** ある錬金術師の物語 **
  • 蒼の天蓋 12
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     突然、肩に加わった手の重みにエマリーの身体がすくみ上がる。
    「俺だよ」
    「ダグ……」
     ダグレイの手の平に小刻みな震動が伝わる。
     無理もない。ダグレイ自身、目の前の異変に全身が危険を訴え、本能はすぐにこの場を去れと告げているのだ。  
    「ったく……なんだって命の危機なんてもんに、何度も巡りあわせんだろうな」  
     弱音のような強がりのような。
     そんなぼやきを口にしながらも、ダグレイはそっとエマリーを背中に隠した。
     スリガンから放たれる濃密な魔力はますます膨れ上がり、じわじわと締めつけるような緊張感が冷えきった体をさらに冷たくしていく。
     激しく砂地を荒らす波の音。
     身を穿つほどに容赦ない雨の筋。
     誰もが凍てついたように立ち止まり、辺りを覆う沈黙の中で時間だけが過ぎていった。
     と、不意に震える奇声があがった。
     停滞する緊張感に耐え切れなくなった自警団の若者が一人、大きく剣を振りかぶる。
     制止する暇もなく。
     脇を駆け抜ける男の濡れた服の裾が、引きとめようと伸ばしたダグレイの指先をかすめて離れていった。
     呆然と見守る他ない多くの視線の中で、けぶって見えるほどに濃い魔力の霧に埋もれる。
     直後、短いうめき声と共にはじき出された身体は、四肢と首とがあらぬ方向へとねじれて事切れていた。
     数多の唾を飲み下す音が雨音にうち消される。
    「チカラだ……チカラ……チカラ……ナントココチヨイ」
     魔力の壁の向こう側から届くスリガンの声。
     熱に浮かされたような鈍さと、裏腹にざらざらとした酷薄な悪意とに、戦士たちの濡れた銀の切っ先の束が一斉にさし向けられる。
     誰もが息をつめ、声を殺し、ただ剣の柄をかたく握り締める。そうすることでしか、這い登るおぞましさを抑える術を持たないかのように。  
    「……モウ……誰にも邪魔などサセヌ……私にはチカラが……あるノダ!!」
     高らかな哄笑にあわせて、スリガンを覆う魔力は一気に怒張し殺到していた周囲の兵士らを足元の砂諸共に跳ね飛ばす。
    「見ヨ!! 私のチカラを認めぬ者どもヨ!! 見るがイイ……コレが私のチカラなのダ!!」
     唐突に吹きすさぶしびれるように冷たい風が、浜辺の光景を覆い隠していた魔力の青白い霧を払う。
     さらに粒を大きくした雨だれの下、ぎょろりと見開いた目で哂うスリガンが立ち、その背中には数え切れぬ黒い異形の影が海の中から次々と立ち上がっていた。
     わずかに静まり返っていた戦場は、再び苛烈な戦いへとなだれ込む。  
    「ダグレイ、二人を連れて退け」
     耳元すぐで響いた短く低いエルディンの命令に、魔獣に向かって飛び出しかけていた足を辛うじて押し留める。
     襲来する魔獣を鋭く斬り捨てながら、背中でジルベルの身体を押すようにしてダグレイの位置まで後退してきていたのだ。
    「お待ちになって! わたくしは残ります。エマリーちゃんだけ……」
    「駄目だ。お前達を守りながら切り抜けられる状況ではない」
    「あなた方だけであの者とどう戦うおつもりですの? 大体、消耗戦ではすでに疲弊しきったこちらが不利だとお分かりでございましょう?」  
     ジルベルの見据える視線の先では、人と魔獣がいり乱れる激しい戦いの中で、一人、スリガンだけが恍惚とした表情を浮かべている。
     そこに人としての意志はなく、あるのは底知れぬ力に魅入られ、囚われ、翻弄されていることに気づかぬ老人の一時の狂乱だけ。
     過ぎたる力にいずれ身を滅ぼすに違いない──それまで持ち堪えることができれば、必ず隙ができる──必ず。
     ジルベルの指が己の胸元で揺れる黒い石をつかむ。
    「……機を見定めるためには、この戦場を退くわけには参りません」
     銀の一閃で降り注ぐ雨滴の幕ごと魔獣を斬り払ったエルディンが、眉間にしわを刻む。
     激しさを増す猛り狂った風雨。
     斬っても斬ってもさらに押し寄せる魔獣の群れ。
     やがて訪れるであろう夕闇。
     エルディンの目には急速に敗戦へと転じゆく戦場の姿が、残酷なまでに見てとれた。
     打開の一手は確かにそこにある。
     だが──
    「守るべき者を守る。戦場に立つべきは我らだ」
     断固として譲らぬ紺の甲冑をまとった背中は、有無を言わせぬ力強さでジルベルらを圧迫し後退を余儀なくさせる。
    「こんな時に騎士の誇りとでも仰るつもりですの……!? あなたの決断はこの街の存亡を担っていますのよ!」
     珍しくも憤りをあらわに、横なぐりに打ちつける雨足に噛み付くようにジルベルが声を荒げる。
    「この混乱の中、いつ訪れるか分からぬその”機”まで守り抜くのは難しいのだ」
    「自分の身一つぐらい自分で……」
    「そなたらを守るのが我らの役目。ゆえに下がれと言っている」
    「ですから、退くわけにはいかないと……!!」
     エルディンとジルベル。二人の会話が堂々巡りの様相を呈してきたその時だった。
     身に覚えのある灼熱がジルベルの身体を貫く。
     突然宿った熱は刹那に侵蝕する。その身も、その心をも。
     言葉を止め不意に立ち尽くしたジルベルを怪訝に振り返ろうとしたエルディンの耳に、
    『小……さき者よ、小さき……者よ……』  
     紫色に変色した唇から吐き出される低く重い響きは、ジルベルのものではありえなかった。
     色味の薄い瞳が冷たい黄金の輝きを放ち、目には映らぬ力の渦で長い髪は逆立つほどに舞い上がっている。
     スリガンのものとは違う……いや、それ以上の他を圧倒する空気がたちまちのうちに戦場を席巻していった。
     甲冑と雨とをまとうエルディンの身体が、その重みをものともしない二つのぶつかり合う流気に半ば弾かれるようにして、ジルベルの前から押しのけられる。
     すぐに体勢を立て直し身構えるものの、魔獣たちは動きを止めている。同じく人々もまた、辺りに漂う異様な重圧に固唾をのんで息を殺していた。
     異常の中心に最も近い場所で、エルディンもまた瞬きさえ殺した。驚きの色さえ浮かべない仮面の下に粟立つ肌を隠して。
    「……リヴァイア……サン」
     震えるかすかな声に視線だけを向ければ、年若い部下──ダグレイの背中の後ろで身を縮こめる少女の手の隙間から、鮮やかな赤い輝きが漏れている。『ヴィネの眼』と呼ばれる呪具を包み込んで。
     ジルベルの口から吐き出されたあの声色は、確かにエルディン自身の耳にも覚えがあると思い出す。
     たった一度だけ。
     数日前ジルベルの身体を奪い、その存在を明らかにした災厄をもたらす力の源──古の魔獣リヴァイアサン。
     口にした現実になお募らせた不安に強張ったエマリーの握った拳に手の平が重なる。  
    「いよいよ、元凶のおでましってわけかよ」  
     緊張で引き締まる表情とは逆に、穏やかな響きがエマリーに降る。
     載せられたダグレイの手の平は手甲に包まれて硬く冷たいはずだが、そこに確かな温もりを感じていた。
    「リヴァイアサン……」
     エマリーと同じ名を呟いたスリガンは哂う。
     欲望に歪んだ笑みは醜悪でさえあり、喉の奥からあふれ出すしわがれた笑い声が風に乗って広がる。
    「私にチカラを与えろ! 私に、もっとチカラをっっ!!」
     天を仰ぐようにして吐き出された号令は、スリガンにとって全てに対する勝利宣言だった。
     数年前、前の大司教が亡くなった折、自分こそがその跡を継ぐものと確信していた。
     周囲の人間もきっとそうに違いないと言ってくれた。
     しかし、選ばれたのは自分より年若い……歯牙にもかけなかった神官にその座は譲られたのだ。
     よどんだ神殿内の体質を刷新する、などと言いながら多くの慣習が破られ始め、スリガンの生活は変化せざるを得なくなる。
     急速な変化はよろしくないと忠告してやったにも関わらず、新しい大司教はやんわりと首を振った。
     ぬるま湯の停滞に死ぬまで浸かっているおつもりか──と、賢しげに諭すような口ぶりで言い捨てたのだ。このスリガンに。
     見るがいい。
     正しきにこそ、チカラは、与えられた。
    「さあ、従エ! リヴァイアサンよ!! 我らのチカラを見せてやるのダ!!」
     咆えたてるスリガンとは対照的に、ジルベルの姿をとったものはあまりにも冷静だった。むしろ、冷徹と言ってもいい。
     ゆっくりと降りた目蓋が再び開いた時、凄まじい風の塊がスリガンの身を砂の上に放り出していた。
    『……その卑小なる才にて……我を……縛るか……』
     ジルベル──の口を借りて紡がれたリヴァイアサンの無慈悲な声に、スリガンの笑みは欠片すら残さず剥がれ落ちていた。
     あらゆる機能が停止し、ドクンと心臓の拍動だけが大きく耳の奥に響く。
     彫像のように呆然と砂の上に這うスリガンが、息を吹き返したのは数瞬後。
    「バカな……何故、私の意に従わナイ? ここに……こうして……」
     狼狽に声を震わせながら、せわしなく懐から何かをつかみさし出すように腕を伸ばす。
     降りしきる雨に浮かび上がる紺碧の灯火。
     ふとエマリーは自身に注がれる視線に気づき、確信をこめた小さな頷きだけで応え、エルディンは瞬きだけで確認する。
     水神の珠──全ての始まりと終わり。
     手を伸ばせばすぐそこにあるとしても、今はまだ動いてはならない。
     細い細い糸を張り詰めたような空気を見守ることしかできなかった。  
    「聞け、私の声を! チカラは私のモノダっ!」
    『弱き者、小さき者よ。我を……我らを……解放せよ……』
     スリガンの要求はリヴァイアサンに聞き届けられることはなかった。
     ……どころか、丸めた紙くずのように、老人の身体は右へ左へと風に弄られ砂を這いずりまわされる。  
    「ナゼダ、ナゼ!? チカラは私のモノなのだ……チカラは……!!」
    『渡すがいい……我が半身を……』  
     ゆるゆると浮遊するかのようなジルベルの足取りが、ゆっくりとスリガンを追い詰める。
     加齢以外のしわをも色濃く刻んだ老顔は、険しい波の飛沫と雨粒にさらされながら屈辱に歪んでいた。
     ぎりぎりと音が聞こえてきそうな程に奥歯を噛みしめ、だが、『水神の珠』を己自身で抱え込むようにして手放す意志はない。
     もはや老人にとって、それだけが寄る辺であった。
     白く細いジルベルのものであるはずの指先が、煩わしげにピクリと震える。
     間もなく、スリガンに向けて風の渦がはじき出され、小さな竜巻は易々と老人の身体を持ち上げ、海の深みへと捨て去った。
     波打ち際に取り残された鮮やかな青い煌めき──スリガンの手から零れ落ちた──水神の珠。
     冷ややかながらも満足げな笑みがジルベルの顔の上に浮かぶ。
     砂に浅い足跡を刻みながら海へと下っていく途中、突然、立ち止まった。
     リヴァイアサンの人ならざる笑みは苦悶へと変わり、苛立ちを隠しきれない苦々しい声が吐き出される。  
    『き、貴様……』  
     しばらくもだえるように立ち尽くした後、ジルベルの身体はがっくりと力なく地に落ちた。
     糸の切れた繰り人形のように。  
    「バカ!! エマリー。近づくんじゃねぇよ!」
    「でもぉ……!!」  
     駆け寄ろうとする少女の腰をひっつかみ、ダグレイはエルディンを見やる。
     成り行きを見守るしかできない──互いにそう頷きあい、いまだ引き下がろうとはしない魔獣たちの動きに全神経を研ぎ澄ます。
     二人の錬金術師の身を守ること。
     最初から果たすべきつとめを果たす以外に、彼らにできることは何一つなかったのだ。
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