大正六年〜
入所 昭和八年・大島青松園
朝 滋夫
霜の暁ふとんに顎をうずめいてみずからの嗅ぐ息なまぐさし
壁をへだてて聴くひとの声ほのぬくしよしんば吾が誹れいても
水甕のくらがりに寒の水をみたし妻の和解はおもむろにくる
仰向きし顔に尿をして去りし蝉くやしくてならぬほどではなきが
擂り潰されている胡麻なれば擂鉢の底の無残が匂ひたつなり
らいに罹りてなぜ死を選らばざりしやと問い詰めし人を忘れかねいる
胸底の妻にも見せぬくらがりに殺生石を置きて患みいき
背中合わせに眠りゆく妻ふるさとの異なる海が光ておらむ
内障なる視野に鬱前と立つ樹木近づきゆけばざわめきいたり
等身大にくぼめるベッド寝返りを打つたびに身はそこへずり落つ
無影灯の下にさらしている患部せっぱつまってするかたちなり
おのずから吾が体温に同化する尿瓶を抱きてやすらぎにいる
目に頼りていたりしころは平坦に思いし路上でこぼこ多し
目を患みて背をよす場所のあけくれに柱が汗のにほいを放つ
いま友が立ち去りてゆく靴のおと聴覚及ぶ範囲より消ゆ
手も足も麻痺すれば身を沈めゆく湯は鮮烈にふぐりより沈む
疵のある足あげて湯に浸かるときさびしきまでに男さらせり
枯葉捲いて風吹きくるふ広場には誰もいる筈はなきに賑わふ
白い杖にも慣れて探りゆく道の角石あればひとつ叩いて曲がる
眼前にさし示されし指二本たしかにし見ゆまぼろしならじ
「十年ぶりにお目に掛かります」と吾が妻に拙く言いて目頭熱し
目を病みていついつとなく忘れいし鼻こする妻の癖にまた遇ふ
目の前に妻が味見せよと言いさしのべて来しこんにゃく震う
すがりつくものなき砂浜の蔓草は蔓草同志絡みあひて伸ぶ
余病なき妻のひと日の屑捨てに来て大いなる落日に会ふ
嵐過ぎてひきお越しやるひまはりは死者に似て花の首定まらじ
積み上げて常に用意されている倉庫の中の棺見たりき