| 中津川区の史跡 |
中津川の部落は、今から、約千年前 西暦950年(平安時代)ごろに、私たちの、 先祖たちが、苦労して野山を、切り開き、田畑を作って、住み始めたということです。
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(1)お寺 雲松寺は西暦1590年(今から400年前安土桃山時代)ごろに、
作られて、延命地蔵菩薩様を、お祭りしてあります。660年前に作られた
と言う阿弥陀如来様もお祭りしてあります。境内には、小堀遠州流の庭園や、
和気波門多の石像などがあります。
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(2)お宮 大元神社は西暦1428年(今から560年前室町時代)のごろに、
村人たちが、協力しあって、作り始め西暦1451年に完成しました。
お宮を建てた大工さんや左官さんたちが、お宮を建てた記念にと、自分の
名前や年月などを、書き残した、棟札という板が、12枚のこっています。
この棟札は、八幡浜市の指定有形文化財になって大切に保存されています。
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(3)田中山城跡 五反田元城の出城で井上治部小輔元安と言う人が、城を守っ
ていた。後に子孫が、中津川の庄屋となる。この人のお墓がある付近を丸
塚と呼んでいる。日の地の稲荷山にも日の地城が、あったと言う、このお
城の堀があった所の土地が、今でも(ほり)と言う。
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(4)中津川庄屋跡 井上治部小輔元安が、一代目の庄屋になってから、井上姓
の庄屋が、12代まで、約230年間続く、その後和気貞国(波門多父)
が庄屋となる。和気姓の庄屋が、3代続く西暦1870年(今から119
年前)八幡浜地方で、芽ノ川騒動と言う、百姓一揆が起きた。八幡浜市の
庄屋たちが、恐ろしくなって、宇和島や山奥に逃げた。中津川の庄屋にも、
民衆たちが、竹槍、ほらがい、むしろ旗を、押し立てて殺到した。しかし
この時、庄屋和気波門多貞規は、日ごろの行いどおり、すこしもあわてず
家の内を、掃き清め、ムシロを門内に敷き、羽織袴を着けて正座し「百姓
衆、よく来られた。さあさあ存分にして下さい。少しも遠慮はいらぬ」と
礼儀正しい言葉で迎えたので、勢いたつ民衆たちも、庄屋の態度に心をう
たれ、ついに、退散したと言われる。波門多の子和気哲哉は、馬に蹴られ
て腸が出た人の腹を縫い合わしたほどの有名な医者でもあった。中津川の
道路も作ってたばこ屋横の橋は幼少の名前をつかって(わたるはし)と言
う。
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(5)辻の堂(つじんど)午地と若山との峠に、お地蔵様をお祭してある。
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(6)池が成る(いけんなる)日の地と国木との峠に、お地蔵様をお祭してある。
富田信濃守知信という殿様が、池を作る為に、土地をなるくしたところか
ら、(いけんなる)と言う言い伝えがある。布喜川では、殿様が、作った
池を富田池(とんだ池)と読んでいる。
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(7)仏の峠(ほとけんと)矢野畑の入り口のところに、お地蔵様をお祭してある。
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(8)薬師堂 タバコ屋裏の畑の中にあるお堂はお薬師様をお祭してある。
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(9)下日の地のほこら 昔、修験僧か山伏かが、生きたまま土の中に入って、
鐘をたたき、念仏を唱え、食事も取らず、生きながら仏様になったと、
いいつたえられている。近くにはお地蔵様もお祭りしてある。
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(10)中津川小学校跡 午地 雲松寺の下に、明治8年〜明治13年(今から
115年前)にかけて、建てられました。当時としては、たいへん立派
な学校だったそうです。校長先生は和気波門多で男子30名と女子10
名合計40名の児童がいたそうです。明治29年に、若山の学校へ統合
されて、中津川小学校は、なくなりました。若山へ引っ越す時、エレキ
テル(静電気を起こす機械)もあって、20人〜30人で回すと、ビリ
ビリと、電気がきたと言うことです。 1989年記
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