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夜半過ぎの南の海。 太陽の下で紺碧に輝く見渡す限りの波は今は闇色に沈み、いつになく激しく……それこそすぐ足元に蛇がのたうち回るかのように波打っていた。 外洋を旅する頑強な船が先ほどから小船のように波間に揺れる。 乗り込んでいた熟練した船乗り達が思わず首を傾げるほどに、不気味な荒れ狂い方をする海。 嵐でも、大渦でもなく、普段ならば穏やかなはずの沖の海が、どうしたわけかある所を境に唐突に得体の知れない力でうねりを見せ始めたのだ。 本来ならば真っ先に回避するだろうその海を渡る船の上で、二人の錬金術師がすでに立っていることもおぼつかずに船べりを掴んでしゃがみこんでいた。 危うく舌を噛みそうになって以来、沈黙を決め込んでいたジルベルだったが、懐ろに抱え持つ宝珠の小さな震動に後ろを振り返る。 「……そ、そろそろ……よろしいかと」 短い言葉に頷いたのは、二人の背後に控えていたエルディンだった。 乗り込んだ他の守護騎士共々、いつもの分厚い甲冑から海戦に備えた身軽な防備へと姿を変えており、ここまで類稀な運動能力のおかげで無様に転げるようなことはなかったが、それでももう幾度となく壁や柱に身体を打ちつけている。 「始めるそうだ。各々安全を確保せよ」 ごく簡単に下した指示が、船を叩く波の激しさとギシギシという船の悲鳴に紛れ込む。 この状況で安全を欲するならば今すぐにこの海を去ることなのだが……と密かに心でぼやきつつ、船乗りたちは不意の嵐に出くわした時と同じように帆をたたみ、荷の固定を確認し、と忙しげに駆け回る。 間もなくして準備が整った──主に覚悟という名の心の準備だが──を告げられる頃、ジルベルはどうにかこうにか立ち上がっていた。 船のふちにしがみつくような状態で、お世辞にも国難を担う錬金術師の様とは言い難い。 だが、白い手が懐ろから引きずり出した呪具『水神の珠』は、直視に耐え得ないほどの眩い光輝を放って闇夜を明々と照らし出した。 境目すら判別のつかない暗い空と海との隙間に立つジルベルの腕が、海へとさし伸ばされる。 船に合わせて揺らめく青白い輝きは、少しの間をおいてからやがて一直線に光の尾を描きながら黒々とした海へと吸い込まれていった。 底知れぬ海の奥深くへと沈みゆく光点を見送るジルベルの眉間にしわが刻まれる。 『水神の珠』もリヴァイアサンも、現世の人間には到底扱える代物ではない──自身が導き出したその結論に間違いはない。 たとえば魔力に長けた魔族ならばあるいは使いこなせる者もあるやもしれないが、そんな事態は人間にとって脅威でしかないし、人間の中で御することができるだろう者は、魔導国家と謳われる遠い故郷の記憶を紐解いてみても思い当たらない。 一人の術師として知識の消失を惜しむ心はあるが、制御できない力のもたらすものが悲劇でしかないことをジルベルはよく知っていた。 けれど、それとは別にもう一つの懸念。 『水神の珠』の消滅に同意したエルディンに対して、咎めだてはないのだろうか……。 無論、反対されたところで、ジルベルは勝手に消滅させるつもりではあったのだが。 ── 一より分かたれしもの達が一に還る時、全ては零となる。 封印の書のその一文を目にした時から、必ずそうする事を決めていたのだ。 とはいえ、国にとって確実に強大な戦力となり得るものを手放すことをあっさりと受け入れられたことには、拍子抜けしたのは事実だった。 「……あの、本当によろしいのですか?」 「構わない。此度の件の処理については私に全権が委ねられている」 「で、では……そのように致しますわ……」 「必要なものがあれば用意する。直ちにとりかかってもらいたい」 そんな簡潔すぎるやりとりの成果が今である。 エルディンとてやみくもにジルベルの言をただ鵜呑みにしたわけではなく、目にしてきた幾つもの現実と国の現状とを鑑みた上でのことだ。 現在のフィールデン王国は大陸屈指の強国であり、同時に豊かでもある。 いずれの国とも戦端を交えておらず、まずまずの治世といってさしつかえないだろう。 手に余る力を身に抱える危険、それを他者から守らねばならない手間、万が一他者の手に渡った時に被るであろう不利益。 諸々を秤にかけた結果の同意は、それでもやはり英断に違いない。 未来に起こるかもしれない戦渦のために密かに所持しておきたいと欲した方が、いっそのことジルベルは驚きはしなかっただろう。 あるいはこういう人物を軍の頂点に据えることができるからこそ、フィールデン王国は強く栄えているのかもしれない。 短い感慨にひたっていたジルベルの瞳から光の粒が消える。 すでに海を照らすものは甲板に掲げられたいくつかの灯火だけで、辺りは再び一面の夜に支配されていた。 「……終わったのか?」 誰かの呟きに近くにいる者同士が顔を見合わせる。 船の揺れが小ぶりになったことで、ホッと安堵の空気が広がった刹那。 海の奥底をのぞきこんだジルベルの目は膨れて盛り上がる海面を見る。 次の瞬間、ふわりと浮遊するような感覚に襲われた。まるで強い力で弾かれたように、大きな船が海の上で跳ね上がったのだ。 言葉にならない叫びがあちらこちらでわき上がる。 「エマリー!!」 「ダグーーーっ!!」 空を泳ぐエマリーの服の襟首をダグレイの手が辛うじて掴み、手荒にひきずりおろす。 傾いた甲板をもつれるように転げたわずかな時間が、どれ程長く感じたことか。 が、まもなく船は海という足場をとり戻す。 先ほどまでのうねりが嘘のように静まり返った海の上に、船はいかほどの衝撃もなく着水し何事もなかったかのように心地よさげに浮いていた。 固定も虚しく投げ出された積荷と水浸しの甲板がなければ、全員が夢を見たのかと疑ったかもしれない。 それ程までに辺りの様子は一変したのだ。 と、ぐるりと視線を一周させたエマリーが慌てた声をあげる。 「ジルさんは!?」 甲板中の人々が各々の目でその姿を探す。 他の誰とも異なる白い人影を、けれど誰一人として月光の中に見つける事はできなかった。 「明かりだ……! 松明をありったけ点けろ!!」 顔色を青くしたダグレイが船中に声を響かせる。 一斉に点された炎が水面を照らし、他にも投げ出された何人かが助けあげられる。 「ん……隊長もいない?」 驚きと同時に首を深く傾げるダグレイの呟きに、エマリーもまた目を瞬かせる頃。 掲げられた松明の揺らめきに映える水面の少しばかり外側に、二つの人影が浮かびあがってきた。 「大丈夫か?」 「ええ……なんとか……」 隅々まで余すところなくどっぷりと濡れそぼったジルベルは、身体の半分以上をエルディンの肩の上に担ぎ上げられ、ただ頷くだけで精一杯だった。 リヴァイアサンと『水神の珠』。 二つを一つに、とはつまり合成であったようで魔力を奪われ、凄まじい合成反応を見せた挙句、海に放り出される結末を迎えるとは。 そうならそうと記しておいてくれれば……もっとも、予想の範疇にあってしかるべきだったけれど。 心に浮かぶ悪態を、もはや口にのぼらせる程の余力はなく、ここ数日の睡眠不足と疲労が一気に押し寄せ、意識を保っているのがやっとの状態。 もっとも、困憊は魔獣との戦いに奔走していたエルディンも同様であろうことを思えば、せめて口だけでも強がっていなければ申し訳ないような気がしていた。 そんな明らかに億劫そうなジルベルの口ぶりに、小さなため息をこぼすエルディンの眉尻が下がる。 肩に預けられた体の重みは明らかに『大丈夫』ではないのだが、それでも決して弱音を口にする事はないのだろう。 なんとなく、そう確信していた。 「……一つ答えることはできるか?」 「何でございましょう?」 「あの時、何と言っていたのだ? 詠唱のようには思えなかったのだが……」 凪ぎの海に小さく揺られながら、エルディンはその光景を思い出す。 荒れ狂う海に沈みゆく『水神の珠』に向かってジルベルの唇が小さく動き、応えるように光は青く優しく色を変えた。 繰り返す穏やかな明滅に、あるいは口にしたその言葉が結末を変えたのかもしれないと思えたのだ。 つかの間の沈黙の間、二人はかすかな波の調べと互いの呼吸を聞いていた。 「……長い間……ご苦労さま……」 リヴァイアサンが、『 水神の珠 』が、どれほどの古きものであったのか知る術はない。 遠い時の向こうで創り主の生命が潰えたとき、共に消えるはずだった彼らを永らえさせたのは、恐らく力を欲する人間の業。 時の流れを超えて穏やかな眠りを解かれ、再びこの世に遣わされたのも……また……。 『汝、我らの主になる気はないか?』 戦いの終幕の中、そう尋ねたのはリヴァイアサンだったのか、それとも『水神の珠』自身だったのか。 あまりにも予想外の問いかけに思わず『水神の珠』を取り落としたジルベルだが、答えはすでに出ていた。 ──無に返す。 ジルベルは良くも悪くも自らの力の限度を知っていた。 彼らの支配をはねつけられるというのが関の山で、およそ御するには程遠い。 我が身は彼らを受け入れるには小さく、できるのはただ彼らを解放してやることだけ。 「だから、永遠におやすみ……と」 「……そうか。終わったのだな」 「はい……」 塵は塵に、泡は泡に──。 誰が、何を思い、彼らを生み出したのかを知る術はない。 いずれにせよ、人が勝手に産み落とし、利用し、放置し、消滅させた。 その一端を担った自分が描くにはあつかましい願いかもしれないが……澄み渡った温かな青い海で絡み合いながら泳ぐ二匹のリヴァイアサンの幻影を、瞼の裏に思い浮かべるジルベルだった。 「もう間もなく陸に帰れそうだな」 視線の先で船から小船が降ろされるのを確認しながら、エルディンは改めて肩の荷をしっかりと担ぎ上げる。 「そなたらには苦労をかけた」 「いえ、まあ……ええ……」 今さらながら休暇のためにこの街に来たばかりだったことを思い出し、吐息をこぼさざるを得ない。 「限りはあるが、望みがあらば聞こう」 「わたくし達がこの一件に関わらなかった、という事には……」 「それは……恐らく無理だとは思うが」 「そうでございましょうねぇ」 武勇伝のほとぼりを冷ますはずが、さらに武勇伝を重ねてしまったことにどんよりと重い雲が心にたちこめる。 王都に帰るまでにはさらなる日数を必要としそうだった。 黒いローブのフードの陰で青年は目を細めていた。 ぼんやりとした光だけが存在する空間に重ねて並べられる罵りの言葉。同じく黒のローブに身を包んだ輩が、もう何度も繰り返しているのだ。 「まったく、あの者たちには、これがどれ程の価値かも分からぬのか!」 「やはり、あの女がこの書の秘密を独占するために、わざとさせたのかもしれん」 「ええい、どちらにしても口惜しい!」 彼らは一冊の書を中心に輪を作っていた。 雨にうたれた黒い書は、ページをくることも困難なほどに水を含み膨れ上がっている。ごく当たり前にインクで書かれた文字は、すっかりにじんで文字の形をしていない。死んだスリガンの身体を使い、喜びにわく少女の傍らから掠め取ったというのに。 「何が記されてあったのだ? 一体、どんな素晴らしい智慧が……」 「そもそも、スリガンの愚か者が最初にしくじったばかりにこの様だ」 「当人が死んでしまっては文句も言えんわ」 そんな飽きもせず続く愚痴に青年がいささか飽きてきた頃、一人の男が問いかけてきた。 「盟主殿。貴方の御力でどうにかならぬものでしょうかな?」 いかにも他力を願う卑屈な口調に青年は口の端を歪めて哂う。 「さて、時に関わる魔術というものは、なかなかに成功した話を聞かぬものゆえな」 鷹揚そうな、けれど、感情のこもらぬ声色に訊ねた男も返す言葉を失う。 「まあ、各々方。それほど悲観することもあるまいぞ」 同じローブに身を包みながら、誰ひとりとして、盟主と仰ぐこの男が青年の顔を持っていることを知らない。発する声の節々にある老成された響きが、彼の身体の若さを覆い隠していたのだ。 「あの者さえおればあらゆる封印がとり除けるのだ」 青年は喉を震わせて笑い声をあげる。心から満足しているかのように。 「そうか。ならば、たかが書物の一冊ぐらい構わぬという事になりますな」 「なるほど。つまり、今回の書は彼の女の力を試す、いわば餌であったと?」 「さすがは盟主殿。お考えが深くていらっしゃる」 今度は口々に追従を始める一同に、青年は今度は皮肉げに口元をつりあげた。 と、小さく身体を揺らす。 「そろそろ、目覚めのようだな」 「は?」 「いや、気にされるな。ともかく、しばし時を待つ事としようではないか、方々よ」 ぼやけた太陽のような光の中に黒い人影が溶けていく。 光の支配する割合がほとんどを占め、やがて消え去ろうとする手前。 「何、退屈はせんだろうて。封印された秘術が世界中でお主らを待っておるであろう?」 男たちの捧げるわざとらしいほどに恭しい一礼に、青年の顔が冷淡に哂う。 「……しかし、揃いも揃って、存外、正直者のお人よしばかりよ。あの者の方がよほどタチが悪い……」 光の中の嘲りは誰の耳にも届かない。 スリガンといい、彼らといい、使い物にならなくなったと喚くその書を、何をもって本物と見定めるのか。 いみじくも彼ら自身が口にしたとおり、何が記されているか知りもしないのに。 取引に偽物を用いるなど考えも及ばないのだろう。 ──事実、『水神の珠』でさえ模造品を用意して隙をうかがうジルベルが、もっと簡単に偽造できる書を用意しなかったはずはなく、実物は厳重な結界の中で現在もなお保管されていたわけだが。 ほんの少し頭をひねっただけの小細工。 自分たちの事に夢中な彼らが、相手の様子をうかがってみる気になるのはいつのことか。 あまりに容易く書を盗めたこと、書を失ったにも関わらず大騒ぎになっていないことの意味を知るのはいつのことか。 盟主と呼ばれた青年は、皮肉げに、だが楽しげに口元を吊り上げていた。 この後、アズフェンの街よりずっと遠い場所で一人の青年が寝床の上に身を起こす。 そして、近頃夢見がよくないと、軽く眉間にしわを寄せるのだった────。 | |
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