初めて大島青松園を訪れたのは昭和56年の7月でした。
大島の対岸である高松港の中央桟橋で、行くなとまでは言われないまでも、なんの用事で行くのか?と、周りの人達に詰問されました。一般人や職員の船室とは別に、元患者用の船室が甲板下にあった官有船(青松)でさえも、納入業者や工事業者の間で言い訳のように、何故に訪問しなければならないかが語られました。
大島を夕方5時過ぎに出発する官有船を待つ園の桟橋には、工事や用を終えた大人たちが大勢たむろしておりましたが口々に、仕事だからしょうがないけど、2度と来たくはないな〜と言う言葉で溢れていました。
元患者達(ハンセン病回復者です)は、大島の療養所の中に居てさえも、心が和む時ばかりではありませんでした。島の外から訪ねて来たと思われる人達に対しては緊張の連続であったと思います。又介護に携わってきた職員達も一歩島を出れば、療養所に勤めているという事で周りから白い目で見られてきました。
少しづつ緊張がほどけて来たのは、ライ予防法廃止と裁判訴訟で勝ってから後です。
私が初めて訪問したときは500名近い回復者が居られ、人の声もよく耳に入りましたが今は三分の一に満たない135名で、園内は静かな時が流れるだけです。回復者にとって療友が一人、又一人と亡くなって行く事は何よりも寂しい事のようです。
25年間訪問し、お付き合いして来ましたが、苦難と屈辱の長い歳月を生きてきた回復者の、胸の奥底にあるわだかまりが少しでも溶けるような付き合いを、これから先も続けていけたらと思っています。
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kanri
平成に年号が変わっても、高松と海上を隔てた大島へ対する感情は、島を取り囲む海の上でも、目と鼻の先の地でも、厳しい言葉を平気で口にできる人が多く居た事を検めて記述しておきます。