** ある錬金術師の物語 **
  • 鬱金の波紋 05
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     暗い雲の割れ目からもれ出る青白い月の光が、すでに事が終わってしまったその場所を照らし出す。
     苦しそうな馬の嘶きだけがしんと静まり返った空気を震わせた。
     馬たちが引いていた馬車の中に息づかいはおろか、人の気配もない。人の死んだ痕跡さえもなく、ただ、空っぽだった。
     こつ然と消えた王女と女官と二人の騎士。
     馬車から投げ出された御者だけが辛うじて道端の草むらに身を伏せていた。
    「フロー……」
     もう一度、ガイトンは呆然とその人の名を呼ぶ。
     明るさを増す月光の中で一片の希望も見出せぬまま、空虚さばかりがさらにつのっていった。
     強く噛みしめられた唇と握った拳の震えに、将軍の無念さと無力さとが強くにじむ。
     まだ門扉の内側……王都ルイーダを守護する強力な結界の中に繋ぎとめられたままだったジルベルが、ようやくエルディンの手を振り切りながらきつく視線を定めた。
    「ミューリフ!」
    「は、はいっ!」
     門の外、やや離れたところで身構えたままで、凍りついたように固まっていたミューリフの身体が飛び上がった。
    「一体、グノーシルで、何がありましたの?」
     一語一語はっきりと区切ったジルベルの問いかけは、ミューリフをすくみ上がらせる。
     久々に聞いたごまかしや曖昧の一切を許さない冷たく鋭い声に、青年はコクリと唾を飲み下す。
     こんな場合どうすればよいか。それは過去の経験で十分に身にしみて知り尽くしていた。
    「黒の塔の地下の封印が解かれました」
    「な……」
     端的なミューリフの一言は、だが、ジルベルを驚愕させるに十分。
     ただでさえ白い肌が血の気を失って蒼白となり、声をなくした唇が音もなく喘いでいた。
     ミューリフの言葉の意味を知るよしもないエルディンだったが、漂う苦々しい空気とジルベルの態度の急変で事態の重さを悟る。
     と、一瞬の隙をつくように白い影が駆け出した。門の外に走りでるかと思いきや、その足は来た道を全力で戻りルイーダの市街に向かっている。
    「スーニエルの方々を王宮にお連れしておけ」
     わけが分からず立ち尽くしているだけの部下に短くそれだけ指示し終えた時、エルディンの視界からジルベルの姿は消えていた。
     暗い夜道にも関わらず、足取りは確かで思いがけず速いらしい。
     一度、門扉の向こうの将軍と視線を合わせて頷きを交わし、消えた白い人影を追って身を翻す。
     駆けながら天を仰げば途切れた雲間からは清浄な月光が降り注ぎ、足元の石畳を淡く照らしていた。
     いつの間にか戻ってきた初夏の夜らしい涼やかな風が、背にかかる漆黒の髪を撫でて軽やかに吹き抜けていく。
     明らかにほんの少し前の門扉の外とは違う空気に、何らかの力の存在を確信し奥歯を噛みしめる。
     フィールデン王国を訪れた者たちが怪奇な現象に襲われた。
     それも……自分の目と鼻の先で。
     例えばその原因が客人たちにあったにせよ、フィールデンの土にある以上、責を免れるはずもない。
     ましてや王城の間近、国の最精鋭守護騎士隊が、自分が、そこにいたのだ。
     国の名誉、騎士隊の誇り、何よりもエルディン自身の屈辱。
     いつになく感じた身にまとう甲冑の重さを振り切るように、さらに足を速める。
     甲冑のかかとが石畳を鋭く打ち鳴らし──常ならば周囲の不審を招く行為には十分に気を配るところであったが、今はそれどころではない。
     目の端に角を曲がって消える白い服の裾を見つけ、一つ息を吐き出す。
     降りかかった災禍はまたも自身の手に余るだろう様相を見せており、どこが国の守護者かと心の奥底に小さな自嘲がこぼれる。
     さらに加速をつけ、エルディンも同じ角を曲がる。
     多少の息をあがらせながら程なくしてたどり着いた一軒の家。
     よほど急いでいたらしく大きく開け放たれたままの扉は、つい先刻、エルディン自身が叩いたもの──ジルベルの家に戻ったのだ。
     灯りを落としたままの室内を見渡してみても、そこに家主の姿は見当たらない。
     代わりに先ほどからしきりに物音の響く頭上を見上げ、躊躇いながらも階上へと足を踏み入れる。
    「ジルベル。勝手に失礼したが……」
     言いかけた言葉をのむ。
     崩れ落ちた書物や倒れた見知らぬ道具。
     蹴り倒したらしい植物の鉢から飛び散った砂粒。
     散乱した部屋の真ん中で、ジルベルは一枚の円形の板を覗き込んでいた。
     一見すると手鏡のようにも思えるが、石とも金属とも分からぬ板は何かを映すことを拒絶するかのように、光さえも弾かぬ黒一色。
     だが、両手でしっかりと両のふちを握りながら、ジルベルの瞳は黒板を見据えまばたきもしない。
    「……プロパートル。お願いですわ、応えてくださいな」
     ジルベルの唇から、繰り返されるはやい呼吸の合間にうわ言のように小さくこぼれる声。
     ゆっくりと背後に立ったエルディンの存在に気づいていないはずもないのだが、まったく気に留めた様子もなく、ただ一心不乱に板をみつめる。
     間もなく灰色の瞳がハッと閃きをとり戻した。
     黒く閉ざされていた板の表面がいつの間にかツヤを持ち、やがて黒色の鏡面のように人影の陰影を像として結び始める。
     ふと、エルディンは物音に耳を澄ます。
     階下から昇ってきたのは部下と、伴われてきたのであろう異国の客人──隻腕の将軍と彼の国の宮廷魔道師。
     それだけを確認し、再び意識をジルベルの方へと向けた時、黒い板の上に映し出されていた顔は、覗き込んでいる女のものではありえなかった。
     口元を完全に覆いつくす真っ白な長いひげをたくわえ、顔中に刻み込まれたしわという名の年輪は相当な高齢であることを示している。
    『──ふむ。ジルベルよ、久しいの──』
    「プロパートル! お久しぶりで……なんて、のん気に挨拶なんて交わしている場合ではございませんわ!」
    『──どうかしたかの?──』
    「お隠しになっても無駄ですわ。何がございましたの?」
    『──はて──』
    「プロパートル!」
     よほど気が急くのか、ジルベルは手にした板を小刻みに揺さぶる。
    「黒の塔の封印が解かれたというのは、本当ですの?」
    『──お主はもうスーニエルを離れたのじゃ。むやみに首を突っ込むものではないぞ──』
     寄せられたジルベルの眉根がさらに深い縦じわに刻まれる。
     つい今しがた目の前に広がった光景は、ジルベルにとっても尋常ならざる事態だったのだ。
    「……フロー様が忽然と目の前から消えたのだと申し上げても?」
    『──なんじゃと?──』
     二人……と呼ぶべきかは不明であるが、さしあたってやりとりに口をはさむことのなかったエルディンだが、代わりに猜疑の視線はもう一人の異国の魔導師へと向けられる。
     と、もう一つ──隻眼の将軍の鋭い眼光が同じ人物に注がれている事に気づく。
     二つの国を代表する無言の強面に背に這う冷たい汗を感じ、ミューリフは今にも泣きだしそうに……それでも口を閉ざしていた。
    「アレは、どういうことだ?」
    「さ、さぁ、えーと……」
     言葉をにごすミューリフに、隻眼がすっと細められ剣呑な光を帯びる。
    「『太古の智慧』というヤツか?」
    「えーと……あー……」
     うめきながら救いを求めるように視線を彷徨わせたものの、唯一味方になり得そうなジルベルは脇目もふらず交信を続けている。
     無駄な抵抗なのだろうと半ば自覚しつつも、なおしばらくミューリフは陸に水揚げされた魚のようにパクパクと口をあえがせた。
     が、間もなく陥落する。
    「……相違ございません」
    「お前のその隠し事のできない善良さは、やっぱり魔導師向きじゃないかもなぁ……」
     ガイトンの表情から厳しさが氷解し親しげな苦笑が浮かび上がるのを見て、ミューリフの気張っていた肩からも力が抜ける。
    「にしても……まったく、高位の魔導師連中ってヤツは……」
     ぶつぶつと呟くうちに再び厳格な将軍の顔が現れる。
     足音に断固とした意思を表示し、床に座り込んでいるジルベルの背後をとった。
    「ジルベル。俺にも少し話させろ」
    「無理ですわ、ガイ」
    「魔力の問題か?」
    「ええ。ですから、しばらくお静かに」
     口調こそ穏やかながらも短く切り上げて、ジルベルは再び板面へと視線を戻す。
    「封印を解いたのは、一体何者でしょう?」
    『──分からぬ。が、内部の者の手引きがあったのは確かじゃな。黒の塔へは正式な手順で入り込んでおる──』
    「だとすれば、高位の者……あるいはその周辺の者の背信が疑われますわね」
     あごに指先を添え、いつものように思案にくれようとする寸前、老人が尋ねる。
    『──ところで、そちらにミューリフが行っているはずじゃが会うたかの……?──』
    「ええ、ここに来ておりますわ」
     その時はじめて、ジルベルはようやくミューリフをちらりとだけ振り返った。
    『──では、その”遠見の鏡”はミューリフに預けよ。国より持ち出した件についてはもはや問うまい。そして、そなたは忘れるがよい──』
    「そんなこと……!」
    『──もはや、お主にスーニエルの機密を知る権利はない。国を捨てる、とはそういう事であろう?──』
    「……」
     赤い唇が閉ざされ言葉が消え、代わりに口惜しそうな縦じわが眉間に刻まれる。
     近くて遠い距離を隔てた二人の間に嫌な沈黙が漂った。
    『──まだ最後の封は解かれておらぬよ──』
     ポツリとどこか諦めたように一言だけ呟きがもれる。
    「…………良かった」
     表情を緩め息をつくジルベルの瞳の上で、老人の顔が歪みはじめる。
    『──もう、お主が背負い込むことはないのじゃ。忘れよ。よいな、ジルベル──』
     これ以上は話すことはない──そう告げるかわりに老人の顔はすでに消え、”遠見の鏡”は黒いだけの板に戻ってしまった。
     うつむいて丸まったままのジルベルの背に、誰も声をかけられずにいたのだが、
    「……ミューリフ。使い方は分かりますわね?」
    「は、はい……!」
     木の板の床をきしませながら歩み寄ると、床にまで流れている長い白髪に覆われた背中越しに”遠見の鏡”を受取った。
     何か言いたくて、けれど何も思いつかずに口をあえがせるミューリフの傍らから、一本の腕が伸びる。  
    「ジルベル。プロパートル様はああ仰ったが、俺はお前に助けを求めるかもしれん」
     肩に置かれた手の平の温かさにジルベルは小さく頷く。
    「フローを……皆さまを助けられなくて、本当に……」
    「バカ、謝るなよ? 責任なら俺たち全員で負うべきものだ。今日も……あの時のこともな」
     強い口調で言い切ると、ガイトンはギュッとジルベルの肩を握った。
    「”遠見の鏡”は預かる。何かあれば誰かを寄越す。だから、あんまり思いつめるなよ」  
     軽く肩をはたくようにして勢いをつけて身をひるがえし、ガイトンはもうふり向かない。
     来た時と同様に守護騎士たちに伴われ、フィールデンの王宮へと静かに戻っていった。
     幾つもの連なった足音がやがて遠ざかり、真夜中の静寂だけが置き去りにされる。
     固まったように座り込んだままだったジルベルの耳が、自分以外の人の呼吸を聞き取った。
     横顔にふりかかっていた髪の房をかきあげつつ背後をうかがえば、一人、エルディンがそこに残っている。
     きっちりと閉ざされた唇の間からは、沈黙に潜んだいくつもの疑問が聞こえてくるようだ。
     事情ならば使者たちに正式に問えばよいものを……と頭の片隅に掠めつつも、どこか安堵している自分を見つける。
     己の無力さに萎えかけたジルベルの心を見透かすように、まっすぐに向けられた静かで迷いのないその黒い双眸。
     こんな所でしゃがみこんでいる場合ではないのだ、と厳しくも確かな現実を思い出し、大きく息を吐き出したジルベルは気合を入れて立ち上がる。
    「間が抜けていますわね。離れた国の道理に従う義務はありませんのに……」
     忘れろと言われて、忘れることなど……忘れたフリをして生きていくなどできはしない。
     だが、かの国への負い目のゆえに従おうとしていた。
     いや……それも多すぎる苦い思い出の傷痕のうずきに、逃げ出そうとする弱い心の言い訳だろう。
     自分は関われなかったのだから仕方がない、と。
     けれど、本当はまだ道は確かにそこにあるのだと思い起こさせてくれた、この新たなる国の騎士に感謝をこめてかすかに微笑を向ける。
     夜半を過ぎた闇に包み込まれた部屋の中で佇む二人を、窓の彼方の月が白く儚い輝きで照らし出していた。
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