** ある錬金術師の物語 **
  • 紫の紗幕 01
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     辺りは押しつぶされそうな程の黒い黒い夜に覆われている。
     長い冬の間に降り積もった雪はいまだ深く、凍った白に覆われた建物からポツリポツリと儚い灯りがこぼれ瞬いていた。
     だが、男が見上げたその部屋だけは、いつまでたっても明かりの灯る気配がない。
     不審……いや、不安に駆られ急ぎ飛び込んだその部屋に、すでに人の気配はなかった。
    「行ってしまった、か──」
     男が手に提げる灯明の炎が隙間風にちらちらと震えて揺れる。
     暗い部屋の中は、どこもかしこもあまりにもきちんと整え片付けられていた。
     予感──それもほぼ確信に近い──はあったのだ。
     にも関わらず、その衝撃は予想以上に大きく、膝が震えてよろめいた身体を戸口に手をついてようやく支える。
     いくぶん和らいできたとはいえ厳寒の北の大地に春はまだ遠く、時折唸るように吹き付ける雪まじりのこの風の中──それでも彼女は行ってしまった。
     男はしばらくの間、ただそこに呆然と立ち尽くしていた。
     暖のない部屋の底冷えと共に、じわじわと目の前の事実が腹の底深くに落ちていくまで。
     大きな鐘が頭の中でけたたましく鳴り響いているかのように、周囲の音は遠く、目に映る風景はぐらぐらとぶれる。
     やがて、どこをどう歩いたのか、気づけば男は自室に戻っていた。
     灯りもつけず寝床に仰向けに転がっていると、暗い天井から、背中から……重苦しい闇がゆっくりと自分の身を蝕んでいくようで。
     指先一つ動かすことさえ億劫で、呼吸しなければならないことさえ煩わしく感じる。
     おかげで戸板を閉めるのも忘れ、夜が深まるにつれてひどくなった冷たい風に窓の一枚を破られてしまった。
     あっという間に部屋の中に吹き込んできた雪のツブテと凍った風──それでもなお、彼は動かない。
     もし忠実な助手がその物音に気づいてくれなければ、男の凍死は確実だっただろう。
     開けっ放しになった扉から駆け込んで来た助手は、思わず背筋を震わせる。
     冷え切った部屋に、横たわる部屋の主の姿に……何よりも自分の訪れにもピクリとも動かずじっと虚空を凝視する様に。
    「い、一体、どうなさいましたか? どこかお身体の具合でも悪いので?」
     一瞬立ち止まってしまった事を悔やむように、助手は大急ぎで男の身体を起こしてやった。
     すっかり冷たい身体を包もうと脱ぎ散らかしてあった外套に手をかければ、ぐっしょりと濡れてこちらも完全に冷たい。
     仕方なく足元の毛布をとり、ポツポツとついた雪の斑点を払って肩から羽織らせる。
    「大丈夫でございますか?」
     改めて問いかける助手の表情には、不安と得体の知れない恐れが入り混じっていた。
    「……」
    「とにかく……ここは私が片付けますゆえ、研究室の方にでもいらっしゃって下さい」
    「……」
     男は言われた通りに立ち上がり、無言のまま部屋を後にする。
     足取りはしっかりしているというのに、その後ろ姿は助手の心に宿る不安を煽るに十分危うげだった。
    「はあ……」
     慣れた様子で窓の戸板を閉じ、部屋に灯りを灯した助手に深い溜息がもれる。
     風に飛ばされた様々な研究を記した紙片がそこらかしこに散乱し、融けた雪が染みを付け始めているのに気づきまたはっと息を呑んだ。
     慌てて拾い集め、それほど滲んではいないことに胸をなでおろす。
    「本当に……どうなさってしまったのだろう」
     ずっと抱えていた心の内をポツンと吐露する。
     助手となって数年、はじめ稀だった放心状態がここ最近やけに頻度を増しているのが気がかりとなっていた。
     束ね直した紙片を丁寧に整えながら、ふと寝台が目に入り小さく身を振るわせる。
     つい今しがたまで横たわっていた男の顔を思い出してしまったのだ。
     微笑んでいるというにはあまりにも空疎で、その瞳は何を見ているのか、その口元は何を思って笑うのか、やけに作り物めいた表情。
     放心している時、きまって男にはその虚ろな笑みが浮かぶ。
    「……だからどうだというのだ」
     もう何度目か、助手は大きく吐息をついた。
     思索に耽って──あまりにも耽り過ぎのきらいはあるが──大半の者は難しい表情になるが、時には笑っているように見える人間だっているだろう。
     助手はいつもように自分に言い聞かせる。
     彼が師事する男は、そうした放心状態の後に素晴らしい研究成果をあげることが実に多い。
     ほんの少しの薄気味悪さが、一体なんだというのだ。
     他人に害を与えるわけでもないし、今日のように多少の手間を被る事もあるが、日常的に癇癪で怒鳴り散らされたり、無理難題を押し付けられる同僚を思えば大した苦労でもない。
    「そうだ……着替え……。風邪でも召されては大変だ!」
     我に返った助手は、かき集めた資料を濡れていない一角に慎重に置いて辺りを見回した。
     散らかった部屋の片付けは、窓の修理ともども明日に回してもさし支えないだろうと判断する。
     それよりも今は、この部屋の主の様子の方が気になった。
     温かい飲み物、いや、あの様子ではお食事の方がいいかもしれない──そんな事を考えながら、灯りを落として部屋を出る。
     案の定、研究室の戸口でぼんやりとしている男の姿に苦笑をこぼす。
     それはある寒い一日の最後の出来事。

     やがて、遅い春の気配が巡ってくる少し手前、この男と助手は姿を消した。
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