私が仕事の為に始めて大島へ渡ったのは昭和五十六年の七月であった。私に同行していた若い社員が「課長、私は車の中で待っていますから」と大島へ行く事を拒んだ。どうしても島へ渡れと言われるのでしたら、会社辞めますとまで言うので、彼を車に残して私は大島行きの専用船に乗り込んだ。始めて設置された汚水処理施設監視モニターのテストを終えて、帰りの便を待つために桟橋で、施設の仕事で島を訪ねてきていた多くの人達の、話の輪の中に入り時間を過ごした。大島へ渡ることを拒んだ部下の偏見とまではいかなくても「早く島を離れたい」「二度と来たくない」ということで話が盛り上がっていたのを二十年経た今でも昨日のことのように思い出す。
当時は今のように仕事以外で人が訪れ、ましてや園の奥深いところまで足を運ぶ人も無く島の出入り口である桟橋やその近くの松林の中に置かれた木製の長椅子が、元患者さん達が島外の空気に少しでも触れたいというささやかな思いを満たす場所であった。私が手持ちぶたさに佇んでいるとなにか遠慮がちに近くまできて足を止められる。決して元患者さんの方から声をかけられる事はなく、私の方から声をかけるのを待つように佇まれる。「今日は」私はことさら弾んだ様に挨拶をした。
何処から来たん?」 「徳島です」 「そうかー俺も徳島やー」私は決して徳島何処ですかとは聞き返さず「藍住から来よんでよ」と続け「今日はあついですねー」と話を変える。今度いつ来るン?と尋ねられるので「大体五日ぐらい、月の初めに来る事ががおおいんでよ」と答える。一月後同じように仕事を済ませ桟橋手前の松林に向かうと、一月前のように同じ場所に佇んでおられた。その日は五日ではなく私の予定外の十日であった。私は申し訳無いという気持と同時に、私を待ってもらっていたんだという思いでなんとも嬉しくて、いろいろと話が弾んだ。
私は話しを聞いていて驚いた。なんとその元患者さんの実家は私のいま住んでいる所から数百メートルの所であった。私はもともと徳島の人間ではなく、九州の人間であるので、その時は今の地に二十年以上住んではいても、その家がどれかは分からずまた知ろうとも思わなかった。私の家から大島までは、途中船に乗る不便さはあっても、私にはさほど遠いと思ったことの無い距離なので、「私の車で今からでも帰ろう」と私は意気込んで話した。