしい」
「なっ……!?」
 禁断の聖杯――何人たりとも触れることなかれと封じられていた強大な魔道器。魔術的に強力な封が施されており、生中な手段では近寄ることさえままならない筈なのだが。
「で、だな。ちょいと調べてみたところ、丁度その頃、人の言葉を喋るゴブリンの三匹組を見たって話があってな」
「喋る……ゴブリン?」
 ゴブリンは闇の影響を受けた、人やそれに類する生物に似た外見をしており森などの大陸各地に存在するモンスターである。知性はそれなりに高く、人里に忍び込み家畜や穀物などを盗んで行くとは、そして近年は徐々に凶暴な個体が増えてきているとは聞いたことがあるが……人語を解するというのは初耳だった。
 オッシも同じ事を考えていたのだろう。一つ大きく頷く。
「俺も、喋るゴブリンなんてのは初めて聞いた。だが、こいつは怪しいだろ。今まで聞いたこともねぇ喋るゴブリンが、王都ロストールなんて大都市に現れた。しかもそのタイミングで強力な魔道器が盗まれた。こいつを偶然って考えるのは難しい」
「そう……ですね。聖杯がどんな魔道器かは俺は知りませんが、あれだけ厳重に封印される代物ですし」
 まして、知能があるが故にゴブリンは大都市には現れない。それが自らの命を縮めることが分かるからだ。そうであれば無関係ではあるまい。
「ああ。モンスター騒ぎも一段落したし、そろそろ他の連中も聖杯が無くなったことに気付くだろう。そうなると大騒ぎだ。だからその前に出来るだけ調べてるんだが……ゴブリン共の居場所が掴めたらお前の力も借りる事になると思う……やってくれるか?」
 こちらの心情を見抜くような鋭い視線。助力を乞うていると言うよりはヒューゴの意気を試す様な言葉の調子。
 頷くより他にはなかった。ゴブリンは低級な妖魔だ。怖じ気づいて行けない等と言おうものならば、これから先、剣を学ぶ資格などあろうはずもない。
「ええ……分かりました」
「よし」
 そういった思惑も承知した上でだろう、満足げに頷く。口元がつり上がっているのが見えた。
 ひとまず、試験には合格と言ったところか。だが、また昨日の様な醜態を晒すのかと思えば気が重くなるのは避け得なかったが、どうにか表情には表さない様努める。
 努力が功を奏したのかどうなのかは分からなかったが、オッシは表情をいつものものに戻した。声も若干だが軽くなる。
「じゃ、そっちは分かり次第頼む。それまで……そうだな。一つ、頼みたいことがあるんだが、聞いてくれるか?」
「ま、まさか師匠、あの恐ろしい仕事を……」
 それまでは隣でいつも通りの修行を続けていた師範代が、話題が変わった途端、戦慄した声を上げる。
「うるせぇ。お前等が行きたくねぇっつーのが悪ぃんだろうが!」
「いやだって……」
 睨め付けられると即座に視線を逸らし、何事かを口の中でもごもごと呟いている。
 その態度の理由がさっぱり分からなかったので、視線でオッシに問い掛けると、彼は少々気恥ずかしそうに口を開いた。
「いや、実はな。酒場にツケが溜まっててな。俺よりツケが溜まってる鍛冶屋の親父と折半して払う事になったんだよ。俺って太っ腹だろ?」
 そこで得意げな顔になる。だが、頷くことは出来なかった。そもそもツケを溜めている事自体が褒められるべき事ではない。むしろ半眼で睨む。オッシは一つ咳払いをした。近くのテーブルに載っている革袋を手に取る。
「で、済まねぇが、こいつと鍛冶屋の親父の分を合わせて、フェルムに渡してきてくれねぇか。俺はここでゴブリンの情報待たなきゃならねぇからよ」
「……仕方ありませんね。そう言うことなら、引き受けますよ」
 苦笑しつつも頷く。受け取った革袋はずっしりと重く、どれだけの額ツケが溜まったのかは考えたくもなかった。更に小さな布袋も渡される。
「で、こっちは駄賃だ。お前も冒険者の卵なら小銭よりこっちのが入り用だろ?」
 中を覗くと、元気の薬と、より希少な元気の秘薬が入っている。安い代物ではない。お使いの駄賃で貰うには少々高価な代物だった。
「流石にこれは……」
「貰っておけ。俺が持っててももう使う機会ないだろうからな」
 遠慮しようとしたが、それを拒否する瞳には僅かな寂寥感が漂っており、それを見たヒューゴはこみ上げるものと一緒に言葉を飲み込み、大きく頷く。
「ありがたく頂戴します」
「おう。ヒューゴ、頼んだぜ」
 師匠はそれでも尚、明るく笑ってそう言った。


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