** ある錬金術師の物語 **
  • 緋の華 12
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    「終わり……ましたわね」  
     ジルベルは掠れた喉の奥から声を絞りだした。いつにも増して血の気のない白い顔は、それでも、かすかに笑っているように見える。  
    「終わ……た……?」  
     エマリーの膝がカクンと折れた。  
    「いって……ぇ」  
     ダグレイもうめく。
     傷と痛みと疲労とがまだ醒めやらぬ紅い幻想から、四人を現実へと引き戻していく。
     全員、もはやどこが痛いのか分からなかった。身体の節々から鈍痛や激痛がこみ上げてくる。  
    「動けるか、ダグレイ?」  
     足をひきずるようにしてエルディンがゆっくりと近寄った。もう炎の痕跡もないただ剣の柄をまだ握りしめたままだ。  
    「あちこち痛いけど、まあ、なんとかです」  
     ダグレイは笑おうとして失敗し、立ちあがろうとする膝は震えている。  
    「ダグレイさん。これ、使って下さいな」  
     ジルベルの手から小さな布袋が音をたてて落ちた。伸ばした指先が震え拾えそうにない。  
    「わたし、とりましょうか?」
    「ありがとう、エマリーちゃん。身体が言う事をきいてくれないんですわ」
    「仕方ないですよ、あんなに魔力を使ったんじゃ。あれ? あれ、れ?」  
     立ち上がろうとしたエマリーの足もまた震え、膝を伸ばすことすらもできずに崩れた。一瞬、何が起こったのか分からず瞬きを繰り返す。  
    「石に魔力を注ぎきったんですわね。でなければあんな短時間でグリフォンを押さえ込むほどの威力は考えられませんもの。」  
     血と泥に汚れてところどころ束になった長い黒い髪が、苦笑するジルベルの目の前に広がる。擦り切れて真っ赤になった手の平が落ちた布袋を拾い上げていた。  
    「無事か?」  
     片膝をついたエルディンがジルベルの顔を覗きこむ。
     全身に激戦の痕も生々しく、到底、他人を気づかっている場合ではない。にもかかわらず、エルディンはわずかな弱みすらも浮かべてはいなかった。
     ジルベルも負けじと青白い顔にぎこちない微笑みを張りつける。  
    「ええ、大丈夫ですわ。二、三日も休めば回復しますから」
    「そうか」
    「そちらの緑の壜が傷薬、白い方が打撲用の塗薬。赤い包みは疲労回復ですわ」  
     エルディンは薬を取り出して、一つ一つ確認しては頷く。  
    「とても足りないとは思いますけれど、どうぞお使いになって下さい」
    「ありがたく使わせてもらう」  
     薬の量は確かにとてもとても足りなかった。だが、早急に回復せねばならない理由がある。例え、わずかであっても。
     深い闇に閉ざされた夜の森にいるという現状。
     グリフォンは去ったとしても、危険そのものは相変わらずここにある。もし、ここに元々森に住まう魔獣が現れたら……。
     託された薬を手に立ち上がると、自分自身とダグレイに手際良く治療を施した。  
    「どうだ、動けそうか?」
    「大丈夫です。さっきまでに比べりゃ屁でもないですよ」
    「では、そちらは頼む」  
     エルディンの視線の先にエマリーがいた。
     ダグレイはゆっくりと頷き、土に汚れた膝を軽く払って立ち上がった。
     エルディンもまだどこかに痛みを抱えているらしい。いつもより緩やかに踵を返し、再びジルベルの傍らに屈み込んだ。  
    「もう少し回復するまで休ませてやりたいが、少しでも早く森を抜けたい」
    「魔獣や魔族がうろつき始めたりしたら、厄介ですもの」  
     今はもうろくな戦力を持たない四人である。襲われればひとたまりもないだろう。
     立ち上がる気力を奮い起こそうと、大きく深呼吸したジルベルの身体がフワっと宙に浮いた。  
    「エ、エルディン様!?」
    「歩くどころか、立てもしないのであろう」
    「え、いえ。そんなことは。あの、でも……」
    「つまらぬ言い合いに費やす時間はない」  
     抵抗をみせる口先も、エルディンは難しい顔ひとつでぴしゃりと黙らせる。すでに限界に達しもがくことすら出来ないくせに、と。
     一方、エマリーも抗議の声をあげていた。  
    「ジルさんはお姫さま抱っこなのに……」
    「るせぇな、俺は腕が痛くて力が入らねぇの。なんなら肩に担ぐぞ?」
    「ひどーーい!!」
    「ああ、うるさいっ!」  
     おぶった背から聞こえるエマリーの呟きに、ダグレイは目いっぱい応戦していた。  
    「もう、行けそうか?」
    「もちろんですよ。とっとと帰りましょう、隊長」  
     無残に切り開かれた森をもう一度見やり、四人は街への道を戻り始めた。  
     月が中空に昇った頃ですかしら……。
     ぼんやりと腕に揺られながら、ジルベルは上空を見ていた。もっとも、折り重なる黒い枝に遮られ、空は見えない。  
    「いま魔獣がでてきたら、俺の剣一本か……」  
     それぞれが思いにふける無言の帰り道、ダグレイがポツリと呟く。  
    「動ける方が戦って追い散らすしかあるまい」
    「群れにだけは遭わないことを祈るしかないですね」  
     騎士達のまじめな会話にエマリーが割り込んだ。  
    「そういえば、爆弾まだ残ってるよ、ダグ」
    「じゃあ、それで逃げる時間ぐらいは稼げるな。……だ、そうです、隊長」
    「そうか」  
     エルディンが頷くのを見て、ジルベルが深く深くため息をつく。  
    「あまりお勧めはいたしませんわ。下手をすると森ごと丸焼けかもしれませんから」  
     ダグレイもジルベルに倣って、大きく息を吐いた。そして、叫ぶ。  
    「エマリー、俺達を殺す気か?」
    「だってぇ、ジルさんが一番強力な爆弾って言ったから、この前のを改良したばっかりのを。まだ試作だもん」
    「試してもないもんを、いきなり使わせるんじゃねぇ!!」  
     背中の上で口をとがらせるエマリーを、斜めに見上げてダグレイが睨む。
     先をいく二人はますます元気に夫婦漫才を始めていた。  
    「ご苦労であったな。随分と無理をさせたようだ」  
     あまりにも唐突に、しかもそれが思いがけず労いの言葉であったことに、ジルベルは言葉を失う。まじまじとエルディンの顔を見上げた。  
    「いえ、まあ……。それより前からお聞きしたかったんですけれど。わたくしの為す事、申す事を、どうして信じたのです?」  
     ジルベルが苦痛に顔をゆがめる。つい、いつもの考え込む時の癖で、手を顎にまで持ち上げようとしてしまったらしい。たいした裂傷を負ったわけではないが、全身の骨と肉とが些細な動きに軋みをあげていた。  
    「わたくしが嘘をついたり、間違いを犯しているとは、お疑いになりませんでしたの?」
    「わざわざ苦労するために嘘ををつくのか? 確証のないことを口にする人間にも見えん。だからこそ、我々があのグリフォンを目にするまで何も言わなかったのであろう?」
    「もし、例えば、わたくしがスーニエルの間者だったら……」
    「疑われたいのでなければ、望まぬことは口にはしないことだ」  
     エルディンの言葉は静かで、だが、いつもよりどこか柔らかく響いた。ふと、その黒い瞳にいくつもの小さな灯りがひらめく。  
    「あれは……」
    「あ! 他の騎士さんたちだ!」  
     先を歩くダグレイとエマリーが歓声をあげた。  
    「隊長」
    「ああ。ここで待つことにするか」  
     二人の騎士の会話を耳にしながら、ジルベルには急速に睡魔が忍び寄る。
     薄れ行く意識の中、薄い紫がかったボサボサの髪と薄汚れた黒衣の、痩せこけた中年男の顔があった。笑っていた。もう二度と見ることはできない、懐かしい笑顔。最北の国の墓地の片隅、葬るべき身体も魂もないままにその人の寝床は今もあるはずだ。
     泣き疲れて眠った幼い日、暖かいベッドに運んでくれた彼の人はもういない。
     あの暗黒のグリフォンは、彼が最期の最期まで案じていた、ただ一つの悔恨。すまないと何度も何度も繰り返しながら、逝った。
     贖いのために自ら命を差し出したその人に、ジルベルは誓いをたてた。いつか必ず片をつけてみせるからと。  
     故郷を捨てた以上、もう約束は果たせないだろうと思っていた。
     それなのに……。
     これこそ、運命、めぐりあわせというものなのだろうか。
     いく年もの月日を経てようやく果たした遠い約束に、目を閉じる。どれほど思いが胸をしめつけても、もはや枯れ果てた涙はこぼれはしなかった。
     ただ、肉体はおろか魂までをも、贖罪に捧げた人のために祈る。  
    「安らかに。せめて思いだけは……」  
     吐息のようにかすかな声だけを残し、ジルベルは深い眠りの海を漂い始める。父と慕い、師と敬い、仲間として競い合った今は亡き男の幻影が、よく知った優しい笑顔で久々の眠りを見守ってくれる気がした。
     閉じたまぶたに一瞬慌てたものの、やがて聞こえ始めた規則正しい寝息にエルディンはホッと表情を緩める。 
     と、同時に、どうしたものか、と再び眉根にしわを刻む。
     訊ねたいことは山とある。
     スーニエルにいたはずの魔獣が、なぜフィールデンに現れたのか。一体、誰がなんのために、どうやって。何よりも果たしてこれで終わったのだろうか? と。
     エルディンは背にした戦場を振り返ろうとして止めた。
     ともかくも今日は終わったのだ。今はこの眠りを妨げはするまい。
     エルディンは、一歩一歩、ゆるやかに歩む。
     腕の揺りかごに揺られて眠る女の穏やかな表情に、静かにごくかすかな微笑をこぼした。  
    「おい、隊長……笑ってたか?」
    「いや、まさか」  
     グリフォンと対峙した時とはまた違った意味で怯えた表情を浮かべた騎士たちの間を、エルディンがすり抜ける。鋭い視線を投げつけられたのは、決して気のせいではなかっただろう。
     明るい表情を見せながらもかたく沈黙を守る一団は、まもなくルイーダの門をくぐる。真っ白な月光に守られた、安らぎの街、帰るべき場所に。


     ──同じ刻、同じ大地の上──
     とある街の片隅の込み合った酒場では、男が一人、暗い笑みを浮かべていた。
    「素晴らしい。おまえが欲しがるのも無理はない……」  
     口の中だけで小さく呟きながら、その瞳は確かに狂喜に輝いていた。もしくは、狂気かもしれない。
     だが、次の瞬間、ガラリと表情が変わる。まるで別人にでもなったかのように、穏やかで落ち着いた青年のものへと。
     わずかな空白の間のできごとに、彼は気づいていない。少しだけ、かすかな違和感を打ち消して、青年は酒場を後にしたのだった。
     彼の心の奥底で、暗い声が呟く。
     また、会おう……と。
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