** ある錬金術師の物語 **
  • 鬱金の波紋 10
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     それは、大方、予想通りだった。
     賑やかな王都とはいえ、夜半近くともなればすっかり人けは薄くなり、街外れともなればなおのこと。
     民家の一群からもやや離れたそこは古い水門跡で、今は水も枯れて久しい。分厚い街門の一角に大人の腰の高さほどの筒状の穴が穿たれているが、しっかりと頑丈な鉄の格子門で塞がれている。
     忘れさられた水門は手入れのなされていない長く伸びた緑が半ば以上を覆い隠していたのだが、唐突にこれといった風もないのにゆらゆらと燃え上がるように揺れた。

    『 地の鎖 天の鍵
      目には映らぬ幾重もの戒めよ
      我が前に立ちはだかる事なかれ
      我が行く手を阻むことなかれ
      我こそが汝の主なれば     』

     ぴんと張りつめたその囁き声に、聞き覚えのあるなどとは今さら言うまい。彼女こそが待ちわびていた人物なのだ。
     声が途切れると、間もなく鉄格子はギッと耳障りな鈍い音をたてながら草をなぎ倒して、諸共に地に倒れた。
     つい今しがたまでは立派にその務めを果たしていた格子門は、今や朽ちて錆の浮いた赤茶けた鉄くずと化している。
     白い人影は急かされるように見せかけの門に塞がれていた黒い風穴へと身をかがめ──
     と、月影に浮かぶ彼女の姿をが辛うじて視認できるの位置で息を潜めていた者たちが、一斉に足音を蹴立てて飛び出した。
    「お待ちください、ジルベル様!!」
    「ミ、ミューリフ! それに、まぁ……」
     今まさにポッカリと口を開けた穴をくぐり抜けようとしたジルベルを、あっという間にぐるりととり囲む人垣。
     祖国からの客人、ガイトンとミューリフ、そして勇敢な兵ら。
     大事な友人であるエマリーに、昨夜とほぼ同じ顔ぶれの守護騎士隊の中に今夜はダグレイも混じっていた。
    「よもや、このような抜け道が……」
     ズイっと足早に前に歩み出たエルディンがジルベルを通り越し、しげしげと暗い穴の向こうを覗き込む。その表情はすでに怒っているを超えて、呆れ果てたと無言で語っていた。
     ジルベルの視線が恨めしそうに、苦い笑みを浮かべる少女を捕らえる。
    「……エマリーちゃん」
    「ご、ごめんなさい。でも、でも……ジルさんが危険だって聞いたから」
    「詳しい事情は後ほどうかがいますわ。それで皆さま、一体どういう御用ですの?」
     どこか突き放したような口ぶりで周囲の人間の顔を見回した。
     いずれも見慣れた顔の中、冷ややかに刺すような視線がある一人に向けられる。
    「ガイ。どういうつもりですの? あなたともあろう人が他人を巻き込むだなんて。それも無関係な他国の方々まで」
     薄灰色の瞳がかすかな月光を受けて銀色に瞬く。冴え冴えとした氷のような輝き。
     失望と怒りを含むその睥睨を、よくぞまっすぐに受け止められるものだと、ミューリフは密かに隣りにいるガイトンを横目で見た。
     もし自分に直接向けられたものであれば、即座に許しを請うて逃げ出したかもしれない。
    「そう睨むな。俺たちは見届けに来ただけだ。お前が確かに旅立ち後は任せておけばよいのだと、この国の方々に説明するためにな」
     両の手を広げおどけた仕草で言いながらも、ガイトンの瞳はあくまでも真剣だった。
     ちらりと掠めたジルベルの氷刃の視線の中で、ミューリフは身も心も冷たい汗を流す。浮かべたもっともらしい諦念の表情は、一世一代の大芝居だっただろう。
     なお疑わしげなジルベルではあったが、エルディンの渋面の一言でどうにか自らを納得させる。
    「この穴の処理は我々がしておく。後背の憂いなく行くがよい」
    「よろしく……お願い致しますわ」
     穴の前で腰をかがめながら、ジルベルはそっと後ろを振り返った。
     言い知れない緊張感が漂い、息をつめて見守る複数の瞳。その中で唯一の無表情であるエルディンをじっと見つめる。
     ジルベルは眉をひそめた。こんなに融通のきく性格ではないはずなのに、と。
     やはり、改めて問いただそうかと口を開きかけ、止めた。
     ピリッと肌を刺す得体の知れない悪寒。
     見れば、今まで確かにあったはずの月光は雲に閉ざされて、あの夜と同じような嫌な空模様となっていた。
     この壁の向こうでは、予想通り、あの夜と同じように網を張って待っているのだろう。獲物がかかるのを。
     みすみす罠に飛び込むのもバカらしい話だが、ジルベルにとってはもはや数少ない大切だと思える人間が待っているのだ。
     無言のまま温い風の通り道をくぐり抜けると、ざわざわと辺りの木々が暗闇に忍ぶ危険を囁いていた。
     ねっとりと絡みつくような薄気味の悪い空気。
     それは視線だとジルベルは直感的に感じた。
     ──どこかで誰かが見ている、この光景を、自分を。
     全身が、髪の一本までが神経になったかのように、ここではない遠くに向けて研ぎ澄まされる。
     コクンと唾を飲み下したジルベルは、待ち受ける敵の手中を目指した。
     一歩、二歩と、警戒の足取りではあったが、徐々に壁から離れていく。
     周辺をとり巻いていた草木の層が薄くなり広い街道に近づいた時、それは起こった。
     瞬時に肌が粟立つ。
     這い寄ってくる力のうねりに、顎を引き身構えた身体をこわばらせた。
     あの夜と同じように、踏みしめていた大地が小さく滑らかに波打ち始める。足元にある土の感触が曖昧になり、立っていることがおぼつかなくなった。手に掴めばそれは確かに乾いた砂であるのに、動きはまるで水をたっぷりと含んだ泥濘のようだ。
     ジルベルの顔が歪む。沈んでいくのか、浮いているのか分からない奇妙な感覚と、それを形成している膨大な魔力とが、触手のように引きずりとり込もうとしている。
     この瞬間、ジルベルはその魔力の質と気配を探ることに意識を集中した。
     それが自分の思い描いたかつての知己ではないことを願いながら。
     だが、そのせいでジルベルは、最も重要な一点に気づくのが遅れたのだ。
     膝をつき魔力の中に精神を漂わせていたジルベルの耳に、人声が届く。
    「今です!」
     ずっと昔から耳になじんだミューリフの声に、あっと声をあげる暇すらなかった。
     壁の向こうにいたはずの人々がいつの間にか次々に穴をくぐりぬけ、どっとジルベルの周囲に押し寄せて来ようとしているではないか。
     魔力の波紋の内に飛び込んだ全員が、今まで味わったこともないような気味の悪い感覚に驚嘆を殺せない。
     それでも、全員が一歩でもジルベルのそばへと駆け寄ってくるのだ。
     一同のその一目散に必死の形相。
     呆気にとられたとしか言いようが無い。
     激しい眩暈と脱力感に襲われるジルベルの正気を呼び覚ましたのは、一段と強くなった魔力の重圧だった。
     ずんと濃密な気が圧しかかり──いよいよその時が来たのだと、息をつめ覚悟を決める。
     だが、グッと息をのむ音が近く聞こえて忘れかけていた信じがたい現状に思い至って顔は青ざめ、だが、さらに混迷する事態を予測して握った拳に力がこもる。
     やがて、耐えるように噛みしめていた紅い唇が開いて爆発した。
    「一体、あなた方は、何を考えてるんですの……っ!!!」
     暗闇の中に一瞬だけ絶叫が響き渡ったが、ジルベルの姿と共にかき消える。
     ほどなくして月を遮っていた雲が嘘のように晴れわたった。
     その白い月に照らされる人影たち。
    「隊長たち、無事なんだろうか?」
    「もともと、一か八かの強行だったんだ。絶対はありえないぞ」
    「……ジルさんも喚いてたしな」
    「だが、予想外にうまくいったんじゃないか?」
    「俺たち以外はな」
     出遅れた数人の騎士たちが囁きあう視線の先には、月明かりに浮かび上がる街道沿いの平野。ごく当たり前の真夜中の光景。
     たった今までごくごく局部的な大賑わいがあったとは思えないほどに、静かな夜が広がっていた。
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