** ある錬金術師の物語 **
  • 蒼の天蓋 07
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     石畳に流れをつくる雨水をかきわけて、一台の馬車がアズフェンの街並みを走り抜ける。
     大量の水に車輪をとられ恐ろしく不安定に揺れる馬車の内部では、座席が跳ねるたびにジルベルとエマリーが沈黙を保ったまま視線だけを交し合う。どうにも馬車とは相性が悪いらしい、と。
     二人の脳裏に、今と劣らぬほどの速度で真っ暗な道を疾駆した夜がよみがえる。
     あの日は行く先に待ち受けるものの正体を、少なくともジルベルはよく知っていた。
     だが、今回は──。
     ジルベルは同じく馬車に乗り込んでいるエルディンの横顔をうかがい見る。
     さすがに悠長にどっかりと腰をおろしてはいないが、その黒い瞳はたちこめた暗い灰色の雲に閉ざされたアズフェンの街を見つめ続けていた。
     水の神殿から重い足取りで帰ったその翌朝──つまり今朝、まだ早朝と呼んでおかしくない刻限である今、この馬車に詰め込まれている原因。
     なかなか寝付けずにいたジルベルが、ようやく得たばかりのまどろみから叩き起こされて、だがすべての不服の言葉を飲み込んだのは、迎えに来たのが苦渋の色もあらわな守護騎士隊長……この人だったからだ。
     昨日の話を気にしているのだろう、頑として一緒に行くことを譲らなかったエマリーと共に馬車に乗り込むと、エルディンは迎えの理由を低い声色で告げた。
    「港からから出航して間もない船が大破沈没した。その数三隻。長期の外洋航海にも耐えうる大型船も含めてな。表向きは嵐にみまわれたものとして処理しておいた。が、実際は魔獣の仕業によるものだ」
    「何か……特別な魔獣でも?」
    「生存者はわずかだが、皆、特に目新しい魔獣の報告はない。……が、この辺りでは珍しくもない魔獣ならば確認された。その力が尋常ではなかったらしい」
     いつにも増して険しい表情のエルディンが、すっと馬車の小窓の向こうにある水浸しの景色に視線を移した。
    「ダグレイからの報告によれば、やはり大司教殿が意識不明に陥ってから魔獣による船舶被害が激増していることは確かなようだ。無論、昨日のリヴァイアサンの一件も無関係とは思えぬ」
    「ええ」
    「凶暴化した魔獣の襲撃範囲は急速に陸地へと近づいている。このまま時を置けば上陸の恐れもある。……そなたの事情を考慮する猶予はなくなった」
    「……分かります」
     伏し目がちにジルベルが頷き、そのまま会話が途切れて現在に至る。
     揺られ揺られて。立ち去る気配のない尚いっそうと黒々とした雨雲の下、街の中心地にその建物はあった。騎士団詰め所と言いながらも、普段ならばアズフェンの自警団員たちがのんびりと集うところだ。
     よほど待ちわびていたようで、激しい雨にも関わらず戻ってきた馬車をわざわざ出迎える者も一人や二人ではなく。
     彼らの顔はみな、焦燥と不安、そして、かすかな期待を抱えていた。
    「ジルさん、本当に……いいんですか?」
     エルディンが一人先に馬車を降りた後、エマリーは声をひそめて尋ねる。
     ジルベルの苦しい過去の一端に触れ、何より、封印が人の命を費やしたものだと知ってしまって、エマリーもまたその重さと意味とに逡巡を見せた。
    「た、例えば! 解封に失敗しました……とかじゃ、ダメですか?」
     いつになく瞳を曇らせながらそんな事を口にするエマリーに、ジルベルはふっと表情を和らげる。
     他人には無責任なように聞こえるその言葉が、誰よりも一途に身を……心を案じてくれているからだと痛いほどに分かった。
    「ありがとう、エマリーちゃん」
     泣き出しそうになりながら首を振るエマリーに、ジルベルは短く息を吐き出した。
     呼吸一つで憂いの表情を払拭し、理知の輝きを取り戻す。
    「過去を省みることは大事ですわ。でも、そのために今を見失ってはいけませんわね」
    「ジルさん……」
    「今、ここに失われるかもしれない多くの命があるのですもの。最大限の努力をすることは、今を生き、救える可能性のある人間の役目ですわ」
     すでにジルベルに迷いはなかった。
     もしも、この後に魔獣の襲撃を受けて、目の前の大事な優しい友人を失うようなことがあれば……きっと生涯自分を許すことはできないだろう。
     昨日の時点で解封して何らかの情報を得ていれば、失われずに済んだかもしれない命が現実にあるのだから。
    「覚悟は決めましたわ。でも、一つ心配なのですけれど……」
    「何がですか?」
    「中に何が記されているかが分からない事ですわ。最悪の場合、解封しても何の情報も得られない可能性もありますでしょう?」
    「確かに……」
    「ですからね、エマリーちゃんには神殿やこの街での伝承の再調査をお願いしたいんですわ」
     一瞬きょとんとしてしまったエマリーだが、慌てて頭をめぐらす。
    「えっと、水神の珠に関する文献を探してこい、ってことですか?」
    「水神の珠に限らず、ですわね。それと文献ではなくて、民話やおとぎ話といわれる様なもの、口伝、昔語り……そういうこの地方に伝わるお話を集めて欲しいんですの。出所不明でも、荒唐無稽でもかまいませんわ」
    「おとぎ話ですか?」
    「真実は意外とそういうものに隠されていることも多いんですわよ? 街の方々とお話をするのは、エマリーちゃんのお得意でしょう?」
    「う……それって、さりげなくおしゃべりだって言ってません?」
    「人づきあいも才能のうちですわよ。適材適所で時間を有効活用しませんとね」
     一度軽く頬を膨らませてみたものの、すぐにエマリーにはいつもの笑顔が浮かぶ。
     昨日からずっとふさぎこんでいたジルベルにもまた、いつものどこか謎めいて自信に満ちた笑みが戻ったことに安堵していた。
    「ジルさん、わたし……ジルさんのこと、すごいって思います。だからきっと、大丈夫ですよ」
     ひどく曖昧ではあったが、その言葉には励ましと温もりという確かな力強さがあった。
     ジルベルは改めてエマリーと、微笑みと頷きとを交わす。
     それが、お互いのできる事、なすべき事へと向かう分かれ道だった。


     建物の入り口で待ち受けていたエルディンに、エマリーとは別行動をとることを告げる。
     情報収集のため、街の者の協力を得るためにあまり大げさでなく、かつどこにでも出入りは許可されるような護衛を──要するにダグレイをつけてやって欲しいと付け加えると、ごくわずかに目を細めたが、
    「分かった」
     吐息まじりに聞こえなくもない短さで許可が下りる。
    「そなたの方の要望は?」
    「解封の方法を他の誰にも知られないこと、ですわ」
    「残念だが、それは無理だ。後日、問題があった時に身の証をたてねばなるまい」
    「ですが……」
    「私が立会う」
     それ以上の問答は無用とばかりに、エルディンは建物の奥へと身をひるがえす。
     いつものように慌てて追いかけ、その背中に問いかけた。
    「エルディン様は魔導の心得をお持ちでしたの?」
    「ない」
    「でしたら、立会いなんて……できますの?」
     急く足をゆるめたエルディンの傍らに、ジルベルが並ぶ。
     その白皙の横顔を、黒い瞳の横目に映したエルディンは細い吐息をついた。
    「魔導師に立ち会われては困るのではないのか?」
    「そうではございますけれど……」
    「どの道、そなたのやり方が本当に正しいかどうかなど、我が部下の魔道師らに判別はつかぬ。確認できる程度にでもかの封印について解明できるなら、もとより彼らに解封をさせている」
    「……」
    「要するにこの立会いは、何か事が起きた場合の責任の所在を明らかにするだけのことだ。封印に関する全てについて他言しないことを誓おう、私の名にかけて」  
     何一つ揺るぎのないエルディンの前で、ジルベルは大きくため息をついた。  
    「……承知しましたわ。では、どこか暗室をご用意下さいませ。後は大きめの机を一つ」
    「地下でも構わぬか? 下り階段の前に見張りを立て一切の立ち入りを禁じよう」
    「お願いいたします」
     頷いたエルディンは間もなく小さな一室にジルベルを置いて去った。
     一人きりで過ごす時間は小刻みに心を波打たせ、椅子に腰掛けながらも意識はふわふわと留めようもなく漂っている。
     瞳に映る窓の向こうは相変わらず降り止まぬ雨に重く濡れ、街並みはさらに暗くけぶっていた。  
    「因果は巡る……か……」
     窓を打ちつける激しすぎる雨音に呟きが紛れ込む。
     交錯する時間。
     故郷から遠く離れ、置き去りにしてきたはずの過去と、今また、この違う場所で巡りあわせる。
     このアズフェンという街に来たのは、ほんの偶然にすぎない。
     たまたま、休暇と称してやってきただけ……それも、たまたま、友人が選んだ場所。
     ほんの少し歯車が違っていれば、すれちがっていたかもしれない事象。
     昨日あの神殿に行かなければ、エルディンらと遭遇することもなく、禁書に関わることもなかっただろう。
     エマリーが休暇を過ごすのに違う土地を選んでいたら。
     そもそも休暇をとらなければ。
     休暇をとるような原因になること──グリフォンの一件など見ないふりをしていれば。
     この国に長く滞在しなければ……。
     そんな数多くの”もしも”の先で、こうしてめぐり合わせてしまったのだ。
     だが、不思議と選び違えたとは思わない。
    「……用意は整った。そちらはよいか?」  
     足音を高くたてて現れたエルディンにジルベルが微笑で頷く。
     先ほどまでの陰りはすっかり拭いさられた笑みに、エルディンはほんの少しだけ吐息をついた。
     エルディンに促され歩き出しながら、ジルベルもまた細く息を吐き出す。
     あまりに多くのものを失ったから、もはや、失うもののない強さをしか手に入れられないと思っていたのに。
     今の自分はまた、失いたくないものを手に入れてしまった。
     これが強さとするのか、弱さとなるのか。
     今はまだ……失うその日まで、あるいは失わずに済んだその日まで、きっと答えは見出せないだろう、と。
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