** ある錬金術師の物語 **
  • 鬱金の波紋 04
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     その日、たいして難しくもない薬の合成が夜半すぎまで長引いたのは、気がそぞろだったせいだ。
     思いもかけない再会に、懐かしい顔に安堵する心とそれ以上にかき乱される心。
     流れていく時間で塞いだはずの傷跡が不意に痛みだした……そんなところだろうか。
     自分の心を分析しつつも、また止まっている手を見ては自嘲の笑みを浮かべるジルベルがいた。
     はかどらない合成にいいかげん諦めを感じ始めた時、戸を叩く音が耳にとびこむ。
     緩やかに鳴らされる響きは風のいたずらかと思うほどだが、どうやらそうではないらしい。
     人の気配のする扉に耳をおし当てながら、ジルベルはそっと声をかける。
    「……どなた?」
    「私だ」
     扉越しにもひそめていても明らかに聞き覚えのある声に、大慌てでカンヌキを外し扉を開ける。
    「エルディン様。いったいどうなさいましたの、このような時間に……?」
    「夜分遅く申し訳ない。まだ眠っていなかったようだな」
    「え、ええ。ちょっと合成をしておりましたもので。ところで、一体、何の御用でございましょう?」
     ジルベルはエルディンの体のわきから辺りに目をこらす。
     月のない夜だった。昼間は薄かった雲は厚みを増し、すっかり空を覆ってしまったようだ。暑気をはらう風も凪ぎ、空気が重くまとわりついてくる。降る雨の前兆といえばそうかもしれない、けれど……。
     視線と思考とをさまよわせるジルベルを、エルディンも上から下まで眺めやっていた。
    「すぐにも出かけられるようだな」
    「は? え、ええ、まあ」
     昼に王宮から戻って以来、ずっと合成を続けていたせいで着替えもしていなかったのだ。
    「少しばかり付き合ってもらいたいのだが」
    「少しお待ちくださいませ」
     深夜の訪問客、しかも相手はエルディン。それだけで非常事態であることは間違いない。
     素早く戸締りをするジルベルの肌を、見え隠れする不穏な兆しがざわめかせた。
     エルディンの手にした松明だけが頼りの暗い道を、二人は黙々と歩いていく。
     大通りを避けて幾つかの路地を曲がり、ようやくたどりついた所は外へとつながる街門の一つ。
     普段ならば、当然、締めきられているはずのそこに暗い闇が浮かび上がっている。
     いつもと違うのは開いた門扉だけではなかった。
     そこだけ明々と照らされた中に見慣れた守護騎士隊士らのつくる壁。
     ……その向こうに並ぶのは懐かしい顔たち。
     帰り支度を整えたスーニエルの一行が、馬車や騎馬を囲んでひっそりとたたずんでいた。
    「エルディン様、これは……」
    「さしでがましいかとは思ったのだがな」
     複雑な表情でエルディンを見上げるジルベルの前に、一つの影が突進してきた。
    「ジルベルーー!!」
     力の限りでとび込んできた女性の体を、よろめきながら辛うじて受け止める。
    「会いたかったわ」
    「フロー……様もお変わりなく」
     王女の身体を抱きかかえながら、ジルベルは困ったように眉尻を下げて微笑を浮かべる。
     王女が額を押し当てる肩にかすかな雫の温もりがあった。
    「もう。城を離れたのなら他人行儀はやめて……!」
     鼻をすすりながら、王女フレイリオはまるで少女のように口をとがらせる。
     その背後からさらに二つの人影も進み出た。
    「フロー。わがままを言うもんじゃないぞ」
    「だって、ガイ」
    「仕方ないだろう。いくら広く知れた仲とはいえ、国の者たちの前では、な」
    「あら、ガイだって。今、私のことフローって」
    「まぁまぁ、お二人とも。ほら、ジルベル様が困っていらっしゃいますよ」
     言い合う王女と近衛隊長の間に宮廷魔導師が割り込む。
     居並ぶ賓客たちの間のジルベルの位置をはかるように、エルディンが目を細めた。
    「ミューリフだけではありませんでしたのね」
    「あ! 私が申し上げたのではありませんよ!?」
     最初苦笑を浮かべていたミューリフが、ジルベルの睨み上げに大きく首を振る。
    「そちらのエルディン殿から、な。あんまりミューリフを苛めててやるなよ。ジルベル」
     おどけて口の端を持ち上げる男の顔には、鋭く深い傷跡が刻み付けられていた。短く刈った髪と同じ薄墨色の瞳は一つ、松明の灯りをきらめかせている。
    「あなたも御元気そうで何よりですわ、ガイ」
    「元気だけが取り柄だからな」
     明るく笑うガイトンのすくめた肩にジルベルの視線が移動する。かつては確かにその肩からまっすぐに伸びる腕があった。半ば伏せたジルベルのまぶたはどこか哀しげだった。
    「もう、傷はよろしいの?」
    「この通りな。だから、そんな顔はするな」
     ガイトンに返したジルベルの笑みは、ひどく薄く曖昧なものだった。
    「ところで、これはなんの騒ぎですの?」
     スーニエルからの親善使節。それも国賓と呼ぶにふさわしい顔ぶれが揃っているにも関わらず、こんな夜中に慌しく出立しようというのだ。
    「それが、ジルベルさま……」
    「よせ、ミューリフ」
    「あ。は、はい」
     豹変したガイトンの厳しい口調に、ミューリフの足が一歩引き下がる。
    「スーニエルで火急な用件ができてな。とり急ぎ帰国するだけだ」
     気にするな、といくら言われたところで気にかからないはずもない。
     だが、ガイトンの見せた口出し無用の意思。ジルベルは、あえてそれ以上問いただすことは止めた。
    「お気をつけて」
     その一言にすべての思いをこめた。
     一呼吸の間。異国からの客人たちが漂わせる冷たい沈黙。
     声にならない会話を見守るエルディンの静かな瞳の中で、王女が一度きゅっと唇を噛んだ。
    「ジルベルはもう、グノーシルには戻らないのね」
    「ええ。そのつもりです」
    「そう……そうよね」
     明らかに寂しいと瞳で訴えながらも、フレイリオはパッと笑顔を浮かべた。
     ジルベルに背を向け凛と背筋を伸ばす。そこには一国を担う王女の姿があった。
    「帰りましょう、一国もはやく。グノーシルへ」
     馬車に乗り込もうとする王女の背中に引き止めるように伸びた白い手。
     ゆっくりとジルベルにふり向いた王女は頬を緩め、一人の女性に戻る。
    「貴女に会えてよかったわ」
    「フロー」
    「またね」
     華やかに笑った王女は小さく手を振って馬車に乗り込んだ。
     やりとりを眺めていたガイトンが、間もなく深く頭を垂れた先にはエルディンがいた。
     騎馬の手綱が引かれ、一行はルイーダの街壁の外へと足を踏み出す。
    「さ、ミューリフ。あなたもお急ぎなさいませ」
    「……はい」
     最後まで別れを惜しんでは、何度も後ろを振りかえるミューリフの足が止まる。
     ぐずぐずと長引く別れに、ジルベルはとうとう青年の背中を押して見送ることにした。
     ようやく門の外にまで追いやったところで、ふっと外の暗闇に目をとめる。
     暗さを闇雲に恐れるはずもないジルベルだが、何故か胸の鼓動がはやくなる。
     いつになく濃く感じられる闇に、這い上がる悪寒に身を震わせた次の瞬間だった。
     突然、足元が心もとなくなる。
     まるで足の下にある地面だけがとろけたような、不思議な違和感にジルベルはとっさに身をひいた。
     その行動はあまりにも奇妙に見えたことだろう。
     だが、スーニエルの騎士たちは一斉に剣を抜き、ミューリフでさえも即座に身構えていた。
     そして、驚いたことにもう一つ。
     なんの合図も遠慮もなく、エルディンの腕はジルベルの身体を門の内側へと引き倒していたのだった。
     転げ込んだジルベルと片膝をついてその身体を支えるエルディンの前で、信じがたい光景が広がる。
     丁度ジルベルが立っていた辺りの地面が小さく波うったのだ。
     何かを探すように震えて蠢き、滴り落ちる雫でも受けたかのように波紋を描く。
     そして、突然、波紋は急速にその輪を広げた。
     ねっとりとした泥濘のような、うす気味の悪いさざ波。
    「行け! 走らせろっ!!」
     鋭い叫びと共にガイトンは馬車を引く馬の横尻を次々に叩く。
     よく慣らされた馬たちは、力強く土を蹴り王女の乗る馬車を遠くへ運ぶはずだった。
     だが、踏みしめるべき大地が馬たちを裏切り、土に沈み込んだ足が無惨な音をたてて砕ける。
     六頭の馬たちが次々と嘶きをあげ、激しく揺さぶられた馬車もとうとう横倒しに投げ出された。
    「くそっ! フローー!!」
     苦悶の声をあげ、馬車へと駆け出そうとするガイトンの足が土にめり込む。
     完全に飲み込まれはしないものの、泥沼に踏み込んだかのように先に進むことは極めて困難だった。
     突然のできごとに四苦八苦する同郷の民らを目前にして、ジルベルも放心してはいられない。
     けれど、その身体は門扉の内側にしっかりと固定されていた。
    「エルディン様! 離して下さいませ!!」
    「待て……見ろ!」
     飛び出そうとするジルベルの身体を押さえつけながら、エルディンは目の前の地面を指した。
     この闇夜の中で何故こんなにもはっきりと辺りが見えるのか。
     その答えは生き物のように蠢くその土が、薄く明かりを放っているからだ。そして、ジルベルらの目前で侵略を留めていた。
    「結界……」
     エルディンが小さく頷く。
     ルイーダの街を守る街壁とその礎に沈められた封印石の結界が命運を分けたのだ。
    「ガイ! はやく門の中に入るんですわ!!」
     ジルベルの叫びにガイトンは首を横に振る。
     彼の視線の先にあるのは投げ出された馬車。自分の身の安全と引き換えに王女を見捨てられるほど、器用な男ではなかった。
     なおも前進しようとするガイトンの足が、不意に重みから解放された。不自然に力を加えていたせいで前にのめる。
     どうにか身体の均衡をとり戻して顔を上げたとき、ガイトンは馬車を見失っていた。
     いや、すべての人の目から馬車は隠されてしまった。本来あった夜の闇の中に。ほのかな光の波紋が消えたのだ。
     夜は夜に、土は土に。
     それは、始まりよりも更に唐突に訪れた。
    「フロー……フローー!!」
     辺りに広がる静寂の中、ガイトンの緊迫した声がよく通る。
     道端の草むらに横倒しに落ち込んだ馬車を見つけたようだ。カラカラと虚しく空まわる車輪の音が止まり、扉が天に向けて開かれる。
     ジルベルもまた、王女の馬車に向かうべく格闘を始めていた。
     だが。
    「ジルベル……来るな」
     乾ききった抑揚のないガイトンの声に、ジルベルの動きが止まった。
     そもそも未だエルディンの腕の拘束から逃れられずにいるのだが、そのままで目いっぱい身を乗り出して問う。
    「ガイ……一体……?」
    「フローが消えた」
     柔らかな絹の張られた馬車の中に、ガイトンの声だけが寒々しく響く。
     街壁に沿って植えられた街路樹に風のざわめきが戻ってきた。
     ゆっくりと現れた雲間から差し込む月の光の中、とり残された人々の影が凍りついたように動けずにいた。
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