** ある錬金術師の物語 **
  • 鬱金の波紋 13
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     その人がそこに存在するかもしれない、という事は予め覚悟はしていた。
     けれど、よもやこのような姿との対面になろうとは……。
     無惨な石像と化した師を見下ろすジルベルの内には、自身の想像以上の動揺が押し寄せていた。
     魔導の国において魔女と讃えられ、自らをも偉大な魔女と公言して憚らない──その力量、その才能、そして何よりも、その気性。
     懇切丁寧に教え諭すような人物ではなく、万人にとっての良い師とはお世辞にも言いがたいが、その在り様に学ぶべきは多く、彼女もまた学ぼうとする者に出し惜しみはしなかった。
     幼い頃に引き取られ、やがて”似た者師弟よ”と人の口の端に上るようになったことがひそかな誇りとなった程に、人として、魔導師として、育ててくれた師によせる信頼は絶大だった。
     この世界中のどこにも、彼女を越える魔導師など存在するはずがない、と。
     どんな卑怯な罠も、たとい何人がかりであろうとも、それすらも踏み砕いて勝ち得る明敏さと力とを備えていると、心のどこかで今でさえ信じて疑わない。
     そう……目の前の現実の方が、ずっとずっと悪い夢のように思えた。
    「感動のご対面という奴はどうじゃな?」
     厭らしい澱みを含んだ老人の声に、ジルベルは軽く片方の眉を吊り上げる。
    「陳腐ですけれど、涙がでそうですわね。もっとも、感動で……ではありませんけれど」
    「が、効果は確かなようじゃ。大人しく我らに従う気になったのではないかの?」
    「……」
     表情を変えぬように努めたジルベルではあったが、それでもぎゅっと奥歯を噛み締める。
     痩せ細った様子を見るに相当な疲弊の後には違いなくとも、あの魔女を石化させることには成功したのだ。
     ──庇わねばならない者を多く抱えた自分たちが、果たして敵うのだろうか。
    「我らはのう……何もお主らを傷つけたいわけではない。むしろ、手を取り合いたいと思うておるのじゃぞ?」
    「お前も魔導師ならば分かるだろう? この大陸でいかに魔導が世の片隅に追いやられているか……その無念を……」
    「だが、魔導こそが世を支配する世界──かつて存在したその世界はもはや夢物語ではない!」
    「そうだ、『太古の智慧』さえあれば……!!」
     黒いフードの奥から次々と放たれる昏い熱をもった言葉。
     けれど、それらはほんの微かにもジルベルの心を波打たせはしなかった。
    「そこまで仰るのなら、ご自分達でどうにかなさればよろしいのですわ」
    「何?」
    「確かにわたくしは『太古の智慧』を封印致しました。ですが、わたくしは封印を解こうとするあなた方の前に立ちはだかって阻止しようとしているわけではありませんもの」
    「……」
    「わたくしはスーニエルを捨てた身。あなた方の解封の邪魔だてをしないという約束ぐらいなら容易いこと。世を牛耳るほどの魔導師となるのでしたら……容易いことでしょう?」
    「せっかくすぐそこに鍵があるものを、わざわざ一から作り出すほど愚かではないのう」
    「怠慢は己が技術を鈍らせましてよ?」
    「耳の痛い言葉じゃな。しかと心得た……『太古の智慧』については研鑽に励むとしよう」
     そうしてくぐもった忍び笑いが耳に届き、ジルベルは短く息をつく。
    「さすがに他人の命を弄び脅かしても痛痒を感じない方には、この程度の挑発では通じませんのね」
    「穏便に済めばそれはそれで良かったが……革命には常に痛みが伴うものじゃろうて」
    「流されるのがあなた方だけの血ならば、わたくしは何も申しませんわ」
    「お主とて他人の流した血の上に立っておろう。数多のスーニエルの民の命と嘆きの上に。違うかのう?」
     愉悦すら含んだ老人の声色に、ジルベルは表情を険しくする。
     同じにするな、と叫びたい。
     ……が、間違ってもいない。
     そう望んだわけではなくとも、ジルベルらの手から解き放たれたものによって、スーニエルに多くの血が流れた。
     過程において歪められた志はジルベルの責ではないが、結果として訪れた惨劇は上に立つ者として生涯負わねばならない現実だ。
     決して覆らぬ事実を突きつけられ、だが、退くことはできぬと何かを言い返そうと薄く唇を開いたジルベルの眼前に壁がそびえ、押し殺した低い声が響く。
    「その辺でよかろう」
    「エルディン様……」
     呼びかけても振り返ることはなく、その紺色の背中はただ間に立って微動だにしない。
    「呼ばれもせぬのにしゃしゃり出てきた道化か、何者ぞ?」
    「エルディン……? フィールデンのエルディンと言えば、比類なき剣士として諸国でも名の知れた騎士ではなかったか?」
    「まさか? むざむざ我らが手中に飛び込んできた愚か者が、か?」
     乱れ飛ぶ雑言もまた、エルディンを揺るがすことはなかった。
     淡々と何者にも侵されぬ平常で投げつけられた敵意を阻む。
    「私はフィールデン王国の守護騎士、エルディン。我が国より連れ去った客人を返して頂こう」
     荒げない声の内に逃れようのない重圧が潜む。
     恫喝されたわけでもないというのにエルディンの鋭い黒曜の視線の前に、悪意のさえずりがぴたりと止んだ。
     しばしの沈黙が流れ、ようやく新たな口火を切ったのは黒いローブのフードをさらに目深に下げた老人のしゃがれ声。
    「これはこれは……。お優しい騎士殿は、異国の罪深き魔導師を身を持って庇われるか。じゃが、分かっておいでか? 背に隠したその女がお主の国に災厄をもたらしたのじゃぞ?」
    「災いを起こしたのはその方らだ。おらねば良いと言うのなら、その方らであろう」
    「ほほっ、手厳しいことじゃな。しかし、まことに良いのか? その女が祖国でどれ程に他人の血を流したことか。その数我らの比ではあるまいて」
    「ならば、それはかの国において罰せられるべき事。我が国で裁きを受ける道理はない」
     老人の嘲弄を一蹴し、剣を抜く。
     そして、やはり振り返らずに、だが静かに小さく声を響かせる。
    「惑わされるな。人の命の重みを知る者と知らぬ者、お前達の道はすでに分かたれている」
     優しくもなければ慰めでもない厳しい口調に、ジルベルはふっと噛み締めていた口元を和らげる。と、同時に改めて背筋を伸ばす。
     見失うな、自分が一体、ここに何をしにきたのかを、と。
    「わたくしがここに来たことで、あなた方のご要望は聞き届けられましたわね? でしたら、他の方々は帰してさしあげてくださいな」
     言いながら背中からその傍らへと移動し、ジルベルは再び黒づくめらと正面から相対した。
    「この空間を安定して維持するためにも、これだけの人数は邪魔でございましょう?」
    「ほう、さすがはよう分かっておる。これだけの客人はいささか持て余しておった。が、全員とはいかぬな」
    「でしたら、まずはフィールデンの方々を……」
    「さて、魔導に長けたスーニエルの者より、素人を残す方が質としては役立つように思うが?」
    「魔導には素人でも戦いに慣れた選りすぐりの武人。いざ事を構えるとなれば、知らぬがゆえに容易い相手ではないかも知れませんわよ?」
     互いにより有利な条件となるようジルベルと黒づくめ達の駆け引きは続く……と思いきや。
     冷ややかな舌戦は怒号によって遮られた。
    「御託は……もういいっっ!!」
     しばし対話の座を別の者に明け渡していたイヴァルトが、激昂して前に飛びだしてきた。
     頭部を覆っていたフードがはずれ、白い総髪としわの深く刻み込まれた老年の相貌が衆目にさらされる。
     かつては温厚で知られ、篤実にして秩序を重んじる性格は多くの人望を集めていた。
     放埓とも言える師シェイザが、普段、大きな揉め事もなく過ごせたのも、イヴァルトの陰なる働きがあったことをその弟子たちは知っている。
     ゆえに……その目の異様なまでのぎらつきという変貌に、ミューリフが眉尻を下げ胸を痛めるのも無理のないことだった。
    「お前達に選択権などない! ただ従えばよいのだ!!」
    「……」
    「シェイザ殿のあのような姿を目にしても恐れ入らぬとは、思いあがった若造どもよ……。よかろう、己らがいかに無力か知るがよいわっ!!」
     イヴァルトの荒ぶる言葉じりから、瘴気のような魔力が噴出する。
     爛々と光る瞳はいつの間にか暗い紅色を宿していた。
    「イヴァルト、あなた……!?」
     緋色の瞳は魔族の証──だが、ジルベルの驚愕の声は途中で引きちぎられた。
     足元が揺らぐ感触が再び周囲を襲い、体勢を崩して視界がさまよう。
     立っていることもおぼつかないその状態でありながら、その場のほぼすべての視線は一点に集中した。
     歪んだ形相のイヴァルトの見上げる中空、何もないはずの空間が不意に質量を持って形を成す。
     何も見えはしないのに、確かに何かがそこで蠢いている。ピンと張った透明な布地から、今にも何かが突き破らんと激しく身悶えているようで……。
     刹那の閃光。
     瞬きの後に人々が目にしたのは、宙に浮かぶ漆黒の巨大な影。
    「まさか、そんな……」
     誰にも先んじて言葉を吐き出すことができたのはさすがと言えたが、それ以上はジルベルにも何も浮かんでこない。
     血よりも濡れて激しい赤に染まった瞳で睥睨するその獣、漆黒のグリフォン。
     エルディンが、エマリーとダグレイも、スーニエルの者たちも、忘れえぬその姿を言葉を失くして呆然と見上げる。
    「見忘れたということもなかろう。この春先にそちらに一匹送り出したのだ……」
     弓なりに目を細め、節くれだったしわの指を突き出すイヴァルトに、ジルベルが眉をひそめる。
    「あのグリフォンは、あなた方が?」
    「研究も終えて用済みになったのでな。おかげでこうして新たに生み出す事もできるし、言うこともよくきいてくれる。我々の研究は、あなた方を超えたのだ」
    「何故、わざわざフィールデンに?」
    「廃棄処分という奴だよ。処分には慣れているだろう? 何体か他にもつけてやった魔獣も懐かしかっただろう」
    「そんな事のために……」
     自分達の手で処分もできたはずを、嫌がらせか、力の誇示か、いずれにせよつまらない思いつきを実行したがゆえにフィールデンで血が流れたのだ。
     まったくの無益な血が。
     どうしてこんな事になったのだろう──少し伏せた瞼の隙間で、ジルベルの瞳が昏い陰を帯びる。
     自分の知るイヴァルトは、あの戦いの日々を憂いていたはずだった。
     祖国で繰り広げられた悲劇に苦しんでいたと思っていた。自分達と同じように。
     だから、どこかでまだ信じていたのかもしれない。
     目の前に彼という明らかな現実を見ながらも、どこかで……。
    「また同じ言葉で話せるのではないか、か。儚い夢想的な希望でしたわね」
     強い言葉ではなかった、にも関わらず、イヴァルトは答えることもなくピタリと口を閉ざす。
     イヴァルトもまた一角の魔導師であるからこそ分かる、自分に向けてひしひしと忍び寄る魔力の流れ。
     いくら実力主義のスーニエルといえど、十代半ばという幼いともいえる程に若くしてジルベルを塔主とならしめた類稀なる力が敵意として絡み付いてくる。
     塔主という頂点に立つ者と、限りなく近くに至ってもついになり得なかった者とにある決定的な差。
     知らぬ内にゴクリと唾を飲み下している己に気づき、イヴァルトはさらに声を大きくする。
     何を恐れることがあろうかと、自らを振り切るように。
    「あなたとあなたの仲間の生命を握るのは我らだ! 勝手な言動が身を滅ぼすのだという事を思い知らせてやってもよいのだぞ!」
     それきり、不気味な沈黙が漂う。
     得体の知れない澱んだ魔力が辺りを満たし、時折、グリフォンの巨体の身じろぎだけが空気を震わせるばかりだった。
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