** ある錬金術師の物語 **
  • 蒼の天蓋 11
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     灰色の海から波の壁が、幾重にも海岸線を打ちつける。その水の流れに乗って、もう何度目かの魔獣の群れが押し寄せてきた。
    「新手です。数、およそ二百!!」
     雨水が口に飛び込むにも構わず、ダグレイは声を張り上げた。
     辺りには舌打ちと歯噛み、そして、落胆の色が濃くなる。  
    「いつまで続くんだ……」  
     誰かの絶望的な呟きが魔獣のうなりの中に虚しく溶けて消えた。
     最初の剣閃が、降る雨と共に魔獣の首を吹き飛ばす。くすんだ赤の瞳を見開いたまま、うろこに包まれたつぶれた蛙のような顔が牙をむいて転がった。首を失った体が倒れる前に、ひるがえった同じ剣がさらに一匹の魔獣の身体を裂く。剣は勢いを殺すことなく、また次の敵へと向かう。
    「隊長……」
     無言のまま魔獣たちの前へ前へと身を投じるその姿に、同じ色の甲冑に身を包んだ騎士たちが剣を握り直す。
     長らく雨にうたれた身体は凍え、すっかり青ざめた顔にそれでもわずかに生気が戻った。前に進む意思と言ってもいい。
     騎士たちの前進に倣って、アズフェンの自警団や有志たちも力強く魔獣へと斬りかかっていった。
     だが。
    「負傷者は速やかに退がれ」
     今にも膝をつきそうな男の肩を抱え上げながら、エルディンは辺りを見回す。
     どれほど意気が高まったとて疲弊した身体が癒されるわけではなく、魔獣の猛攻にあわせて戦線を脱落する者の数が増えていく。
     海岸線での攻防はすでに一昼夜を越えていた。
     時を追うごとに薄くなる戦列。対する魔獣の数と力はより増していくというのに。
     一体、いつまで持ち堪えればいいのか?
     その答えが欲しいのはエルディンも同じだった。
     大小とりまぜて幾つもの戦場を経験してきた。
     あの敵を倒せば、あの城をおとせば……そう、いつもそこには終わりが見えていた。
     けれど、今手にすることのできる終わりは、守るべき者たちの生命の終焉だけ。
     退くわけにはいかない──。
     斬り伏せたばかりの魔獣の骸をエルディンの黒い瞳がじっと見据えた。
    「隊長」
     再び声をかけられたのは、大方の魔獣がようやく片付いた頃のことだ。
     鎧に付いた濁った緑色の魔獣の返り血を雨に清められながら、ダグレイがすぐ傍に立っていた。
    「どうした。また、新手か?」
    「いえ……その……」
     いつもとまるで変わらない落ち着いた低い声色に、怯んだ心を必死で励ましながらダグレイは改めて口を開いた。
    「隊長、少し休んでください。昨日からほとんど……」
    「今、私がここを離れれば士気が下がる」
    「しかし……!」
    「この間に少しは休める。お前もできる限り身体を休めておけ。まだ先は見えん」
    「では、せめて……」
     せめて雨の当たらないところで、そう言いかけてやめる。
     ダグレイの目に映るエルディンは、あまりにも静かだった。
     波の飛沫が荒々しく跳ね上がる海にまっすぐに視線を定め、土気色の顔にはどんな表情も表れていない。冷たい雨が長い黒髪を重く濡らし、肌の上をすべって伝い、再び雫と化して地に落ちていく。息を殺し、全ての神経が次の襲撃の気配を探っているようだ。空を割る稲妻の筋が、そんなエルディンを薄闇の中に白く浮かび上がらせる。間もなく響き渡った雷鳴にも、眉の一つさえ動かない。
     雨にも風にも魔獣にも、まっすぐに向かい立つ姿がそこに在る──。
     それだけで、ダグレイ自身、不思議なほど安堵感を抱いている。果ての見えない戦いの前で脆く崩れ落ちそうな弱い心を支えているのは、確かに、揺らぐ事のないエルディンの存在だった。
     ダグレイにはかける言葉もなく、まっすぐに立つ背中に一礼をして一歩後ろへと控える。
     冷たくなった唇を噛みながら喉の奥で祈った。なんとか、この戦いを無駄に終わらせないでくれ、と。
     激しい雨にうちすえられる戦場の外でも、多くの者たちが不眠不休で働いていた。
     次々と運び込まれる負傷者の治療に忙しい者。戦場に運ぶ物資の準備に追われる者。
     そしてここ海岸線から少し離れた一軒の家には、二人の錬金術師がいた。
    「うわぁ。綺麗ですねぇ」
     感嘆の吐息と共にエマリーが目を輝かせる。手の平の上では海の碧を宿した珠が虹色の光彩を放っていた。
    「ジルさん。これが 『水神の珠』 なんですね」
    「……の見てくれだけのまがい物。残念ながら、わたくしではリヴァイアサンを生み出すことはできませんもの」
     そう言って小さく肩をすくめるジルベルの周囲は、これ以上ないほどに散らかっている。大半は塗布剤や内服薬など様々な治療薬の元だが、時間ごとに量産される負傷者の数には追いつく間もない。
     そんな忙しさの最中、『水神の珠』の合成を提案したのはエマリーだった。
    「すり替える機会があればよいのですけれど……」
     ジルベルが小さくもらした声に、明るい声が答える。
    「最初に言ったじゃないですか。そんな機会があればいいな、って気休めですよ」
    「でも、そのせいでエマリーちゃんの睡眠時間がなくなってしまいましたのよ?」
    「……苦しい時に諦めないためには、ちょっとぐらいの無茶はするもんです」
     目の下に濃い影をつくり身奇麗にとりつくろってはいたが、エマリーは明らかに疲れて見えた。
     『水神の珠』を合成するジルベルに代わり、これまでずっとどちらかと言えば苦手な部類の薬品の調合を続けてきたのだ。それも、調合のミス一つ犯さず、予想に反する手際のよさで。
     いざという時に発揮される彼女の集中力と、土壇場に追い込まれてなお前向きなひたむきさには舌を巻く。
    「お疲れ様でしたわね、エマリーちゃん。少しお休みになったらいかが?」
    「ジルさんの方こそです。『水神の珠』の合成で疲れてるでしょう?」
    「わたくしならまだ平気ですわ」
    「わたしだって、まだまだです!」
     二人は顔を見合わせて苦笑する。
     治療薬は確かに必要だ……だが、それ以上に、何かをせずにはいられなかった。
     先が見えないという不安に打ち克つために。
     窓の外はまだ宵の口にも関わらず、重々しい暗闇が辺りを包んでいた。
     止む気配のない冷たい雨に濡れる幾つもの人影たちが、今朝から数えてもう何度目になるか分からぬ魔物からの襲撃に必死に持ちこたえている。
     遠い戦いの陰影にジルベルはきつく眉根を寄せる。
     たかが一冊の書を得るために街に魔物をけしかけるような、そんな相手だからこそ決してこの書を渡すべきではない。恐らく、書に記されたことを試そうとした時、人命を損なおうが、街が消えようが、何らためらわないことは間違いない。
     冷静にそう判断する一方で、アズフェンを放棄して全員を退避させるべきではないかとも思う。
     書を置いていけばさしあたって追いすがってくる理由もなくなり、態勢を整えて対応した方がいいのではないか、と。
     無論、そうしなかったのはジルベルの独断ではなく、エルディンらと話し合った上でのことではあるが。
     目の前で破壊されていくアズフェンの街なみと、記憶の中にある祖国の小さな町──古代の智慧と呼ばれる古い魔術の暴走によって崩れ果てた──とが交錯する。
     書に記された事柄を悪用するかもしれない……というのは、あくまでも仮定なのだから、直面している危機を回避することを優先した方が……。
     だが、ここで書を渡せば、次はどこで被害が起きるか予測できないし……。
     そもそもスリガンが来た時に大人しく渡していれば……。
     正解などない自問自答を繰り返し続けていたその時、不意に怪しい予感にも似た寒気がジルベルの背中を這いのぼる。
    「ジルさん、これっ!!」
     どうやら同じ悪寒に襲われたらしいエマリーの口から、悲鳴のような声が吐き出された。
     エマリーに向けては振り返らず、ジルベルは窓に張り付くようにして外に目を凝らす。
     ほんの今まで暗闇だった海岸に、薄雲に包まれた月明かりのようにぼんやりとした光の渦。それがかがり火ではない事を肌で感じとった二人の足は、一目散に表へと飛び出していった。
    「固まるな! 散開せよ!」
     エルディンの声はうち寄せる波の音にも負けず、海岸を埋める人々の間を通り抜けた。
     濡れて重い砂の上に刻々と領土を広げる光の前で、呆けていた男たちが慌てて距離をはかる。
     直後、エルディンには見覚えのある閃光が解き放たれ、逃れ損ねた幾人かの身体を突き抜け闇の中に消える。
     第二撃を避けながら騎士たちの視線は光の中心に釘付けとなった。黒く切り抜かれたようにくっきりとした人型の影。その頭部あたりから、第三撃が闇の奥へと走る。
    「お止めなさい。そんなに暴れずとも、わたくしならここにおりますわ」
     声の主の姿が夜目に白く際立つ。
     打つように激しい雨と風によろけながら光に向かって海岸を進むジルベルの行く手を、エルディンという名の壁が阻んだ。
    「退がれ、危険だ」
    「いいえ。今まで、この時を待っていたんですわ」
    「まだ敵の出方が分からん。しばらく待て」
    「ですけれど……」
     わずかに口にしようとしたジルベルの抵抗の言葉が、エルディンの鉄の仮面の前で無為と化す。
     男たちの息さえも殺した身構えに反して、次の攻撃は訪れる気配がない。どころか、広がっていた光の渦は急速に収束して消え、影だけが残った。
    「おや。これは呼び出す手間が省けたようですな」
     聞き覚えのある声と共に発せられた残念がるような嘲りの笑いが、ひどく耳に障る。
     眉尻を吊り上げながら目を細めたジルベルは、エルディンを押しのけスリガンの前へと進みでた。
    「黒いローブ姿だなんて悪党らしいご登場ですこと。よからぬ事をしているというご自覚だけはおありのようですわね」
    「何、人の世に忍ぶ身の象徴というだけですよ」
    「自力を放棄した横着な日陰者の象徴の間違いでございましょう」
    「横着とは心外ですな。より強い力を得るために自らの身を捧げたと……」
    「それにしては、お使い一つ満足に果たせなかったご様子でしたわね」
    「く……」
     険しい棘を含んだジルベルの言い放った言葉のつぶてはスリガンを直撃したらしい。
     かたく閉じられた両の拳。フードがつくる深い影の奥から、冷ややかな殺気がみなぎる。スリガンから青白いもやがたち昇り、人としての輪郭をけぶらせた。
    「目に見えるほどの魔力だなんて……」
     あまりにもあり得ない光景に唾を飲み下す。
     が、それこそがジルベルの望むものを目の前の老人が持っている証だった。
     『水神の珠』を──。
    「その果たせなかったお使いを、もう一度、果たしに来たのでしたよ」
     スリガンの右手が持ち上がるともやの一部が噴き出し、大粒の雨を微細な水の粒に断ち切りながらジルベルに到達し、白いローブを点々と赤く汚した。
    「さあ、渡してもらいましょうか、封印の書を。大人しくし渡して下されば、いつまでも痛い思いをしなくてすみましょう」
     再び右手がさし出される。今度は手の平を向けて。
     とっさに前へと飛び出したエルディンが向けた剣の鋭い切っ先に、スリガンの身体は二歩ほど後退る。
    「そのようなもので私をどうにかできるとお思いか?」
     嘲笑の色を見せるスリガンは、自身でも気づかぬほどに無意識に退いていたのだろう。
     戦い慣れぬ者、力を使い慣れぬ者であることを自ら露呈した、スリガンの前にジルベルは改めて進み出た。
     白い横顔を毅然と持ち上げ、臆するどころか退く意思も見えない。
    「あなたは確かに異様な力をお持ちのようですわね。でも、この街の安全を確認できなくては取引は成立しませんわ」
    「……封印の書を渡しなさい」
    「魔獣たちの襲撃を止められるという保証はございませんの?」
    「渡せっっ!!」
     怒号がそのまま魔力の塊となってジルベルを後方へと弾き飛ばす……も、ドンとぶつかって揺るぎもしない甲冑の腕の中に受け止められた。
    「無茶が過ぎるようならば、止める」
     背中を支えた力強い騎士の手が離れる間際、空耳かと疑うほどにかすかな低い呟き。
     ジルベルもまた、ごく小さく頷いて見せた。
    「そろそろ渡す気になりましたかな?」
    「あなたがこの事態の収拾ができることを確認できたなら、と申しましたわ」
    「強情な……。あなたに選択の余地があるとお思いか?」
     また、あの耳障りな嘲笑をもらすスリガン。
     ジルベルの隣りに一人の少女が並んだ瞬間、愉悦は最高潮に達した。
     小さな身体でかばうように、胸に抱いた黒い書。
     いよいよ観念したのだとでも思ったのだろうか。
     急いた心でスリガンが一歩を踏み出したところで、ジルベルが叫ぶ。
    「今すぐ魔獣たちを退けなさい。さもなくば、この書を手にすることはできませんわ」
    「何を世迷言を……」
     醜い哂いをやめようとしないスリガンの前で、すっと灰色の瞳がすがめられる。
    「封印を解いた今、これはただの脆い書。試してお見せしましょうか?」
    「な、何!?」
    「火で燃やすもよし、水に投じるもよし。女の手で破り千切ることだって容易いですわ。ご覧になりますか?」
    「ば、馬鹿な……よ、止せ!! 雨に濡らしてはならんっ!! 」
     小さく身動きしたエマリーの腕の間で雨にさらされた書に、スリガンが悲鳴にもにた奇声をあげ駆け寄ろうとする。
    「近づかないで!!」
     鋭い制止にぴたりとスリガンの足が踏みとどまる。
     その視線はエマリーの手にする書に一心に注がれ、狼狽しきりな様子にジルベルは内心で小さく吐息をつく。
     実際のところ、書を破棄してしまうと取引の材料がなくるわけで、遠慮なく街を蹂躙するぞと言われれば交渉は振り出しに戻るところだったのだが。
     しかし、スリガンは書を目にし、さらに畳み掛けられるように脅迫され冷静な思考を失くしたらしい。
     緊迫した空気に慣れていないことも見て取れるし、駆け引きにも慣れていないのかもしれない。
     いずれにせよ、敵はまんまと餌に食らいついたわけだ。
    「改めて取引をいたしましょう。あなたは停戦の証に『水神の珠』を、わたくしはこの書を……いかがです?」
     現在の空気を壊さぬよう、最大限の努力で表情を変えぬように静かに持ちかける。
    「『水神の珠』を渡すなど……できん……」
    「ならば、せめてあなたが現状を収められる証として、『水神の珠』をお持ちだということを確認させてくださいな」
    「どうせよと……?」
    「そこから見せて頂くだけでも結構ですわ」
     手元に自身の合成した『水神の珠』を隠し持ちながら、ジルベルはつとめて平静を保つ。
     すり替えとまでいかなくても良い。
     スリガンが実際に手にした時、一瞬の隙をつくることができれば、きっと……とジルベルは思わず目を瞬かせる。
     きっと、何とかしてくれるはずだ──そう考えてしまった自分自身に。
     背後で息をつめて剣を提げているその人が何とかしてくれると、どうして考えたのか。エルディンにはすり替えの一件など話してはいないというのに。
     スリガンを包みこむ魔力の薄れで、少しばかり逸れかけた思考が元に戻る。
     どうにか交渉に持ち込めたようだと安堵したのも束の間。
     突然、スリガンの身体がガタガタと震えだしたかと思えば、さながら蒸気のように魔力が吹き上がる。
     これまでとは比較にならないほどの魔力が解き放たれ、間もなく完全に老人の影を埋め尽くした。
     そうして、尋常ならざる魔力の濃霧の向こうに光輝が二つ。
     禍々しくも神々しい、そんな輝きに射すくめられて誰しもが身を震わせた。
     ただごと以上をもう十分に経験してきた、ジルベルでさえも……。
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