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潮の香りと湿り気の高い空気。そして、南の地方特有の暑気がジルベルを包み込んだ。 馬車から荷物を降ろすのも忘れ思わず辺りを見まわす。 色とりどりの髪、肌、瞳。それぞれに特徴のある服装や装飾が目を引いた。ここアズフェンが港街であり、またちょっとした観光地であるゆえんだろう。ルイーダに比べもっと雑然として、カラリとした陽気さが漂っている。 御者の咳払いにようやく我に返る。同じように辺りに目を奪われていたエマリーと苦笑を交わし、慌てて荷を下ろす。 馬車は忙しそうに走り去っていった。 「いよいよ着きましたね、ジルさん」 「ええ、長かったですわ」 「馬車で十日ですもんね。座りっぱなしで腰が痛くなっちゃいました」 「でも、来た甲斐がありましたわ。本当に……」 「ですね!」 ジルベルとエマリーの瞳が生き生きと出会う。見知らぬ街並みに新しい何かを期待して。 あれこれともの珍しげに見渡しては声をあげながら二人はカバンを両手に下げ、逗留の宿へと歩きだした。荷物は重いが足どりは軽い。 滞在予定は一ヶ月と、なかなかに大掛かりな旅行だ。 持ちきれない荷物は予め送っておいたので、すでに先に宿に到着しているだろう。 喧騒と活気が渦を巻く市を通り抜け、その間に増えた荷物も満載にようやく宿にたどり着く。 宿と呼ぶにはいささか小さいそこは、いわば貸し別荘だ。食事や身のまわりの世話をしてくれる管理人が通ってくるだけで、自分達以外の客はいない。 「やあ、いらっしゃい。ジルベルさんとエマリーさんかな?」 「まぁ、ようこそ。冷えた果物はいかが? それとも少し早いお夕飯にしましょうか?」 扉の向こうには人の良さそうな老年夫妻の笑顔。 温かな出迎えに疲れも忘れジルベルとエマリーも顔をほころばせる。アズフェン滞在はまずまずの滑り出しのようだ。 「初めまして。わたくしがジルベルですわ。それからこちらが……」 「こんにちは。エマリーです。よろしくお願いします」 二人はあくまでも愛想よく機嫌よく挨拶をかわす。宿主の夫婦もすっかり安心した笑顔を見せた。 「馬車のおかげで危険が減ったとはいえ、女性二人の旅連れと聞いておったからどんな人が来るのかと思いきや」 「ええ、あなた。なんだか嫁いだ娘たちが、帰って来たような気分ですわ」 優しげな老婦人は心底嬉しそうだった。 ジルベルもエマリーも大きな街で一人で暮らす身だ。くすぐったいようなその温かな空気に微笑せずにはいられなかった。 「あら、いけない。あたしはライラ。お食事の用意やお掃除をしに来ますからね」 「わしはハリクじゃ。普段は漁をしておってな。娘さんの宿じゃから顔を出すこともそうはなかろうが、まあ、よろしく頼むよ」 現役の漁師らしく老齢のわりに逞しい体でハリクが客人のカバンに手を伸ばするのを、エマリーは慌てて笑顔で止める。 「あ、ハリクさん、自分で持てますよ」 「そうかね? では、こちらの買い物袋だけは持ってやろう。そうそう、先に届いておった荷物は部屋の方へ運んでおいたよ。さあ、こっちだ」 「ありがとうございます。わたくし達、大荷物で大変でございましたでしょう?」 「なに、大したことはなかったが。何やらガチャガチャと変わった音がしておったな」 共同スペースである台所と居間のある一階から個室のある二階へと移動する途中の階段で、ジルベルの問いかけにハリクが小さく首をひねる。 「ハリクさん。わたし達、錬金術師なんですよ」 エマリーの言葉に先導の老人がふり返った。 「ほう? 変わった……ああ、いや。その、薬やなんかを作る人かね?」 「ええ。アズフェンに参りましたのも、色々な材料を集めるためですの。ですから、変わったモノを持ちこむこともあるかと思いますの」 「ふむ。まあ、汚したり壊したりしない分には何も言わんがね」 「もちろん、承知しておりますわ」 いかにも心得ていると言わんばかりのジルベルの微笑みに、老人も笑顔で応える。 幸い老人には読心術はなく、またジルベルも微笑で心の内を隠すことはすっかり得意になっていた。 自分はともかく、もう一人の錬金術師の合成にジルベルは若干の不安を抱いている。 エマリーの合成の際にはできるだけ立ち会おうしかない、と覚悟しつつ階段を昇る。今のところ彼女の家が吹っ飛んだという話はないので、命の危険までは多分ないだろうと自分自身を納得させていた。 当のエマリーはといえば、開け放たれた一室の窓を全開にして歓声をあげていた。 「うわぁ。ジルさん、ほら、海ですよ!」 「本当に……素晴らしい眺めですわね」 窓辺に立てば、眼下には低い町並みの向こうで夕映えの海がきらめいている。 赤と青、昼と夜。黄昏の複雑な色のからみ合いに、一瞬、言葉を失っていた。 「じゃあ、わしはこれで。何かあれば婆さんに言って下さいよ」 いかにも満足げな客の様子に、ハリクもまた大いに気をよくしそっと階下へと降りていった。 老婦人はすでにこの逗留客を気に入った様子である。夕飯の支度に鼻歌が混じっていた。 陽気で礼儀も正しいし、二人揃って別嬪でおまけに金払いもいい。大した上客じゃないかと妻に言い残し、夫もまた笑顔で自宅へと戻った。 さて、北国育ちのジルベルは、少しでもと涼気を求め東の部屋を陣取った。残った海の望める南の部屋をエマリーが占拠する。 二人は荷物を仕分け仮住まいを整え始めた。夜半までかかったのは、ついつい弾むおしゃべりと長引く休憩のせいだろう。 途中、アズフェン名物の新鮮な海鮮料理に舌鼓をうつことも忘れない。ライラは実に腕のよい料理人だった。 「あー、幸せ! これから毎日、こんな美味しいご飯がたべれるなんて。ね、そう思いますよね、ジルさん?」 「ええ、本当に」 二人は話しながらもせっせと手を休めない。 決して食事を疎かにするつもりはないのだが、普段の二人は合成に没頭したり、その分長々と眠り込んだりと不規則になることが多い。時間的にも内容的にも。 たまには二人で約束して店に食べに行くということもあったりするが、基本的には適当なもので済ませてしまったりもする。 質量ともに豊かな料理の数々に、この宿を選んで良かったと心の底から自賛してしまう。 「こんな田舎料理でそんなに喜んで頂けて良かったわ。でもねぇ……」 二人がぺろりと平らげた料理の皿を片付けまた新たな皿を出しながら、ふとライラの表情が陰る。 ジルベルの手が止まった。 「何か心配ごとでもおありなのでしょうか?」 「いえね、最近ちょっと海がおかしくてねぇ……」 「海が? おかしいと仰られると何か厄介な事でもおきていまして?」 「あらあら、ごめんなさい。大したことじゃないのよ。その……ちょっと魚の獲れる量が減っているっていうだけ。でも、ここのお食事の分はちゃんと主人が獲ってきますからね」 安心してねと老婦人は優しく微笑み、それ以上の追及をやんわりと阻む。また、和やかな夕食のムードに飲み込まれていった。 ささやかな謎を残した食事から引き上げ、しばらくが経った頃、 「ジルさん、いいですか?」 各々の部屋の片付けに専念していたところへ、エマリーがジルベルの部屋の扉を叩く。その手には昼間に市場で仕入れたらしいお菓子の袋が握られていた。どうやら、お茶のお誘いのようだ。もちろん、お茶はジルベルが遠路はるばる持参したもの。 まもなく、どこにいても変わらぬ様子で二人はお茶をすすり始める。 「海がおかしいって、なんでしょうねぇ」 ひと心地つくとエマリーは真っ先にそう切り出した。表情には勘ぐり過ぎだろうかという色合いが見える。 「何か気になる事でも?」 「何ていうか……なんとなく胸騒ぎがするというか……」 「勘ですわね」 そう言われてしまうと身も蓋もないような気がして、エマリーは赤面して苦笑をもらした。 「グリフォンの一件があったばかりだから、ついここでも何かあったんじゃないかって思っちゃって。過敏になり過ぎてますね、わたし」 「 『 ヴィネの眼 』 には何か反応はありませんの?」 「あ、そういえば!」 言われて、エマリーは自分の胸に光る首飾りを握った。眼を閉じ呼吸を整え、透明な石へと意識を集中する。 再び手の平を開いてもやはり石は澄みきったままで、少なくともこの近辺では特に危ぶまれるような魔のものはいないということだ。 「特に変わりないみたいです」 「そうですわね」 それでもまだどこか不安げな面持ちのエマリーに、ジルベルはニッコリと微笑んだ。 「勘に頼ることが間違いだなんて言ってませんのよ? ただ闇雲に不安がっているだけでは、何も見えてはこないというだけで」 「ジルさん?」 「気づかなかったフリなんてせずに、気になるならちゃんと調べてみればよろしいのよ。もしくは、どうしても不安がお嫌なら街を出るという手もありますけれど?」 「そんなのもっと嫌です!」 「でしたら、明日からは忙しいですわね。散歩に行って、市場をのぞいて。街の方に話を聞いて……それにこの辺りの詳しい地図も買いませんとね」 「……なんだか楽しみになってきました」 今しょげていたエマリーの顔がバッと明るく輝く。 「考えるのはそれからにしましょう。なんと言っても、わたくし達は来たばかりのお客さんですもの。まだ何かの判断をするには情報が少なすぎますわ」 「そうですね。でも、何だか今までになくそわそわしちゃって……」 「わたくしの目下の心配はエマリーちゃんなのですけれどね。何かを合成する際には一言仰ってくださいね、この辺りの皆様に避難していただかないといけませんから」 「もう、ひどい!!」 「そのぐらい元気があれば、明日からを十分楽しめそうですわね」 二人の笑い声が部屋中にころがる。 しばらく他愛のない話をかわし、いつもどおりに戻ったエマリーは自分の部屋に引きあげていった。 「……胸騒ぎ、ね。エマリーちゃんもずいぶんと感覚が鋭くなってきたみたい。グリフォンの一件以来……かしら」 カップを片付けながらジルベルがこぼした独り言。 勘と口にした時エマリーは顔を赤らめていたが、ジルベルとしては当てずっぽうだと言ったつもりはない。 自分自身でさえ知覚し得ない何かを、感覚的に体がとらえているなどという事はざらにある。 そう、ジルベルもまた形にならない何かを感じていたのだ。それはあまりにも頼りなく、正体を掴むことはできなかった。 まぶたを伏せ、辺りの気配に精神を澄ましてみる。 どこまでも穏やかで、そう、風一つない海のような静けさ──やはり心にわだかまる何かが、何であるのかを掴むことはできなかった。 ジルベルは自身がエマリーに言った言葉を思い出し、苦笑を浮かべる。 今はまだ何かの正体を判断することもできない。唯一できるのは、ここに残るのか、去るかの選択だけだ。 若干ちらかったままではあったが、ジルベルは部屋の灯りをおとし寝台にもぐりこむ。旅の疲れの溜まった体は、十分な眠りを必要としていた。 全ては明日から。ジルベルは夢と現のはざまで呟く。 こうして、アズフェンの最初の一日は過ぎていった。 錬金術師たちの胸に奇妙な陰をおとして……。 | |
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