** ある錬金術師の物語 **
  • 蒼の天蓋 13
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     次第に夕闇へと傾きつつある中、心なしか雨足が軽くなる。
     気づけば雷鳴も遠ざかり、風の声も静まり始めていた。
     そして、小ぶりになった波のうねりの前にうずくまる白い影……。
     両膝が砂にめり込み、丸めた背中が震える。深く垂れた頭からは長く白い髪が乱れて砂に広がり、その下では大きく肩を上下させて荒い息を繰り返していた。
    「……ジルさん?」
     震えるようなエマリーの声が、ささやくように問いかける。
     ゆっくりと持ち上がった顔色はひどいものだったが、唇は確かに微笑の弧を描いていた。
     緊張の糸がほどけたエマリーも軽い音をたてて膝をつく。
     今にも泣き出しそうな少女の顔を見て、また、笑みを浮かべる。それすらも今のジルベルには、十分過ぎるほど苦痛ではあったのだが。
     自分の中に巣食う大きすぎる力を、ねじ伏せてたたき出したのだ。
     激しい疲労感に覆われながら、ジルベルは砂まみれの手足を動かす。
     ──まだ何も終わっていないのだから。
    「……他人の身体で勝手が過ぎましてよ」
     息苦しさにかすれながらも紛れもない女の声が、一体、誰に向けられたものなのか……。
     ジルベルの視線の先をたどり、ようやく誰もが本来の目的を思い出した。
     灰色の波間に青い光球が揺れる。
     先ほどまでの強い輝きは急速に損なわれ、今にも砂と海との間に引きずりこまれようとしていた。
     慌てて拾い上げようとして立ち上がろうとした膝が、再び砂に着地する。
     思ったより消耗が激しかったらしいと唇を噛むジルベルの視界に、必死の形相で絡みつくような重い塩水をかきわけるスリガンがいた。
     水を吸ったローブと寄る年波に鈍くなった身体では思うように陸にたどり着くことはできないだが、リヴァイアサンの呪縛を強引に振りほどいて疲弊しきったジルベルも似たようなものだ。
     いや、あるいは這ったまま動けないジルベルの方が重症かもしれない。
    「おのれぇっっ!! チ……チカラは私のモノだぁっっ!!」
     波しぶきを飲みながらも前進するスリガンに歯噛みしたジルベルだが、ふと袖の中に小さな塊を思い出す。
     自分は動くことはできないが──
     震えながらさし伸ばした白い指先からこぼれ落ちた紺色の珠が、砂浜を波間に向かって転がっていった。
    「チカラは……私の……っっ!! 私の…………」
     息を荒げてようやく海から這い上がってきたスリガンが目にしたのは、波に洗われる『水神の珠』。
     勝ち誇ったように口の端を持ち上げ、嬉々として拾いあげようとしたその時。
     スリガンの手が驚愕に留まる。
    「水神の珠が……ふ、二つ……?」
     波打ち際を漂う一つと、取り残されたように砂浜に一つ。
     老人が逡巡を見せる。
     今だ──脳裏に閃いたのと、傍らを風が疾ったのはどちらが早かっただろうか。
     砂を踏む音に水を蹴る音が重なる。
     いずれかを選ぶ必要などないのだと、ようやく気づいたスリガンが両の腕を伸ばす。
     二つの掌に包み込まれる鮮やかな海の色をした珠の一方が、眩い光輝をとり戻そうとしていた。
     もはや古代の書のことなど思考から消え失せ、あらゆるものに向けられたスリガンの顕わな殺意。
     呼応した『水神の珠』から一気に膨れ上がろうとする魔力の余波が、衝撃の波紋となって周囲に広がる。
     びりびりと鼓膜に響くその震動で、この次に爆ぜる魔力そのものがどれ程の力を秘めているかを物語っていた。
     とっさに身を守ることも忘れたジルベルに、短くよぎる死の予感。
     ──だが、その時は永久に訪れなかった。
     夜の闇、暗雲、不安……諸々に暗く閉ざされた世界に赤が散らばる。
     紺色の甲冑の向こうで水しぶきがあがり、迅速の剣筋にねじ伏せられた老体が一片の声をあげる暇さえなく斬り分けられていた。
     一瞬だけ残り火のように弾けた閃光が過ぎ去ると、間もなく雨が止んだ。
     押し寄せていた魔獣が怯えたように海へと還る。
     静けさが浜辺に唐突に戻った。
     寄せる波の音が穏やかに耳に届く。
     ジルベルの目の前でそれは血に染まり、その揺れる赤の中で紺の甲冑の背中が剣を支えに片膝をついて跪いていた。
    「エ……ルディン様……」  
     問いかけるジルベルの声は掠れた。
     しばし彫像のように動かなかった身体がゆるりと立ち上がった時、二つの溜息を聞く。
     一つは自分のもの。
     もう一つは、いつの間にかジルベルの斜め前にまで来ていたダグレイのものだった。
    「……終わった……のか?」
     右手に行き場を失くした刃を提げ、呆然と眼前の風景をみている。
     エルディンと同じ事をしようとしてほんの少し出遅れた。
     けれど、その僅差こそが事態の行方を変えただろう事は、誰よりもダグレイが感じている。
     だからこその最強、だからこその剣聖。
     近くて遠い──その距離に口惜しさを抱かずにいられないのは戦士の性だと言えよう。
     ゆっくりと剣をおさめるダグレイの周囲で歓声が沸きあがる。
     なりゆきを見守るしかなかった人々の頭上を覆っていた分厚い雲が切れ、見え隠れする夜空がいつ果てるとも知れぬ戦いの終幕を告げていた。
    「……まったく……無茶なことばかり……」
     駆け寄ってきたエマリーに軽く身体を支えられながら、ジルベルが呟く。
     際どい戦いだった。
     一歩出遅れていれば、『水神の珠』が放出する魔力に弾き飛ばされていただろう。
     ほんの少しエルディンの剣が鈍ければ、魔力の余波を越えてスリガンに到達できなかっただろう。
     そして、一撃のもとに命を絶つのでなければ、やはり『水神の珠』の魔力の餌食になったはずだ。
     もっとも、それでさえ、行き場を失った魔力の暴走に巻き込まれる危険があったのだが。  
    「本当に……これだから知識のない方は……」  
     が、知っているがゆえに死を覚悟してしまった自分では、決してこの終着を迎えることはできなかった。
     いや……あるいは承知していたのだとしても、彼なら飛び込んでいったのかもしれない。
     ブツブツと愚痴をこぼしつつも、ジルベルは小さく苦笑をこぼしていた。
     支えにしていた剣をゆっくりとした動きで鞘に収めたエルディンが、何度か深呼吸を繰り返した後でようやく振り返る。
     大歓声の中、一歩一歩を確実に砂を踏みしめて引き返してくるのだが、それが何時になく緩慢な動きであった事が、魔力の際とはいえど受けた衝撃の大きさを示していた。
    「これは……どうするのだ?」
    「あ……」  
     間もなく、まだ動けずにいるジルベルの元へさし伸ばされたエルディンの腕。
     手渡されたのは、二つの蒼き輝き……といっても、一方が煌々とより強い輝きで魔力の残滓を示していた。
    「!」
     何気なく手に取ったジルベルだったが、慌てて振りほどいた手から青い煌きがこぼれ落ちる。
     砂の上を転がった宝珠──青く透き通った珠のその中心は、幾つもの色が移り変わりながら蠢く。まるで水底に潜む怪しい影のように。
     異変を悟り、すかさず身構えるエルディンとダグレイの前で、しばし宝珠を凝視していたジルベルが再び手を伸ばした。
     警戒の色を見せる二人に、珠を手にしたジルベルはどこか曖昧な笑みを浮かべる。
    「大丈夫なのか?」
    「……ええ。でも、まだ後一仕事……残っているようですわ」  
     そう言って、ジルベルは海の遠景を見る。
     彼方からじっと見守るリヴァイアサンの金の眼を感じながら──。


     戦いに疲れたアズフェンの街に、安息の夜が訪れる。
     星の瞬く夜空に包まれ眠りについた街の片隅、安全確認のためと、まだ機能を停止したままの港から一隻の船がひっそりと出航する。
     波を乗り越え沖へ沖へと進む船の甲板には、白い女の影があった。
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