** ある錬金術師の物語 **
  • 鬱金の波紋 16
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     閃き瞬いて消えていく無数の光の破片──幻想的な光景は、だがその真っ只中にいる人間たちにとっては、まさに悪夢のような光景だった。
     光が欠け落ちた向こう側はやはり光で、けれど、前よりうっすらと暗い。
     何枚も何枚も重ねた薄い光の膜が一枚剥がれ落ちるたび、暗黒が迫り来る。
     頭上から、足元から、かすかな揺れにも耐え切れず脆く砕け散っていく光。
     にも関わらず、立っているにも危うい激震はいまだ絶えず内包者たちを揺さぶり続けていた。
    「ぼさっと眺めてる場合じゃないよ」
     師の硬い声にジルベルもまた厳しい表情で頷く。
    「ここはもうすぐ本来の姿に戻る」
    「何も無くなる、ということですわね」
     距離や物質など、摂理と呼ぶ諸々の在るべきものを強引に無くして繋いだ結果、形成された無いはずの空間。
     本来そこは一瞬の通過点であり、強固なものではない。
     そうっと潜んでいるならばいざ知らず、これだけの数で大暴れすればどうなるかなど日を見るより明らかだった。
    「ですけど、この人数を連れて、しかもこの状況では──」
    「馬鹿だねぇ。出来るも、出来ないも……やるしかないじゃないか」
     このままでいてどうなるか、そんな事はシェイザにも分からない。
     どこか現実の世界にでも放り出されるなら儲けものだが、どこでもない空間を漂うか、無に飲み込まれて潰えるというのが最もあり得る。
     我が身で試してみようという無謀は持ち合わせていないので確実ではないが、要するに無事では済まないという事だ。
     が、一刻も早く逃げ出すことが最良ではあっても、ここまで力場が不安定な状態では干渉するのも難しい。
    「それでも、やるしかない……か」
     そう呟いた土気色の顔が引き締まるのを見て、ジルベルは眉根を寄せる。
     代われるものなら代わりたい。
     王女を助けに来たと言いながら、せいぜい愚かな魔導師をやりこめただけで結局のところ何もしていない。
     うまく王女の元に辿りつけたのは祖国の隻腕の騎士であったし、黒装束の魔導師たちに力ずくの引導を渡したのは今住む国の騎士達だ。
     せめて無事に帰る手伝いぐらいはできればよいが、それも簡単な話ではない。
     こんな切迫した状況でなければ術式を教えてもらう事もできただろうに。
     ”空間転移”という超高度な魔術に消費される魔力は膨大で、疲弊しきった師の身体にかかる負担は計り知れない。
     そもそも術を成功させられるかどうかの懸念がなくもないが、そちらは不思議とさほど心配していなかった。
    「おい、ジルさん。どうすんだ、これ。大丈夫なのかよ……?」
     この終焉を告げる揺れの中で、まだ続けられる魔獣たちの戦いを見据えながらダグレイが訊ねる。
    「もちろん、大丈夫なわけはありませんわ」
    「もちろん……って、だったら!」
    「すぐにでも帰りたいのはわたくしも同じですけれど、こんな大騒ぎの中ではかえって何が起きるか」
     命じられた戦いを止めようとしない魔獣の相手をしているのは、目の前のグリフォンだけではない。
     魔獣たちはもはや虫の息といった体であるのだが、この震動は騎士達が最後の一手を決めるに災いしていた。
    「くっそ、どうにかならないのか? 一発目みたいに魔法で派手にぶっ飛ばすとか」
    「そんなことしたら、ここの崩壊も加速しちまうだろうが。何だい、この頭の悪い坊やは」
    「な……」
     なかなかに無礼な口出しにダグレイが一瞬絶句した隙に、今度はジルベルが口をはさむ。
    「シェイザ、こちらの方々は魔導の知識が無いも同然なのですわ。今、何がどういう状況なのかもよく分かっていらっしゃいませんの」
    「ふぅん。なら、危険だと察知しただけでもよしとするか。まあ、こんだけ揺れてて普通じゃないのに気づかなかったら、本当の馬鹿だがね」
    「日常的にこういう物言いの方なのですわ。お気になさらないで、ダグレイさん」
     苦笑するジルベルを振り返らず、ダグレイはただ肩をすくめるだけで応える。
    「とにかく、もう少し場が落ち着かないと……」
     言いかけた言葉を、つんざくような禍々しい咆哮が轟いてかき消した。
     眼前には紅蓮の炎が立ち昇り、全身に朱をまとった漆黒のグリフォンが真っ赤に灼けてその形を壊していく。
     身を焦がす狂ったような絶叫の向こうでは相対していた魔獣たちも、さらに騎士たちに手向かっていたものも全て断末魔を迎えていた。
     あるものは時を経た石細工のようにボロボロと欠けて風化し、またあるものは腐って骨から肉がこそげ落ちていった。また別の魔獣が全身から噴き流す緑の血は勢いを増して四散する。
    「何なんだ、これは……」
     魔獣たちの唐突で醜悪な末路に顔をしかめるダグレイの耳に、小さな笑いが届く。
    「あたしらにそう簡単に死んでもらっちゃ困るってことかねぇ? ま、いい具合に静まったんだ。さっさと引き上げるとしようじゃないか」
     どこをどう見ても静かとは言い難い状況ではあったが、ダグレイはとにかく納得した。
    「あんたがやるのか? 具合悪そうだが大丈夫なのか?」
    「あたしを誰だと思ってるんだい? スーニエルの偉大な魔女だよ」
    「そうかい。よく分からないが、とにかく頼んだぜ、おばさん」
    「おば……なんだって……?」
     途端に眉をしかめむくりとしゃんと背筋を起こす師に、ジルベルは目を丸くする。
     そのやりとりを近くで見ていたエマリーは思わずふき出したが、シェイザのジロリと鋭い眼光に即座に口をつぐんだ。
     まだ不機嫌そうに口を引き結んだ偉大な魔女だが、のんびりと言い争っている場合ではないことは把握していた。
     不満は一時棚上げにし、はめていた指輪を抜き取り右手の中に包み込む。
     口の中で小さく詠唱を始めたことを確認し、ジルベルは慌てて周囲を見まわした。
    「皆さま、ここを離れますわ!」
     魔獣たちの絶命の雄叫びに負けぬように声を張り上げる。
     かなり無茶な状況下で術を行使するのだ、どんな衝撃があるやもしれない。
     心積もりがあるのとないのでは、起きた後の対処に大きな違いがでる。
     こちらをふり返り小さく頷いたエルディンには、恐らくそのひと声の意味を理解してもらえたのだろう。
     いよいよ絶え間ない震動と、絶叫と、舞い散る光が錯綜する中、それは起こった。
     今までの瓦解の揺れから解放され、柔らかな綿の上でポンと弾むようにふっと宙に浮かび上がる感触。
     それからはゆるい曲線をゆったりとなめらかに滑り落ちるようで、最後に一度だけどんと何かに大きくぶつかる衝撃で思わず誰もが姿勢を崩す程。
     気づけば金色の光の乱舞は置き去りに、包み込むような濃い空気の帯がほどけた時、そこは薄暗い朝まだき見知った街道の傍らに彼らの姿はあった。
     行きと違い、まるで壊れ物を扱う優しい手のような帰り道に、ジルベルは改めて師の力量に小さく感嘆の吐息をこぼす。
    「で……ここは、何処なんだい?」
     腕の中で荒い息に混じる細い声に、ジルベルは小首を傾げた。
    「今、わたくしが住んでいる街の外ですけれど……」
     どうしてここに? と、尋ねようとして止める。
     これだけの大きな術を完璧に成功させて息も絶え絶えな師に、今問いたださねばならないことでもない。
     あのどこでも無い空間は、空間と空間の狭間にある。ゆえに、大方、まだ繋がっていた空間の片方から出てきたのだろう。
     そう、そこはちょうどジルベルらが連れ去られたあの場所だったのだから。
     ルイーダの街をとり囲む高く古い壁、少し向こうにはぴたりと閉ざされた門が見えた。
     その向こうに帰りたかった日常がある。
     帰るべき日常に欠かせない面々の安堵の色のうかがえる顔に、ジルベルはホッと肩の力を抜いて笑った。
    「皆さん、無事のご様子ですわ。スーニエルの魔女の力は衰えていないようで安心いたしましたわ」
    「偉大な……を付け忘れて……るよ」
     シェイザもまた、かすかに笑った。
     謀に失敗した魔導師らは騎士の白刃に狙い定められながら地に伏し、その他にはもう誰も何も脅かすものはない。
     無事に帰りつくことができたのだ。
     状況は最悪であったのに──そう思い返すジルベルには、もし自分が単身挑んだのであればという想像はつかなかった。
     遠い空の際からじわりと朝が滲んで訪れる。
     その薄い光を背景に虚ろな目をした老人が、騎士に伴われてゆっくりと近づいてきた。
    「とんだ……道化だね……」
     許しがたい愚に加担しながら、最後の最後に自分に手を貸してしまった古い知己を相手にシェイザは短く呟く。
     その手前でイヴァルトは項垂れ力なく膝をついた。
    「シェイザ殿……」
    「ど……しようもない阿呆だ……」
     繰り返される冷たい言葉に、老人は涙ぐむ。
     だが、それは決して哀しいだけではなく。
     積年の付き合いだからわかる、もしも本当に自分への温情が一欠片すら残っていないなら、こんな風に言葉さえかけてくれるはずはないのだと。
     今さら赦しを乞うたところで赦してくれる相手でないのは十分に承知していたが、これまでの全てを否定し、拒絶されたのでもない事が老人の儚い灯火となった。
     膝を擦りながら這い寄るイヴァルトは恐る恐る手を伸ばし、慕い人の今にも裂けてしまいそうなボロボロの袂に触れる。
     謝罪は生涯受け入れられなくとも、きっと、謝罪することは許されたのだから。
     頭を上げ、口を開く。
    「あ……────」
     糸の切れた操り人形のようにぐらりと前のめりに崩れた老人の上半身が、シェイザの上に倒れこんだ。
     傍らの騎士が慌てて抱き起こしたその下に、生温かい染みが見る間に広がっていく。
     すぐ間近でその光景を見ていたエマリーが短い悲鳴をあげた。
    「なな、なんで、け、剣が……!?」
     イヴァルトの顔、ちょうど右の眼球を貫くようにして突き出ていた細い剣の切っ先がズルリと引っ込む。
     あまりにも荒唐無稽なあり様に、ジルベルでさ何が起きたのかを理解するのに時を必要とした。
    「道化の最期とは、いつも悲劇と決まっている」
     ぐったりと騎士に身を引き上げられたイヴァルトの口からもれる、イヴァルトのものでない声。
     シェイザの腹に広がる染みは苦悶を浮かべ絶命した老人の頭蓋から零れたものだけでなく、一緒に串刺されたやせ細った彼女自身からも流れ出たものであった。
     白み始めた薄暗がりの中で、目に痛いほどの赤が鮮明に浮かび上がる。
    「シェイザ!!」
     ようやくその名を呼び顔を覗き込んだジルベルの耳に、今度は騎士らの短い驚愕の声と悶絶の悲鳴とが届いた。
     彼らが拘束していた魔導師たちも、次々にその眼から真っ赤な血の涙を溢れさせている。
     その血を吸った大地が小さく波打った瞬間を、エルディンは見逃さなかった。
    「すぐに開門させよ!」
     隊長の号令に、弾かれたように我に返ったダグレイが走り出す。
     エルディン自身は奪うようにシェイザの体を抱え上げていた。
    「魔導師らから離れ、全員、速やかに門の中へ!」
     誰もが何事かを問う余裕などなかった。
     言われるがままに立ち上がり、一目散に駆け出す。
     詰め所へと駆け込むより早く開き始めた門に驚くダグレイの目に、同僚の姿が映った。
     ジルベルとの転移に乗り損ねた騎士たちは、各門に待機し、その無事の帰還を信じ待ち受けていたのだ。
     自分の役目が不要だと悟ったダグレイは、反転し再び走り出す。
    「ぼやぼやすんな!」
     途中で合流した必死の形相をしたエマリーの腕をつかみ、引きずるようにしてまた反転する。
     長いローブの裾をさばいているとは思えないほど達者に走るジルベルの両側には、剣を携えた騎士が併行していた。
     少し思考が機能しだしほんの少し振り返れば、黒装束の亡骸がさざめく大地の金色に飲み込まれていくところだった。
    「振り返るな、急げ」
     やつれたとはいえ、人を一人抱えているにも関わらず、エルディンはジルベルの少し後方を離れずについていた。
     いく度も後をふり返る者、ふり向く余裕のない者。
     長くはないが、追われる者として決して短くはない距離を走りぬいた全員がルイーダの街におさまり、門は再び閉ざされた。
     街のすぐそばの街道に残された大きな血溜まりの存在が、守護騎士隊に報告されるのはまだしばし後のこと。
     いまは寒々しい静寂だけが広がっていた。
     一方、にわかに騒々しさを増した門のほんの内側では、
    「シェ……ザ」
     息と胸とを詰まらせるジルベルの呼びかけに、師は応える気配がない。
     片膝をついて支えるエルディンの腕の中のシェイザの腹部は、とうに重たく赤で染め上げられていた。
     途中、ミューリフの治癒の術で傷口は塞いだものの、衰弱しきった肉体そのものを一瞬にして全快させられるわけでなく、流れ出ていく生命そのものを留める術はない。
     残された時間はもう僅かであることは明らかだった。
     と、不意にシェイザがはっきりと目を開ける。
    「……おばさん、か……」
     呟くシェイザはどこか楽しげで、もう苦痛を感じていない微笑がやせこけた頬を緩ませていた。
     魔導師の国で至高の魔女という人生を送り、人々の憧憬と畏敬と妬みの中で生きてきた彼女にとって、耳慣れない呼びかけ。
     それは思ったよりずっと愉快なものだった。
    「……ジルベル、お前に……一つだけ……」
     いつか再び会えたなら話そうと思っていた事が沢山ある。
     言っておきたかった事、伝えたかった事、教えたかった事、語り合いたかった事──けれど、唯一つだけというなら。
    「あたしは……お前まで墓守にする……つもりはない……よ」
    「シェイザ?」
    「あたしにとって……アレは命を懸けて守るべきものだった……」
     師の視線はジルベルを見ながら、そのずっと向こうにある景色を追っている。
     少し遠くなってしまった、あの日を。
    「お前は……お前の本当に大切なもののために……お前の命を……」
     うわごとのように言葉を綴る師の手を、ジルベルは強く握り締めた。
     そうすることしか、できなかった。
    「……後のことは……お前の好きにすれば……いい……」
    「ええ、ええ……」
     頷くばかりのジルベルから少しだけ視線をずらし、隣りでじっと唇を噛んで涙をこぼすもう一人の弟子にも儚く微笑む。
    「後は……頼んだからね……」
    「シェイザ様、私は……」
     後が何を示すのかはともかく、いずれにせよ偉大すぎる魔女の後を託されるなど、自分にはあまりにも荷が重い。
     喉の奥からこみ上げる自身の声をぐっと飲み下し、ミューリフはきっと表情を改めた。
    「はい、お任せ下さい」
     死出に急ぐ師にできる最後の恩返し。
     若草の瞳からいつまでも涙をこぼしながら、それでも精いっぱいに力強く答えて見せた弟子の心意気に満足し、シェイザの視線は空へと向かった。
     異国の高い空。
     まだ夜明けて間もないというのに明るい陽射し。
     緑をはらんだ風の匂いまで違う。
    「……おばさんも……悪くは……なかったね……」
     人生に、もしも、はないけれど。
     自分の死に様に悔いなどないけれど。
     生と死の境目、その束の間の瞬間──閉じた瞼の裏で、”おばさん”と呼ばれる人生、そんな可能性の夢を見た。
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