** ある錬金術師の物語 **
  • 蒼の天蓋 04
  • [目次] [前頁] [次頁]

     ジルベルの目覚めを出迎えたのは、賑やかな雨だれの音だった。
     ごそごそと起き出すと窓にかけたカーテンをそっと開けてみる。昨日の快晴が嘘のように、アズフェンの街は灰色に閉ざされていた。
     少しばかりの憂鬱を抱きつつ、ベッドへ戻りかけてふと気づく。すでに昼に近い刻限であるということを。
     慌てて簡単に身支度を整え部屋の扉に手をかけた時、同じ音をごく近くで聞いた。  
    「おはようございます、お嬢さん方。ゆっくりお休みになれました?」  
     とっくにおはようの時間は過ぎていたが、ライラは気にしている様子もない。
     調理場から顔をのぞかせた老婦人の優しすぎる微笑みに、ジルベルとエマリーは少々気恥ずかしく席についた。  
    「おはようございます、ライラさん。久しぶりにいっぱい眠れました」
    「十分すぎますわ。まあ、なんて美味しそうなんでしょう」  
     テーブルの上には朝食とも昼食ともつかぬ沢山の料理が並べられていた。  
    「長旅で疲れてたのね。さあさ、元気を取り戻すためにも沢山召し上がれ」  
     二人ともにライラの言葉と空腹の欲求とに素直に従った。
     切り分けられた果物が放つみずみずしい香り。あからさまに食欲を刺激する焼けたパンの香ばしい匂い。ずっと火を入れながら待っていてくれたのだろう、温かなスープもすぐに配膳された。
     温かいものは温かく、冷たいものは冷たく。きっちりと手はずを整えられた食卓に、しばし無言とせわしげな食器の音が響いていた。
     ジルベルとエマリーの食べっぷりを満足げに眺めていたライラが、ふと笑顔を曇らせる。  
    「今日はあいにくの雨で残念ねぇ。本当に最近はこんな事が多くって」  
     言いながら婦人の手は食事を締めくくるカップをさし出す。
     南国の花の香りのするお茶を受け取りながら、ジルベルが怪訝な表情を浮かべた。  
    「こんな事と仰いますのは何でございますの?」
    「急に雨が降ったり嵐になったり……。この時期はほとんど雨なんて降らないはずなのに、今年はどうしたのかしらねぇ」  
     ライラの大きなため息に、ジルベルとエマリーは顔を見合わせた。  
    「あら、いやだ。またお客さんにこんな話。ごめんなさいねぇ」  
     テキパキと後片付けを始めた後ろ姿に、やはりもう何も問いかけることはできなかった。
     にこやかに食事の礼をのべると、二人はそろってジルベルの部屋へと引きあげる。  
    「ジルさん、今日はどうします?」
    「それ程ひどい雨でもないようですし、普通に観光でもいたしましょう。どうせ宿にいてもあれこれ考えてしまうだけですし」
    「観光というと、市場とか港とか……?」  
     エマリーがアズフェンのいくつかの観光名所を、指折り数える。  
    「水の大神殿に行ってみませんこと?」
    「ちょっと遠くないですか? 雨降りだし……」
    「行くのが億劫なところほど先に行っておかないと、結局行かないことになったりしますもの」
    「それもそうですねぇ」  
     あまり雨がひどくなるようならば引き返すことにして、二人はにっこりと笑顔をかわす。
     満腹を抱えたジルベルとエマリーが、いそいそと出かけたのは間もなく後のことである。
     それからあちこち寄り道をして、ようやく断崖にそびえたつその建物を見上げたのはもう夕暮れ間近で、いつしか雨も止んでいた。
     両手には途中寄ってきた店々の戦利品を抱えながら、気がつけば口をあけてしばし棒立ちになっている。
     それは大きく荘厳で、限りなくみずぼらしい神殿。時代がかって大仰なわりに手入れが行き届いていないのか、荒んだ感じが漂っている。現役の神殿としてこの有様はいかがなものかと、門外漢の二人でさえも呆気にとられたのだ。  
    「ジルさん、ここの中も見学します?」
    「そ、そうですわね……どうしましょうか……」  
     傾げようとしたジルベルの首筋を、突然、灼熱の点が貫通した。
     かすかな短い悲鳴をが口からこぼれ、体がビクンと跳ねる。  
    「ジルさん!?」  
     エマリーがジルベルに駆け寄った。だが、瞳孔の開ききったままのジルベルをどうすることもできず、ただ見つめることしかできなかった。
     いや、立ち尽くしていたのはジルベルのせいだけではない。
     真っ赤に彩られた自分の胸元に息を呑む。 『 ヴィネの眼 』 の放つ光だ。鮮やかすぎる赤が目に痛い。  
    「な、これ、ど、ど、ど……」  
     あらゆる思考が停止し、あてもなくジタバタと手足を動かすエマリーの肩が強い力で押さえ込まれた。  
    「落ち着け、エマリー」
    「だって、ダグ。これ、赤くて、ジルさんで……えっ? ダグ?」
    「ああ、俺だよ。いいから深呼吸して、ほら」
    「う、う……ん」  
     深呼吸をくり返すうち、まるで呼応するかのように 『 ヴィネの眼 』 もその光を弱めていく。  
    『 わ……がきみ……わが……はん……し…… 』   
     およそジルベルの声とは似ても似つかない、深く重い響きが確かにその紅色の唇からこぼれた。
     言い終わると同時に支えを失ったかのように、その身体が崩れ落ちる。前のめりに地面に直撃する寸前、フワリと止まった。  
    「一体、何事だ」  
     聞き覚えのある低く鋭い声に、エマリーはおそるおそる見上げた。
     無論、この威圧感はエルディン隊長その人だ。片腕でやすやすとジルベルの身体を抱え、一方ではすでに剣の柄を握っている。  
    「エ、エルディン様? ええっ! ダグ、何? どういうことなの?」
    「落ち着けって、エマリー。後で説明するから」  
     あるべきはずのない顔に遭遇したことが再び思考の暴走を起こし始めた恋人を、ダグレイは自分の方へ向き直らせた。
     エルディンの目だけが素早くエマリーの胸元へと動く。もはやそこには赤光はなく、無色透明の首飾りに過ぎなかった。
     ひとまず安堵の息をつく。  
    「説明は中で」
    「は」
     ダグレイを促して神殿の中に入るため抱えなおそうとしたエルディンの腕の中で、ジルベルの身体に意識の覚醒に伴う緊張が戻ってきた。  
    「気が付いたか?」
    「……」  
     薄灰色の瞳はまだ焦点が定まらない。
     エルディンは自分の腕にぶらさがるような、すがるような状態のジルベルをゆっくりと地面に座らせる。  
    「分かるか?」
    「……?」
    「まだ大丈夫ではなさそうだな」  
     ジルベルの朦朧とした様子に、エルディンは眉根を寄せた。
     断崖をかけのぼった潮風が、じっと動かぬままの四つの人影に吹きつける。
     ふと垂れこめていた暗い雲が途切れ、雲間から光がジルベルの目を刺した。無表情だった顔に驚きの色が浮かぶ。  
    「エルディン……様?」
    「正気に戻ったか。何が起きたか覚えているか?」
    「え、ええ、大体は。それより、一体どうしてこんな所で……?」
    「重要機密だ。が、場合によっては力を借りることになるかもしれん」  
     エルディンはもうしゃんと背筋を伸ばして居心地の悪そうなジルベルから手を引いた。  
    「あの、それってさっきの赤い光と関係あることですか?」  
     様子をうかがっていたエマリーが口をはさんだ。
     ダグレイが無言で頷き、エルディンは鋭い視線をジルベルに向ける。  
    「まずは何事が起きたか話してもらおう」  
     抑制された響きは相変わらず断固として逆らうことや反問を許さない。
     小さく振ってすっきりした頭で、ジルベルははっきりと口を開く。  
    「 『 レヴィアタン 』 ですわ」
    「………レヴィ……アタン?」  
     三人が耳慣れぬ言葉をオウム返しに唱えたきり黙りこむ。
     あごに指先をあて小首をすくめたジルベルが、ふっと微笑んだ。  
    「こちらではなんと言いましたかしら。そう……確か……。そうそう、 『 リヴァイアサン 』 でしたかしら」
    「リ……」
    「リヴァ……」
    「……」  
     エマリーとダグレイが言葉を失い、元々無口なエルディンはさらにきつく唇を引き結ぶ。
     
     ──リヴァイアサン──
     古の彼方。最も古い伝承の中から存在する幻の中の幻。
     その背には世界をおっていると言い伝えられるほどに巨大。あらゆる獣の中で最も強いものに属す。そして、何者にも支配されぬ気高き獣。
     遠い遠い伝説の中に棲まう幻獣が、またしても四人の前に現れたのだった。
    [目次] [前頁] [次頁]