** ある錬金術師の物語 **
  • 紫の紗幕 02
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     数夜に渡る局地的な大事件の後、フィールデン王国には瞬く間に季節が巡った。
     初夏の風には熱気が加わり、陽射しはより高く輝きを増して地上に降り注いだ。
     王都ルイーダの夏はそれほど過ごしにくいものではない。
     暑いに違いはないが空気はサラリと乾き、涼を運ぶ風も往々に吹き渡る。鮮やかな色をした夏の花々が咲き香り、樹木は青々と大きく枝を伸ばして人々に束の間の憩いの場を与えた。
     いささか多くはあるが心地よい汗をかき、潤沢な水で喉を潤す。夕暮れからは冷えた果実や酒が飛ぶように売れ、食欲をそそる匂いが大通りに満ち溢れる。
     長くなった太陽の支配は大半の人々には恩恵……が、そんな恵み豊かな夏に音をあげる者もいる。
     広大なノーティア大陸の北の果て、一年の大部分を極寒に閉ざされる冬の国スーニエルに生まれ育ったジルベルであり、ミューリフであった。
     もっとも、二人が滅入っているのは慣れない暑気のせいばかりではない。
     この夏の始まりに彼女らは師を失ったばかりだった。
     数年ぶりの再会と、唐突な別れ。
     長らく行方知れずだったが、今度こそもう二度と会えないのだという事実は、時を経て改めて深い喪失感となった。
     こんな時、弟子二人が顔を合わせていたのは、幸か不幸か。
     互いの中に見える師の面影に、いつでも思い起こせる懐かしさが半分、いつまでも残る哀しさが半分。
     そんなミューリフはスーニエルからの特使として王宮に滞在し、何日かに一度この国の魔導師たちの指導を行っている。
     逆にいえば、それ以外の時間の大半はジルベルの家に入り浸りで、あらゆる雑事──一般家事から店番、合成助手にいたるまで──を一手に引き受けてくれていた。
     はじめのうちこそ、やれ恋人だなんだとあらぬ噂もたてられたが、結局のところ二人の関係は色恋沙汰には程遠いことは一目瞭然で。
     優雅な物腰に繊細な気遣い、男性を感じさせない見目麗しい風貌とまだあまり知られぬ異国の神秘性──今ではすっかりミューリフ目当ての女性客の開拓に知らぬうちに成功してしまったような有様だ。
     いつしか彼に店を預けることが多くなったジルベルは、一人二階に引きこもり何をしているかといえば。
     何ということもなく、流れるにまかせ無為な日々を過ごしていた。
     いつの間にか増えに増えている器材や雑貨の整理に手を付けてみたり、あれこれと買い求めたもののなかなか手付かずになっていた書物を紐解いてみたりしたのだが、結局どれ一つとして実になったものはなく。
     それでも日々は流れゆき、もう数え切れない死を目の当たりにしてきたジルベルに、改めて、無常を染み渡らせる。
     誰であっても──たとえどれほど偉大な人物でも、何であっても、この世に存在する限りやがて終わりの時が来ることの無常を。
     同時に、個人にとっていかに大切な何が失われようとも、我々を内包する世界は勝手に巡り移ろいゆくのだという無常を。
     そして恐らく、今は大きな空疎感もいずれ時の中でその痛みを和らげ、思い出に変じていくのだろう。これまでがそうであったように。
     と、流れ込んできた風に僅かに髪を乱されて、意識がこの世界に戻ってきた。
     誘われるように傍らの大きく開いた窓辺へと移動すれば、晴々とした世界が目の前に広がる。
     いつもと変わらぬようでいて、決して同じ時を刻むことはなく。
     置き去りにされているようでいて、自分自身もまた確かに留まることのない流れの一部として流れ続けるのだろう。
     全きもの、完全なるもの──要するに普遍であり不変であるものを目指す錬金術師としては、いささか諦観気味ではあったが……。
     けれどやはり、在るがままに在ることしかできないのだ、などと思わず苦笑してしまうような陳腐な結論に落ち着いたところで、舞い込む風がほんのかすかに秋の気配を乗せていることに、ようやく気づいた。
     そういえば、お茶の用意ができたと声をかけられてどれくらいの時間が過ぎただろうか。
     階下から聞こえてくる少し高い少女の声は楽しげで、客人──もはや日課の如くに訪れているのだとしても──の饗応役までミューリフにまかせっきりになっていることに苦笑する。
     未ださんさんと眩しすぎる陽射しに、ジルベルはゆっくりと手をかざした。
     そうして女主人がなかなか姿を見せぬ間も、歓談を続けるエマリーのカップはすっかり空になってしまった。
     あまりにも自然なそぶりでそそくさと二杯目を注ぐミューリフは、ふと目の前の少女の視線が自分に向けられている事に気づき微笑を浮かべる。
    「どうかなさいましたか、エマリーさん?」
    「あ、えっとですね。わたしの相手なんてしてくれてるけど、本当はミューリフさんはスゴイ人なんですよね?」
    「凄いだなど……、と、とんでもない」
     大きな目で尊敬の眼差しを向けるエマリーに、恐縮しきりに腰がひける。
    「だって、スーニエルの宮廷魔導師なんてスゴイじゃないですか」
    「いいえ。本来なら私のような若輩に回ってくるはずなど、なかったのです」
     どこか哀しげなその表情にエマリーは小さく息をのむ。
     かつて宮廷魔導師を務めたこともあるという彼の師、魔女とよばれたシェイザという人物の偉業と死とを、少女もまたつぶさに経験したのだ。
    「ご、ごめんなさい。その……思い出させちゃいましたよね」
    「お気遣いありがとうございます。ですが、こうして思い出すのも悪くはございません」
     肩をすぼめるようにして上目遣いのエマリーに、ミューリフは柔らかく笑った。
    「本当に……スーニエルは力ある魔導師を失いました。その多くは戦渦で亡くなられたのですが、国を出られた方も幾人かおられました」
    「ジルさんみたいに?」
    「ええ。シェイザ様もそうでございますし、それから、カルキード様も……」
    「カルキード様?」
    「はい。カルキード様もジルベル様と同様、塔主のお一人でいらっしゃいます」
     言葉を切ったミューリフが静かにお茶を口に含んで喉を潤す。
     その間、エマリーは指をおり何かを数えていた。
    「確か、塔主って五人でしたよね?」
    「ええ」
    「えーと、ジルさんと、ジルさんとミューリフさんのお師匠さん。それから、一人は亡くなられたんでしたよね?」
    「バークール様でございますね。シェイザ様のご夫君で私もずいぶん可愛がって頂きました」
    「それから、今の、ええっと、カルキードさん?」
    「それから魔導院の長であるプロパートル様で五塔主となります。と申しましても、プロパートル様以外はもうスーニエルにはおられませんが」
     さらに言えば、生存を確認できる者は二人きりとなってしまった。プロパートルとジルベルと。
     複雑な思いがミューリフの胸中に浮かび上がる。
    「カルキード様がおられれば、私はこの国には来ていなかったでしょう。国を代表するに相応しい魔導師にでしたから」
    「そうなんですか?」
    「ええ。それはそれは優れた魔導師でありながら、本当に研究熱心な方でした。真面目で篤実で周囲からの信頼も厚く……」
    「?」
     エマリーの前で、ミューリフは言葉を詰まらせる。
     青年がその綺麗に整った顔を哀しげに歪めた時だった。勢いよく表の扉が開く。
    「よぉ、来たぜ。なんか食わせてくれ」
     簡単な挨拶と単刀直入な要求を、欠伸交じりにして飛び込んできたのはダグレイだった。
    「いらっしゃいませ、ダグレイさん。こちらにどうぞ」
     女性と見まごう柔らかな微笑で、ミューリフは威勢のよい青年を招きいれた。
     夜番を終え一眠りした後に訪れたダグレイは、勧められるままに席につく。
     途端に、頭上に響く派手な物音。
     三人は顔を見合わせ大慌てで階上に駆け上がった。
    「ジルベル様!」
     真っ先にたどり着いたのはミューリフで、どこか青い顔で室内を見回す。
     何かの病でも発したのではないか、という危惧はすぐに払拭された。
     倒れていたのは椅子だけ。その椅子を愛用しているジルベルは、机に片手をついて立ち上がっている。
     もう一方の白く細い手には、美しい緑の輝きを放つ指輪を摘んでいた。
     くい入るように指輪を覗き込む灰色の瞳には、明らかな驚きの色が見える。
     そのまま動かないジルベルに戸惑っていたが、とうとうエマリーが声をかけた。
    「あの……ジルさん、どうかしたんですか?」
    「 『タブラ・スマラグディナ』 」
    「え?」
     ちらと僅かに視線を向けて呟いたきり、今度は怪訝な顔で考え込んでしまったジルベル。
    「タブ……何だって?」
    「えーっとぉ?」
     ダグレイに問われ、小首を傾げるエマリーに助け舟を出したのはミューリフだった。
    「タブラ・スマラグディナ──錬金術の基本原理、原点であり原典、とそのように伺っておりますが……」
    「あーーっ!」
     素っ頓狂に声をあげるエマリーに向けられたダグレイの視線が痛い。
    「お前、錬金術師だよな?」
    「そ、そうだよ!」
    「そんなだからお前の合成は……いや、いい。よっく分かった気がするぜ」
     気の抜けた吐息をこぼすとジルベルの方へと視線を移した。
    「で、それがどうしたってんだ? エマリーじゃあるまいし、ジルさんにとっちゃ珍しくも何ともないものなんだろ?」
     その言い草に、ひどいと拗ねるエマリーに素知らぬふりをする。
     苦笑でなだめる役はミューリフに回った。
    「ええ……中身については今さらではあるのですけれど……いえ、でも……」
    「なんだ、煮え切らない言い方だな」
    「元々、内容自体、はっきりしないものでもございますし」
    「どういう意味だ?」
     聞いても分からないかもしれないけどよ、と尻すぼみがちに続ける青年に、ジルベルは手にしていた指輪を軽く窓の方へと持ち上げ陽にかざした。
     数度、微妙に傾ける角度を変えると、間もなく飾り石に取り込まれた陽光は淡い乱反射から一本の緑の帯に集約され、辿った先の白壁に不思議な像を描いている。
    「……内容がどうとかじゃなくってさ、これが何なのかってのがまず分からないな」
     ダグレイの目に映るそれは、せいぜいが緻密な文様か、下手をすれば子供のいたずら描きにしか見えなかった。
     説明を求めるように横目でうかがえば、傍らのエマリーも困った様子で視線をそらしている。
     少女の窮地を救ってくれたのは、またも異国の宮廷魔導師だった。
    「これは古代魔導言語の一つ、それもかなり初期のもの。ご存知ないのも無理はないでしょう。ええっと──これは嘘偽りなく真実、確実にして、この上なく真正である──まさしく、タブラ・スマラグディナのようでございますね」
     旋律じみて流れる穏やかで澱みない声で向けられた微笑に、エマリーはまたあらぬ方へと視線をさまよわせる。
     そんな機微にはまったく気づかぬ様子のミューリフは再び壁に浮かぶ文字をたどった。
    「唯一なるものの成就にあたっては、下にあるものは上にあるもののごとく、上にあるものは下にあるもののごとし──というところでしょうか。以前、私がジルベル様から伺ったのとほぼ変わらぬ内容だと思いますが、何か不審なことでも?」
    「内容以外のすべてが不審と言えますわね」
     それが文字だと認識することさえ難しい何かを当然の顔で語る二人に、ダグレイは焦ったように窓の外を眺める。
     うっかりと異国に迷い込んだような気分を味わったが、間違いなくここは彼の国だった。
     傍らでは恋人が難しい顔でうなっている。
    「俺からすりゃ、その内容とやらも訳が分からないんだが。お前は、その、分かってんのか?」
    「聞かれると思ったから頑張って思い出してたんだけど……一応、うん、一応なら、習ったようなそうでないような?」
    「頼りねえなぁ。錬金術の基礎なんだろ?」
    「基礎じゃなくて、基本原理。こうしろとか、ああしろとか、そういうのじゃなくて、こうあるものですよっていう指標みたいな……」
    「はぁ?」
     ますますダグレイを困惑させるエマリーに、三度目に差し出された救いの手はジルベルのものだった。
    「エマリーちゃんが仰っているのは、ある意味では一番分かりやすい説明ですのよ」
    「そうなのか? じゃあ、こいつも意外とまともに錬金術やってるってわけだ」
    「意外と、って何よ!」
    「お前があんな曖昧な言い方するからだろ?」
    「曖昧にならざるを得ないのですわ、ダグレイさん」
     子供のように頬を膨らませる年下の友人に苦笑しつつ、ジルベルの視線は壁に浮かぶ古き言葉をたどる。
    「太陽はその父であり、月はその母、風がそを胎内に宿し、大地が乳母となる」
    「なんだ、神話か何かか?」
    「そこに書かれている一節ですわ。神話というより寓話……わたくし達は寓意としておりますけれど、要するに大切な事柄がひどく抽象的にまたは詩的にほのめかされていますの」
    「そんなんで分かるのか?」
    「ですから、最初に申し上げましたでしょう? 内容自体がはっきりとしないものだ、と」
     古の錬金術師の祖──その存在そのものでさえ神話じみている──が記したとされるその文章に、いかな解釈を施し、いかなる意味を持たせるか。
     それが後の世に錬金術を学ぶ者たちの命題であり、悩みの種となる。
    「現在ではいくつかの代表的な解釈というものに定義付けられていますけれど、お聞きになりまして?」
    「いや、いい」
     即座にきっぱりと辞退し、青年騎士は手持ち無沙汰に頭をかく。
    「悪かったな、話の腰を折っちまって。ジルさん達にとって大事なのはソコじゃないんだろ?」
    「錬金術師にとっては至上の提題なのですけれどね。でも、確かにいま問題なのは、どうしてそのようなものがこの指輪に仕込まれているのか、ですわね」
     言いながらジルベルは弟弟子の方へと指輪をさし向け、壁の像はたちまちに消えた。
    「お分かりになりません? これはシェイザから譲られたあの指輪なのですわ」
    「え……? た、確かに形状は同じ……ですが、石の色が……」
    「ええ、何が作用したのか見当もつきませんけれど、確かに変わったのですわ。こうして、白から緑に」
     きっかけが皆無だったわけではない。
     が、掌の上で何ということもなく転がしていた師の形見を、不注意で落としてしまっただけ。
     一瞬見失い、足元に転がったそれを拾い上げた時には、変化は起きてしまっていた。
     驚き、よく見ようと陽の下にかざせば、さらに驚きを重ねることになったというわけだ。
    「台座の方は確かにわたくしが頼まれて合成した呪具に違いありませんけれど、石はシェイザ自身が用意していたものですわ。あの時からこのような仕掛けがなされていたのか、後のことか、もう定かにはできませんけれど」
    「でも、何故、シェイザ様が……」
    「ええ……”何故””シェイザ”が、まさにその通りですわ」
    「ジルさんの師匠のものなんだろ? だったら何故もなにもないんじゃないのか?」
     何故を繰り返していた弟子二人は、口をはさんだダグレイにそろって向き直る。
    「わたくしの師ではありますけれど、シェイザは錬金術師ではありませんもの。知識がなかったわけではないでしょうけれど、それこそ錬金術師でもないものが肌身離さず……わざわざ錬金術師に依頼して呪具に仕立てる理由が思い当たりませんわ」
    「他にもおかしな点はあるのです。例えば、どうして古代魔導言語などで記述されているのか。それ程の時を経たものなのか、シェイザ様や他の誰かがそうなさったのか、いずれにせよ余程に古代言語の造詣が深くなくてはならないでしょう」
     ジルベルは手の中にある指輪の緑を改めて覗き込む。
     一片の曇りもない深い色合いの翠緑は傷ひとつなく澄み切って、いっさいの禍々しさとは無縁の強い輝きを内包していた。
     師はこの仕掛けを知っていたのだろうか?
     知っていたのなら──知らなかったとしたなら尚更になるが──何故、そのようなものを大事に身に付けていたのか?
     白から緑へと変じた仕掛け自体も理解できない。
    「やはり記された内容以外の何もかもが謎ですわね」
     何やら随分と意味ありげな置き土産のようだと遅まきに気づき、ジルベルは吐息をつく。
    「いつまでも腑抜けていないでしっかり励めという、故人からの叱咤ですかしら」
    「そのような口幅ったいことを言う方でもございませんけれどね、シェイザ様は……」
     苦笑を交わしながらも難しい表情の二人の前で、エマリーとダグレイも怪訝な視線を重ねる。
     どこか言い知れぬ不安を胸の内に広げる四人をよそに、疑問符だらけの指輪は鮮やかに眩い緑のきらめきを弾かせていた。
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