明治二七年〜昭和三一年
入所 大正一五年・大島青松園
綾井 譲
父母の亡き古里の家に寝て遠く帰りし心侘びしむ
十年の久しき月にふれずして兄は苦しき生活のみ言う
幼な日に親しみ会ひし友の家月の明かりに見て通りけり
盲ひたるが布団につけし鈴の鳴る担架車を押して来にけり
健やかに働くものはよからむと女土工の逞しさ見つ
亡き父母のみもとにゆくを喜びて死を待つ妻と夜を明かしたり
沁沁といたはりやりしこともなく過ぎて来し日か心のいたむ
庭の桜すでに一葉とどめざる木の間に見ゆる冬潮の色
草の実のつきたる裾をはらひつつはろばろと来し喜びを言ふ
洗い上げて目籠に運ぶ玉葱の肌くきくきと音をたつるも
ゆうべ死にし友の名前は朱に書かれ食事移動の伝票が来つ
癩のため一生を尽くしたまひきと思ふ泪の膝にこぼれぬ
故郷を出でし記憶の杳けくて癒えて帰らむ日のつひになし
幸福とはつづまり遠き希ひにて照りはじめたる海の夕月
食事時間になれば即ち解決のつく会議にて愚論を出でず
軍備なき国はたたぬと何処よりか声をあげたり平和に脆く
面会を告げて来にけり喜びは予期せざるときもっともふかく
いたはられいる身と思へ縁に出て萎えたる足の爪切らせおり
指のなき掌にたまひたる桜餅舌の先にて剥がしつつ食ふ
観衆の吐き出されたる会場にめしひ足委義足のわれと
熱に臭き息吐きつぎて臥りをり暮れなむとしてながき黄昏
春の日の黄昏ながく漂へば干潟に海苔の乾く匂ひす
思ふこと素直に吐かぬ人と対ひもやもやとしたる腹さぐりあふ
びっこひく影を路面に踏み来つつわれより他に縋るものなき
愛情にいだかれいたり遠く来てあなたに靴の紐結はせつつ
掌に結ひしレンズの中に劃然と澄みたる活字拾ひつつ読む
輝きて雫きはじめし屋根の雪くすりをのみてまた眠らなむ
丸鋸にきびしき音をたてながら分離するものまた快し
食道の麻痺など告げて喉ふかく覗かれてをり呼吸をひそめて
更け沈む夜の舗道に寂かなる唸りをたつるトランスがあり