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収縮する魔力の渦から解放され、やや乱暴に投げ出されたジルベルは慌てて顔を上げる。 一瞬息をつまらせながらも意識ははっきりしており、乱れた白い髪を整えながら辺りを見回した。 柔らかで暖かな色合いの明るい空間に、遠く、近く、点々と蠢く人影。 ここに至る直前に起きた信じられない──あるいは信じたくない現実を思い出す。 ただでさえどこか心もとない感触の足元は弾むように不規則にゆれ、目に映る光景が一瞬蜃気楼のように揺らめいて崩れ。かと思うと、すぐにまた落ち着きをとり戻すのだが、そのたびに人の配置が変わる。 幾度か繰り返してようやくおさまった時、すぐ傍にいたのはミューリフだった。 「ジ、ジルベル様ー!!」 淡い色の長い髪を振り乱し、身を起こしがてらがばっとしがみついてくる。 「ジルベル様。よかった……ご無事で……」 安堵に潤むミューリフの瞳に映るジルベルは明らかに怒っていた。噛みしめた歯ぎしりさえ聞こえそうなほどに。 「ミューリフ……」 「は、はいっ」 「一体、何を考えてますの!? あなたが付いていながらどうしてこんな事をっ!? 何故、こんな無茶を!!」 その怒りは完全に心頭に達したらしく、息を乱すほどの激しさで言葉を叩きつける。通りのよい声が破壊音となって、至近距離からミューリフの鼓膜を突き抜けていった。 覚悟していた事はいえ、反射的にジルベルから腕を放したミューリフは身をすくめる。 だが、それ以上の叱責も追及もなされなかった。 「……話は後ですわ。立ちなさい、ミューリフ」 自身もまた素早く立ち上がったジルベルの低めた声に、ハッと息を呑む。 何をしにここに来たのか。 ジルベルの背中の側の光景も、彼女が見ているそれと大差なく。 見知った顔、見知らぬ顔が混在して散らばっていた。 共にやってきた頼もしい紺色の騎士たちはすでに体勢を整えて身構えており、その姿にもまた胸をなでおろす。 こういう状況にも関わらず、思わずジルベルがミューリフを怒鳴りつけてしまったのも道理で。 必要な人物だけを選別ができる魔導師ならば、ジルベル以外は置き去りにされるか、いずこなりに打ち捨てられる可能性もあったのだ。巨大な魔力に弾かれることも、あるいは逆に飲み込まれてしまうことだって有り得る。 魔術とは存外に脆い。 個人の能力は当然のこと、高度な魔術になるほど発動の条件が厳しく、何よりも術者の状況が大きく影響する。 体調であったり、心理であったり……。 物事に動じない胆力、状況を正確に把握する冷静さと判断力、断固としてそれを行うのだという精神力。それらの上に積み重ねてきた研鑽が生かされるのだ。 だからこそ廃れていく力なのだ──かつて、その言葉を告げた師の顔がミューリフの脳裏によぎる。 今回の無茶あるいは無謀に、だが、まったく目算がなかったわけでもない。 ……あの方の弟子だったからこそ。 ここに着いてみて、ここがどういう場所なのか確信する。 ここが、どこでもない場所である、ということを。 「ジルベル様……”空間転移”の術についてはご存知でしょうか」 「……」 「この一件、まさか……」 「分かりませんわ……本当に……分からない……」 ”空間転移”、時の中に失われた秘術。 研究していたのは、ミューリフの師であり、ジルベルの師でもあった魔女シェイザだった。 それはまだ辛うじて生き残っている”瞬間移動”とは大きく異なる。 時の流れをごく僅かに歪め、距離を移動する”瞬間移動”は、ゆえに長距離の移動はほぼできない。時間に及ぼす影響が増えるほどに、必要となる魔力は倍加どころの話ではなくなるのだ。 が、”空間転移”はさらに高度かつ困難となる。時間、距離、物質の存在、そうした摂理全てを超越しようというのだから。 空間と空間を繋げるその過程で、空間の狭間……通路のような場所ができる。 それが、”ここ”だ──研究を垣間見てきた二人にはその確信があった。 だから尚のこと、ジルベルは困惑していた。 現代のスーニエルにおける最高の魔導師、稀代の魔女と称された人物の研究の成果が、何故ここにあるのか……。 シェイザが祖国を離れた時、まだこの術は完全ではなかった。術者自身以外を移動させることができなかったのだ。 今や『太古の智慧』に属するその術の研究資料はすべて封印ないしは破棄されたが、シェイザ自身の記憶には鮮明に留まっているだろう。 研究はその気になればどこでもできる。歳月を経てついに完遂してもおかしくはない。 おかしくはない、のだが……、誰よりも先に祖国を去った当時を知るジルベルには、シェイザが少なくともその研究を再開するとは思えなかった。 いや、仮に何らかの心境の変化があって研究を続けたのだとして。 となると、今度はジルベルを必要とする理由が思い当たらない。 『太古の智慧』の封印に立ち会ったのは、二人。 ジルベルと、誰あろうシェイザなのだから。 これほどの術を完成させる程の明敏な頭脳を持ち続けているのなら、よもや解封の術をすっかり忘却した……などとは思えない。 それともまったく別の誰かがこの術を成し遂げたというのか? 何かの偶然か、天啓か? ──ありえない。 眉をひそめて思考をめぐらすジルベルの視界から、点在していた黒い影たちが一瞬消え、やがて近いところに一団として現れた。 「邪魔な輩がこんなにも……」 「どおりで不安定にもなるわけよ」 忌々しげな口ぶりで周囲に視線をちらつかせるものの、誰もが目深にしたフードの下にその顔は隠れ、せいぜいが声と口元で年齢や性別の凡そを判別する程度だ。中にはその口元まで布で覆っている者までいて、ジルベルを呆れさせた。 「そうやってローブの下に己が邪さを自覚していらっしゃるのなら、早々に手を引けばよろしいものを……」 半分は交渉の手口として、もう半分は純粋な本音として。 ジルベルの言い草に、黒いローブの上にうっすらと気色ばむのが見える。 だが、そんな流れを断ち切るかのように一人が前へと進み出た。 「相変わらずの慇懃無礼さえもお懐かしい……」 男の声はどこか嘲笑の響きを含み、優越感に浸っているとでも言えばいいのだろうか。 人質をとっている以上あながち間違いとは言えないのだが、自らの優位を誇示する男に向けるジルベルの瞳は冷ややかさを増した。 「いや、私ごときとるに足らぬ非才の身など、貴方様のご記憶に残りなどしな……」 「思っていもしない事を口にするのはお止めなさい」 ぴしゃりと言い切った思いがけない強い態度に、男は口をつぐむ。 「わたくしは特に否定したりはいたしませんわ」 「……」 「それとも、王女の救出のためには否定してさしあげた方がよろしいのかしら。ね、イヴァルト?」 ジルベルの紅色の唇が見る間に弧を描き微笑をつくる。その眼差しには砂粒ほどの温かみさえなかった。 男が嘲笑したと言うのなら、ジルベルのそれは辛らつな冷笑。 聞き馴染んだ声の裏切りを前にして驚愕や狼狽がなかったわけではないが、それらは微塵も表面に見せるつもりはなかった。 反応を見定めようとしたジルベルだったが、 「そんな……イヴァルト様……。貴方が……何故……?」 不審に満ちて青ざめた顔、途切れて掠れる声。 ミューリフが見せたかくあるべきと待ち望んだ手応えに、イヴァルトは余裕を取り戻す。 「おお、ミューリフ。いや……今や若き宮廷魔導師となられたの、ミューリフ様とお呼びするべきか……」 「とんでもありません! 私など未だ若輩の……。そ、そんなことより、お聞かせください」 「私がここにいる理由ですかな?」 自らが思い描く優位者の姿をとり戻し、イヴァルトは居心地よさげに哂った。 が、またも砕かれる儚い優越。 「お止めなさい、ミューリフ」 「し、しかし。イヴァルト様なのですよ?」 「そんな事は分かっていますわ。わたくしとて、その名をはっきり告げましたでしょう?」 表情をさえ変えないジルベルに、ミューリフはなおも必死に食い下がる。 「よもやお忘れですか? シェイザ様の助手として長らく共にあり、私たちとてお世話になったではありませんか!?」 「だから、どうだと仰いますの? 変節など……いくらでも目にしてきたではありませんこと?」 「そんな……」 一瞬つまらせた言葉の陰に苦いものが混じり、ミューリフは表情を曇らせる。 だが、ジルベルは違った。 あっさりとミューリフを黙らせると、再びイヴァルトを直視し会話の主導権をもぎ取る。 「イヴァルト。速やかに『太古の智慧』などという妄執はお捨てなさい」 「命令できる立場とお思いか……?」 「どうでしょう。少なくとも、あなた方に捕らえられたフローは、とり戻したようでございますけれど……」 先ほどから視界で数を増す人影。 ジルベルと黒の一団の対峙を囲むように静かに剣を連ねる紺色の騎士達の向こうには、寄り添いあう男女二人の姿も見える。背後では聞き馴染んだエマリーの声も遠慮がちに聞こえていた。 普通に考えれば形勢逆転といえる状況だが、ジルベルはすばやく思考をめぐらせる。 自分の前に現れた時のように転移の術を使えば、ガイトン諸共に王女を再び捕らえることなど容易い。 いや、それ以前にわざわざ彼らが自分の”前”に現れたのは何故か? 術の発動の条件によるものかもしれないし、あるいは周囲の騎士らを懸念しているのかもしれない。術の発動前後、もっとも隙の大きくなるその瞬間をおさえられては元も子もない。 だが、ジルベルの違和感はそれら魔術師としての事情以前に、交渉に臨むその態度。 捕らえるでもなく、脅すわけでもなく。 イヴァルトのくだらない無駄話──しかも驚嘆させてやろうという目論みは早々に失敗している──を長々と許す。それは彼らが自身の優位を信じて疑わぬ余裕からきているのだろう。 「……あなた方がそうして落ち着き払っていられる切り札は、何ですの?」 「さすがの慧眼といったところじゃな」 冷ややかな問いかけに応じたのは、イヴァルトの背後から歩み出た……声から察するに老人だった。 「年寄りをそうきつい眼で睨むでないぞ。先達に対する態度がなっておらんのではないかのう?」 「先達……?」 ジルベルの目がすっと細まる。 「いずれの方々かは存じませんけれど、道を外れてさえいらっしゃらなければ、せめてわたくしよりも長く生きたということに対してだけは態度のあらためようもありましたのに……残念ですわ」 淡々として辛らつなジルベルの返答に、怒気が立ち昇る。 「師が師ならば、弟子も弟子よ……」 老人のもらした呟きに、ジルベルの肩がピクリと震えた。 どういうことかと視線で問えば、黒いフードの下のしわの刻まれた顎元がもごもごと蠢く。 と、足元に走った揺らぎは彼ら自身にも予想外であったらしく、ジルベルらと同様に幾人かの黒づくめも僅かによろめく。 意識の逸れたその束の間に、現れ出でたのはごつごつとした岩。 自らの足元にあるそれが、うずくまった人の石像だとジルベルが気づいたのは間もなくのことだった。 「シェイザ」 乾いた声が紅い唇がこぼれる。 ジルベルの背中の後ろでずっと固唾を呑んで見守っていたミューリフが、よろよろと石像に近寄り崩れるように膝を折った。 「これは……どうして……こんな…………」 短い言葉の後半がさらに嗚咽に飲み込まれる。 肘と膝をつき四つん這いにうずくまった人影はあまりにも生々しすぎて、彫刻などではありえない。 骨と皮だけになった筋張った手足がぼろと呼べる布切れから突き出し、伸びきった髪はふり乱れている。腕の間にはさまれてその顔をうかがい見ることができないのは幸いとさえ言えた。 それでも左手にはめられた指輪で、師シェイザであることを判別できた。関節を覆うほどの真円の半球を載せたそれはすでに痩せすぎた指にはゆるいらしく、見てわかるほどの隙間が空いているにも関わらずそこにある。 この世に唯一つだけ、姉弟子ジルベルが請われて生み出した呪具であることを、ミューリフは知っていた。 師が国を去ってはや数年。再会した師のあまりの無惨な姿に……どんな時も、どんな場所へも悠々と着飾ってさえ出かけたその人の変わり果てた様にとりすがる。 ジルベルとて、憐れみから最も遠い位置にあったはずの女の姿に胸が握りつぶされるようだった。 | |
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